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春を見つけること、届けること、喜ぶこと🌱

そろそろ、スーパーの野菜売り場にも、フキノトウやタラの芽などが並ぶ頃ですね。
先日、朝のニュースで、フキノトウなどが出荷される様子を伝えていました。その中で、出荷する農家の方がとても素敵なことをおっしゃっていました。「毎日、春が来ないかなと思いながら出荷していて、自分にも春を届けている。」何気なく出た言葉のようでしたが、だからこそ、とっても心に残りました。
店先で、フキノトウを見つけて嬉しくなるのは、こういう方々が、心を込めて作って、送り出してくださっているからなんだと、納得しました。

私には、明治生まれと大正生まれの祖母がいて、それぞれが、また、時には二人揃って、よく、春の野草や山菜採りに連れて行ってくれていました。
フキノトウ、タラの芽、ワラビ、ナズナ、ヨモギなどを籠いっぱいに摘んで来て、いろんな料理を作りました。
これは、キノコ狩りにも言えることですが、野山で山菜などを探していると、不思議に遠くからでも、あ、あそこにあるぞ!と見つけられるようになります。そうすると、もうそれしか目に入らなくなって、険しい道も、藪の中も、ズンズン進んで行けるのです。たくさん採って褒めてもらうのも、すごく嬉しくて、ワクワクしました。あの時の土の匂いを思い出すと、今もワクワクします。

沢田研二さん主演の「土を喰らう十二カ月」という映画を見た時、その土の匂いがスクリーンからふわっと漂ってくるような気がして、ワクワクしました。土の恵みと向き合って、丁寧に暮らす主人公の沢田研二さんが、しみじみと味わい深くて、素晴らしい映画でした。その中で、奈良岡朋子さんが演じられていた老婦人の潔い野山と一体になったような生き方も、印象的でした。そしてその姿は、どこか祖母達の姿と重なりました。暮らし方は様々でも、野山に生えているもの達への感謝や慈しみをいつも当たり前に持ちながら生きていたようなところが、その世代の方々にはあるのかなと思いました。

道を歩いていて、よそのお宅の庭にフキノトウを見つけると早く採って食べればいいのにな、気づいてないのかななんて、おせっかいなことを考えてしまいます。天ぷらもいいし、味噌で炒めてもいい。母がよく作って送ってくれた、おひたしも美味しかったなあ。冷凍にして少しずつ食べていたけど、あれはすごく贅沢な春の楽しみ方だったんだと、今頃気づいています。

そういえば、何年か前、車の助手席に乗って外を眺めていたら、遠くの空き地のあちこちに、ナズナが生えているのがくっきり見えて、びっくりしたことがあります。他の植物もたくさん生えていたのに、ナズナだけ、浮き上がるようにはっきり見えました。ナズナを見つける不思議な眼力が、まだちゃんと残っていたことが驚きでした。

春を待つ想いというものは、今も人の心の中に自然に息づいているものなのかもしれません。
たとえ野山に囲まれた生活をしていなくても、出荷農家の方々の優しい気持ちがふんわり乗った山菜や野草が、いつも私達に、春を運んできてくれているんですね。🌿


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