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それは横浜銀蝿から始まった! HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.16 横浜銀蝿『ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)』 

■ 横浜銀蝿『ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)』 作詞:作曲:編曲:タミヤヨシユキ 発売:1981年1月12日

1981~1984 それは横浜銀蝿から始まった。

2学年違いの弟がいる。

音楽に興味を持ったのは、年齢的に当然、自分の方が早かった。僕が中3になりビートルズをはじめ洋楽を聴きだしても、当初は興味をまったく示さなかった。まあ、中1ならそんなものだと思う。僕もそれくらいの頃は『ザ・ベストテン』に登場する歌手たちくらいにしか興味がなかった。

そんな彼がいきなり飛びつくように興味を示したのが、横浜銀蝿だった。時は1981年。リーゼントにサングラス、そして革ジャンに白のドカンといういで立ちの彼らに感じた当時のローティーン達の衝撃は、今の同年代の子供たちにはどう説明してもなかなか伝わらないかもしれない。

なぜあれを格好良いと思ったのか。自分のことながら説明に困ってしまう。「ツッパリ」「暴走族文化」の隆盛、他にも色んな要素があったと思う。この記事のテーマはそこではないのではしょるが、ともかく彼は横浜銀蝿に激ハマりした。

もちろん、それは彼だけのことではない。最初に衝撃を受けたバンドが、サザンでも、ツイストでも、RCサクセションでもなく、横浜銀蝿だったという年代が確実に存在すると思う。

彼は、同時に「これと同じことをやりたい!」と思ったらしい。父親が若い頃に弾いていた、弦のサビたクラシックギターを唐突にじゃかじゃかとやりだした。

実は、少し前に僕もこのギターを(松山千春に憧れて)手にしていたのだけれど、一向に上手くならないのにしびれを切らして投げ出していた。こらえ性のない兄と比べて、彼にはその辺の根気もあったようで、しばらく後には安物のエレキギターとアンプも両親にねだって手に入れ、熱心に練習を重ねていたようだ。

高校に入ると、ついに友人たちとバンドを結成。そして、よくある展開だが、担当楽器をジャンケンで決めることになり、結果、彼はドラムを叩くことになる。その時点で、ドラムに触ったことはほぼなかったと思う。ギターからドラムへのコンバート。思えば、このジャンケンが彼の人生の分岐点となった。

その頃(84年)には、もう彼は横浜銀蝿は聴いていない。というか、あれほど信奉していたはずが「あんなのはニセモノ」と小バカにするようになっていた。宗旨替えした彼の部屋に転がっていたカセットテープといえば、モッズ、ルースターズetc.。

弟に限らず、横浜銀蝿がバンド活動のルーツにあることを、意識的もしくは無意識的に隠す(というわけでもないだろうが)ミュージシャンは結構いるのではないか、というのが僕の同世代的印象だ。横浜銀蝿の可哀想な(?)ところは、彼らが芸能史的には大きな足跡を残したにもかかわらず、それに比して音楽史的な評価がまるでなされていないことだと思う。

また、僕が当時大好きだったRCサクセションは、ほとんど彼には響いていなかったように思う。たった2歳の差だが、影響を受けるもの、刺さるものはかなり違う。そして、こと邦楽に関しては、この頃には弟の方が詳しくなっており、逆に僕の方が彼から新しいアーティストを知るようになる。例えば、SION、ブルーハーツなどにしても、後に聴きだしたのは、彼の方が早かった。


1985~1989年 インディーズ・ブームからバンド・ブームへ。 

そして、翌85年である。「インディーズ」という言葉がいきなり一般的になったこの年、弟たちのバンドもラフィン・ノーズのコピーを熱心にやっていたらしく、『Paradise』『Get The Glory』等を大音量で流しながら、ドラムを練習する音が家の中に響き渡っていた。

周囲100mに一軒の家もない環境なので、まわりに迷惑はかけていなかったものの、正直、家族はたまったものではない。弟の部屋の隣は、当時、70歳を超えていた祖母の部屋だった。「わたし、音楽が好きやから、なんともないよ」などと言っていたが、どう考えてもそんなわけがない。鳴り響いていたのはラフィンやスターリンとかだったのだから。

しかし、そんな祖母が顔色を変えて、僕に訴えてきたことがある。手には、弟のステージ衣装と思しき、ビリビリに破いたTシャツが握られていた。「むさや~。あの子、学校でいじめられとるんやないか?」と真剣に言う祖母に苦笑しつつ、「わざとやっとるんや。それがカッコイイんやって」となだめたが、「破れとる方がカッコイイってどういうことや?」と、なかなか納得してくれなかった。

一度だけ、その頃のライブを観た記憶がある。典型的な高校生のコピーバンドという感じで、当時から本人は「プロになる」と鼻息が荒かったが、素人目にも、とてもプロ・ミュージシャンなど考えられるようなレベルでなかったように思う。

だから、高校を卒業後、彼が地元で就職を決めた時は、意外に思いつつも、どこかで納得している自分がいた。

そんなものだよな、とも思った。地方では少年が大人になるのは早い。高校を卒業して数年働いて、20代前半で結婚。20代半ばにはすでに子供が2、3人いるなんて、当時ではごく普通のことだ。

弟にしても、そういう風な人生を歩んでいくのだろうと思っていた。親の援助を借りて家を建て、子供を育て、定年まで働く。それだって、全然悪い人生ではない。むしろ今から考えれば恵まれた形なのかもしれない。

「一緒に東京に行こう。俺とお前なら無敵やろ」と、『青春アミーゴ』の歌詞みたいなやりとりを、バンドのボーカルと交わしていたのを度々耳にしていたので、勝手に少し寂しく思いもしたが、彼の人生にとってはその方がいいのだろうと思っていた。

弟が働きだした年の夏、僕は2年間のアメリカ留学に出発した。アメリカにいる間も月に何度かは家に電話をして、家族の近況などを聞いていた。
弟が仕事をやめた、と聞いたのは、一年が過ぎて、一時帰国を間近に控えた頃だったと思う。

バンドをやりに、東京に出て行ったのだという。驚きつつも、「ついにか」と思う気持ちもあった。このまま普通に大人しく会社に通い続けられるタイプの人間ではないのはわかっている。

時はバンド・ブーム真っ只中の89年。後で本人から聞いたのだが、並外れて面倒見の良い友人が東京にいて、住むところだけでなく、働き口までも、その友人が用意してくれたのだという。働き口というのは、高円寺のライブハウスだった。なんとも出来る友人である。

弟のアパートには、一時帰国からアメリカへと再び戻る時に立ち寄った。ライブハウス勤めなので、夜が遅く、ゆっくりと話す時間はなかったが、朝、空港へと向かう時に、最寄りの駅のホームへの道すがら、一緒に歩きながら会話を交わしたのが記憶に残っている。

「今、売れてるバンド、例えばジュンスカとかユニコーンとかみていると、大体25歳くらいなんだよな。それくらいの年になってどんな音楽をやってるか。そこが勝負だと思う」と彼は言った。当時の彼は21歳になったところ。あと4年、と僕は思った。今なら短いと思うが、当時の僕らにとって4年ははるか先にも感じられた。

そして、おっつけ東京にやってくるはずだった、高校時代のバンドのボーカルは、結局、上京してくることはなかったことも聞いた。これから彼はたったひとりで、東京の音楽シーンの荒波に漕ぎ出していかなくてはならない。

1990~1992 刻々と迫るタイム・リミット。

東京での彼のバンドを初めてみたのは、それから約一年後。その頃には僕も東京で働き始めていた。場所は、彼の勤務先でもあったライブハウス、演奏を観るのは高校時代以来だった。3人組のそのバンドは、なかなか面白い音を鳴らしていたけれど、正直にいえばプロとかそういうレベルがイメージできるバンドではないなと思った。

メンバーは全員20代前半。音楽的趣向も定まっていない時期だ。デモ・テープを聴かせてもらっていたが、メイン・コンポーザーであるギター、ボーカルの嗜好が70年代ロック寄りに変わり、曲もビート・パンク然としたものからどんどん変化していった。そのうちにメンバー間の音楽性がちぐはぐになってしまい、ほどなく解散してしまった。

彼には、すぐに別バンドから声がかかって加入を決めたのだが、それはモロに60年代的なロックン・ロールをやるバンドだった。流行りのビート・パンク風から、革ジャン&リーゼントへ大変身である。約10年前、横浜銀蝿に夢中になっていた頃の彼の姿が思い出されて、笑ってしまった。ルーツに戻ってきたということか。

前のドラマーが脱退して活動休止する前は、随時200名ほどの動員があったという、なかなかの人気バンドでもあった。そのバンドのライブも、新宿アンチノックで一度だけ観た。さすがに人気バンドだけあって、楽曲はキャッチ―で演奏はまとまっていたし、ボーカルにも魅力があった。

でも…。飛びぬけた個性のようなものは感じなかった。当時の僕は、ロカビリーのスピード感と90年代的なヘヴィネスを兼ね備えたバンド、ブランキ―・ジェット・シティにどハマりして、関東近辺のライブは軒並み観に行くほどに、熱心に彼らを追いかけていた。

彼らの、あの膨大な熱量に満ちた演奏、60年代の音楽に影響を受けながらもそこに留まらない新鮮なアイデアに満ちた楽曲にふれていた僕には、そのバンドの楽曲や演奏は、厳しい言い方をすれば、古のロックン・ロールをただなぞっているだけのようにも感じられた。

余談だが、ブランキ―といえば、彼が働いていたライブハウスは、ドラムの中村達也が当時頻繁に出入りしていたらしく、まだイカ天出演前、結成後わずか数か月時点のブランキ―のライブも観たことがあると聞いた時は、素直にうらやましかった。最初からすさまじいライブを展開していたらしく、「イカ天とか出なくても、すぐに話題になって成功してたと思う」というのが、彼の感想だ。

いつのまにか、弟も23歳になろうとしていた。「25歳が勝負」でいえば、あと2年。でも、あのバンドにいても…。と思ったのは、彼も同じらしく「今、別のバンドからも誘われていて、考えてる最中」という会話をした記憶がある。

そのバンドの名前には聞き覚えがあった。テレビの深夜番組で(バンド・ブームの時は、地上波でインディーズ・バンドの演奏が流れることもあった)演奏を聴いたこともある。メンバー全員が黒ずくめ。ボーカルは抑揚の少ないメロディーを俯きがちに歌い、変則的なビートに轟音ギターが乗る。感想を一言で言うなら「どアングラ」。弟が在籍しているバンドの、60年代的ロックンロールの世界とはほぼ真逆の世界だ。正直、今よりもさらに売れそうにないバンドに思えた。

それでも結局、彼はそのバンドへの加入を決め、結果、以前のバンドは弟を含め、他のメンバーも脱退を表明し、あえなく解散となった。彼がそのバンドにいたのは1年にも満たない期間だった。

バンド活動の傍ら、彼のライブハウス勤めも3年近くになり、店長を任される立場にもなっていた。その頃の会話で、こんなことを言っていたのを覚えている。

「今まで300近いバンドを観てきたけど、メジャー・デビューしたバンドはひとつもないよ」

当時は、まだバンド・ブームの残り香もあった時期のはずだが、それでもこの厳しさなのだ。あと2年ほどに迫ったタイム・リミットに、彼は間に合わせることができるのだろうか。

1992年 夏~秋 そして、旅立ちの時。

「これ、新しいバンドのデモだけど、聴いてみる?」とカセットを渡されたのは、それから半年以上が経った頃、92年の夏前くらいだったと思う。またどんなドロドロの世界が展開されているのかと、期待と共になかば恐る恐るテープをセットした。

驚いた。

以前のアングラさの欠片もないギター・ロック・チューンだったからだ。内容としては、RIDE、Primal Scream、My Bloddy Valentainなどのシューゲイザー的英国ギター・ロックというか、そんな感じの音だった。

音像は日本人離れしていて、一聴して、バンドのセンスのよさを感じさせた。特に、ギターの響きに惹かれた。これまで聴いた彼のバンドのデモ・テープとは、レベルが全然違う。

もっとアングラな感じかと思ってたと素直な感想を伝えると、「この曲をやるようになってから、客が踊るようになったね」との返事。今のバンドに手ごたえがあるのか、そう答える横顔からは自信というか充実感のようなものが漂っていた。一度ライブを観てみたいと言うと、いいタイミングの時に招待すると約束してくれた。

実際にその日がやってきたのは、それから数か月のち。参加したオムニバス・アルバムのリリース・イベントがあるというので、観に行くことにした。確か92年11月頃。会場は、クラブ・チッタ川崎だ。

怪人・北村昌士プロデュースのオムニバス盤ということで、個性的かつバラエティに富んだバンドたちが次々に登場した。個人的には、元GO-BANG’Sのギタリスト、POCOPENのユニット、CAMERAが、とても印象に残った。

弟のバンドは、トリ前に登場してきた。上手側に相変わらず黒ずくめのギター、ボーカル。下手側に立つベースは、おかっぱ頭で中性的な雰囲気を漂わせている。

1曲目は、デモ・テープで聴いた曲だった。けれど、アレンジは大幅に変更されていた。テンポが劇的に速くなっていて、ギターの轟音度も上がっている。強烈なサウンドだが、ギター、ボーカルは海藻がゆらゆらゆれるような調子で、轟音のなか、ゆっくりと身をゆらしながら目を閉じて瞑想するかのように歌っている。その佇まいに、不思議な魅力を感じた。

ベーシストも同じくで、ビートに乗っているのかいないのか、斜め上のあらぬ方を見つめながら淡々とベースを弾いている。その飄々とした風情と、繰り出されているサウンドのギャップ。ほんの数分で、僕はこのバンドに完全に魅了されてしまった。音的にも90年代の英国のギター・バンドたちのサウンドとリンクしながら、そこに留まらない個性を感じた。

目の前ではギタリストが超高速のカッティングから、魔法のようなリズムとフレーズを次々と紡ぎ出している。延々と続く轟音の渦が、やがてスローダウンし、曲が終わりに向かうと思いきや、音の霞の向こうから聞き覚えのあるフレーズが耳に飛び込んできた。ベルベット・アンダーグラウンドの曲だった。ゆったりと始まり、徐々にスピードを上げ、またもや轟音の渦が巻き起こる。

間奏の途中で、ドラムのリズム・パターンが変わった。特徴のあるこのフレーズは「ビートルズの『Tomorrow Knever Knows』?」と思っていると、果たしてボーカルが聞き覚えのある歌詞を歌い出した。ビートルズ随一のアヴァンギャルドなナンバーが、猛烈に疾走感のあるギターロックに変わっていた。

これほどに激しくカタルシスに満ちたビートルズ・カバーを、僕はその時点で聴いたことがなかった。音の渦に巻かれて翻弄される歓び。激しさとともに不思議な浮遊感に包まれる催眠的な快楽。初めて誘われた境地に、ほぼ陶然としながら、ステージを見つめていた。すでにメンバーの一人が身内であることを、僕はほぼ忘れ去っていた。

彼らの演奏時間は約30分。曲数は3曲。後半2曲はメドレーだったことを思えば、実質2曲だけだった。けれど体感時間としては、あっという間。「もっと聴きたい」という思いと、深い満足感。どちらにも僕は包まれていた。

あと一バンド残っていたけれど、僕は会場を出ることにした。別の音を入れるより、余韻に包まれていたい。何歩か歩いたところで、声をかけられた。バンドのマネージャーさんだった。「よかったら、楽屋に来ませんか?」という誘いを、「弟にはすぐ会うので、感想はその時に伝えます」と断った。ロック・バンドの楽屋など訪ねたこともないので、気後れしたのだ。

川崎駅に向かって歩きながら、僕はこれまでのことを思い返していた。彼が横浜銀蝿を観て急にギターを弾きだしたのは、11年前のことだった。インディーズ・ブームに刺激を受けて、友人とバンドを結成し、部屋にドラムセットを持ち込んで叩きだしたのは8年前。そんな、どこにでもいる田舎の素朴なロック少年が、夢を追って、バンド・ブーム真っ只中の東京にやってきたのは3年前のことだ。そして、いくつものバンドを渡り歩き、ついに日本のロック・シーンの最前線を担う(かもしれない)バンドの一員になった。

その道のりを並走とはいかないまでも、僕は横目でずっとみてきた。それは、なんというか、80年あたりからの邦ロックの移ろいともシンクロしていたように思えた。

これからは、90年代邦ロック・シーンを、彼の活動を通して感じることになるだろう。彼のバンドがこれからどうなるか。それは僕にもわからない。ただ、メジャー・デビューを目標にするレベルからははるかに超えていることは、よくわかった。あのバンドにとって、それはあくまで通過点だ。問題は、音楽シーンのなかでどこまでの成功を収めることができるのか。

まずは今月末に予定されている渋谷クアトロでのワンマンを必ず観に行こう。自分の抱いた予感が正しいかどうか、もう一度確認するのだ。川崎駅の雑踏の中で、僕はそう決意した。

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