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1979年、春。YOUNG MANと基礎英語と丸石サイクル。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol. 24 西城秀樹『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』

■西城秀樹『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』 作詞(日本語詞):あまがいりゅうじ 作曲:J Morali 編曲:大谷和夫 発売:1979年2月21日

昭和54年、僕は中学生になった。

昭和54年、つまり1979年。

70年代も最後の一年。江川卓が「空白の一日」を経て巨人入団を果たしいよいよプロデビューした年であり、インベーダーゲームが大流行した年であり、海外に目を移せば英国でサッチャーが女性初の首相に就任した年であり、スリーマイル島で原発事故が起こった年でもある。

しかし、北陸地方の片隅に住んでいた12歳の僕にとっては、1979年は何より中学に入学した年として記憶に残る。

僕らは丙午世代ということもあり人数が少なく、小学校でもずっと一クラスのみ。つまりは幼稚園に入って小学校を卒業するまで、クラス替えもなくずっと同じ顔ぶれで過ごしてきた。それがいよいよ他の学校から来た生徒達とも過ごすことになるわけだ。これは単に中学に進学するということ以上に、生活を一変させる一大変化だった。果たしてどんな子達がいるのか。うまくやっていけるのか。

うまくやっていけるかということに関してはもうひとつ心配事があった。中学から始まる英語の授業だ。「英語なんてわかる気がしない。落ちこぼれたらどうしよう」何かにつけて心配性の僕は入学前から大いに気に病んでいた。

親に頼んでラジオ講座「基礎英語」のテキストを買ってもらった。実際の授業に入る前に少しでも慣れておきたい。

放送時間はたしか6時半あたりだったと思う。いつもならまだ寝ている時間。当時家にあった唯一の音響機械である小さなモノラル・ラジオの前に座り、ラジオをつけ、テキストブックを開く。内容はもちろんほとんど覚えていないが、確か最初は「Is this a pen? Yes, it is.」的なことが書かれていたはずだ。

さすがにこの程度ならわかる。「ディス・イズ・ア・ペン」はドリフ世代の僕にはなじみの構文だ。

番組が始まり、例文をネイティブらしき人の声が読み上げた。

「??????」

衝撃だった。

まったく聞き取れない。特に「Yes, it is.」の部分は「うにゃうにゃうにゃ」と言っているようにしか聞こえない。もう一度耳を澄ませて聞くと、今度は「イエッセリーズ」と聞こえた。

「後につづいて繰り返して」と言われたころで、耳がまったく反応していないので、真似の仕様もない。もっとなんというか「イエス イット イズ」みたいにはっきりした発音を予想していたのだが。

「英語って、やっぱりなんか思ってたんと全然違う!」
当然ながら荒井注仕込みの英語はまったく役に立たなかった。

「Yes, it isが、なんで『イエッセリーズ』になるんや? どこにも「セ」なんて出てこんぞ!」と思いつつ、その後も基礎英語を聞き続けたが、やはり耳の方はまったくついてこない。僕は暗澹とした気持ちで入学式までの日々を過ごした。

嗚呼、憧れの丸石サイクル

しかし、そんな悩み事ばかりでなく、楽しみなこともあった。

中学は通学範囲が広いので、自転車通学も許される。大体の男子生徒は入学プレゼントのように通学用自転車を買い与えられるのだが、それがいわゆる「ジュニアスポーツ車」と言われるもので、これに乗って登校するのが中学生の証のようになっていた。

同世代の人々は「ああ、あれか」と思い当たるだろうが、それ以外の人にはなんのことかわからないだろう。下に一例として画像を貼っておく。

これがスーパーカー世代を虜にした「ジュニアスポーツ車」の勇姿だ!

とうの昔に絶滅したと思しき、昭和の中学生の考える「カッコイイ」感を満載した不思議な形状。なぜこれを「いい!」と思ったのか、今ではよくわからない。でも小学生の頃は確かに「中学生になったらアレに乗れるんだ!」と、わくわくしながら通学路ででくわすこの自転車を熱く見ていたものだ。

黒を基調としたボディ、セミドロップ式のハンドル、シャープなライトの形状、五段変速のギア。70年代中期に爆発した「スーパーカー人気」をまともに浴びた僕らの世代には、そのすべてがハートに突き刺さる代物だった。

実際のところ、僕の家は中学から徒歩圏内だったので、通学用自転車を購入する必要はまったくなかった。しかし、どうしても欲しかった僕は両親にことあるごとにねだっていたし、同じ集落の歴代の中学生たちも大体は同種の自転車を買い与えられていたので、両親ももとよりそうするつもりだったようだ。この辺りは一億総中流時代かつ地方の「みんな一緒」というのんびりした感覚が行き渡っていた時代特有のものだろう。

入学前の春休みに、とうとうその自転車が到着した。しかし、わくわくしながらまたがってみると、当時身長145cmの僕にはフレームが大きく足がほとんど地面に付かない。無理矢理なんとか地面に足を伸ばすと、サドルからハンドルにかけての棒が邪魔になり股間を強打するという、なんとも乗りにくさ満点の代物であった。というか、単純にあぶなかった。

それでも用もないのにギアをがちゃがちゃと替えたりライトを付けたりして、その感覚を楽しみ大いに満足した。弟も羨ましがり「乗らせて!」とせまがれたが、決して乗らせなかったw。

ちなみに同級生たちもみな自慢げにそれぞれの愛車を乗り回していたが、翌年にはその熱は急速に冷めてしまった。金沢から来た転校生が僕らの自転車をみて「お前ら、そんなダセエのよく乗ってるな」と馬鹿にしたように笑ったからだ。

そういう彼が乗っていたのは、いわゆるごく普通の「ママチャリ」だった。それを思いっきり足を広げ背中を丸め気怠そうに乗る。「金沢の中学生はみんなこうだ」という。

「たしかにその方がシブイわ」彼の姿を見て、僕らは素早く納得した。

格好悪いのが逆に格好いいのだ。いかにもな格好良さを追求したようなものに嬉々として飛びつくのはダサい。ガキのやることだ。あれほど輝いてみえたジュニアスポーツ車が、急につまらないものに見えた。

やがて同級生がひとりまたひとりと、遊びに集まった時など、家のママチャリに乗ってやってくることが増えてきた。

我が校下におけるジュニアスポーツ車の伝統がいつまで続いたのか、よくわからない。しかし、80年代中頃には急速にしぼんでいたのではあるまいか。2つ下の弟の代ではすでに下火になりかけていた印象だ。ネットで情報を検索すると、ジュニアスポーツ車のブームは70年代から80年代あたりということらしく、十数年程度の短い期間に限られる。時代の徒花とは、こういう存在を指すのだろう。

「9999点!」入学式の夜に聴いた『YOUNG MAN』。

そして迎えた入学式の日。1979年4月5日

僕は真新しい、そしてぶかぶかの制服に身を包んで中学へと向かっていた。校舎の手前で見知った顔が向こうからやってくるのが見えた。一学年上の「しんちゃん」だった。当然、彼がまたがっているのは丸石サイクルのジュニアスポーツ車だ。小学生の時はよく一緒に遊んでいたが会うのは約一年ぶり。うれしくなって、「お~い、しんちゃ~ん」と呼びかけた。しんちゃんは僕の方をちらりと見たが、少し顔をしかめて、返事もなく自転車で走り去っていった。

「????」と思ったが、少しして事情を理解した。小学生時代にはなくて中学生にはあるもの、つまり「先輩」と「後輩」という関係が、ここ中学校にはあるらしいのだ。

「今日から上級生」と気負って登校していたところに、小学校時代の関係性のままに下級生から「ちゃん付け」されて、反応に困ってしまったのだ。馬鹿にされていると感じて気分を害したのかもしれない。

「なんか面倒くさいこっちゃなあ。なんで小学校と同じじゃだめなんやろう」と思ったが、しんちゃんとは同じサッカー部ということもあり、しばらくは「先輩」として接していた。けれど、お互いにそんな関係性がしっくりこず、いつしか「しんちゃん」呼びに戻るのにそう時間はかからなかった。

このあたりは田舎ののんびりした所で、ひとつ上の人たちに関しては(敬意は持ちつつも)大体ちゃん付けだったり、呼び捨てでなんの問題もなかった。

さて、入学式が終わり、それぞれのクラスにわかれた。僕は1年1組。出席番号順に席が並んでおり、後ろの席は別の小学校から来た生徒だった。偶然にも名字はおなじ「中西」。名前を聞くと「陽一」だというので、思わず吹き出した。

石川県出身の人には説明もいらないと思うが、中西陽一は保守王国、石川県において1963年から94年まで8選、なんと31年の長きにわたり県知事を務めた人物。現在でも最長記録だそうだが、たぶん今後も破られることはなさそうな高度成長期ならではの珍記録だ。

79年はそのちょうど真ん中あたり。中西陽一といえば幼児から老人にいたるまで石川県では知らない人はひとりもいない。しかし、我がクラスの中西陽一クンはいかにも優しげな風貌の人当たりの良い少年で、いい友達になれそうだった。

さて、そんなこんなで中学生活の初日が終わったその夜、もうひとつ印象的な出来事が待ち受けていた。

当時の人気歌番組『ザ・ベストテン』において、西城秀樹『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』が、初めてかつ結果的に番組唯一となる最高得点「9999点」を叩きだしたのだ。

『ヤング~』は、3月8日に6位に登場すると、翌週15日は早くも沢田研二『カサブランカ・ダンディ』を追い落とし1位に到達。その後も勢いは衰えるどころかますます増していき、得点を上げながら首位を独走した。そして、この夜4月5日に4週連続1位に加え、得点ボードの上限である9999点を記録。つまりは「これ以上の計測はできません」という前代未聞の事態を引き起こしたのだった。

ちなみに同曲は翌週も引き続き9999点を記録。5月17日にツイスト『燃えろいい女』に首位を明け渡すまで、9週にわたって1位を独占した。

4月5日は、当時日本中で吹き荒れていた「YMCAブーム」の頂点にあたる日でもあったわけだ。

けれど、僕はこのブームをどちらかというと冷めた目で見ていた記憶がある。星条旗をモチーフにした衣装は「日本人がなんでアメリカの国旗を?」と若干滑稽に思っていたし、「素晴らしい Y.M.C.A」という歌詞にしても、「まずYMCAってなんのこと?どうしてそれが素晴らしいの?意味がわからない」と感じていた。楽しげにYMCAポーズをする人々についても「はっずかしい~」としか思っていなかった。

まあ、つまりは思春期の入口にいたということなのだろう。当時の僕のお気に入りはニューミュージックの旗手、松山千春であり、もっとシリアスに人生について歌うのがカッコイイと思っていた時期だ。そんな中学一年生が、歌謡アイドル・ヒデキのYMCAにのれるはずもなかった。

それに、前年78年の西城秀樹の代表曲といえば『ブーツをぬいで朝食を』『ブルースカイブルー』などで、すっかり大人のシンガーとして脱皮していたはずが、いきなり星条旗の衣装をまとって「YMCA」なのだから、僕を含めていきなりの変貌に戸惑った人も多かったはずだ。

しかし、そんな僕をしても、あのイントロが鳴り響くと無条件に体がリズムをとるのを抑えることはできなかった。「YMCAって何?」とか至極真っ当な疑問やその他諸々を一気に思考停止させる、暴力的なまでの快感。たった数秒で日本国中を「踊らにゃソンソン式の踊る阿呆」に変える力業は、やはり凄いというか、もはや恐怖を感じるほどであった。

アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌のイントロにおける「ぶちあげ感」にも同種の何かを感じるのだが、共通するのはやはりホーンの暴れっぷりではなかろうか。あの脳天を直撃するかのような響きこそが、有無を言わさず一気に別世界へと人々をさらっていく麻薬的スイッチであるように思う。

この記事を書くにあたり、4月5日の『YOUNG MAN』の映像をYouTubeで見返してみた。巨大なアメリカ国旗をバックに、今は亡き西城秀樹がファンと思しき多くの女性たちとともにはつらつと歌い踊っている。

あの日、中学生になったばかりの僕はどんな思いで、彼の姿を見つめていたろうか。今や50代となった僕にはまったく想像がつかない。

YOUNG MANさあ立ち上がれよ/今翔びだそうぜ/もう悩むことはないんだから/ほら見えるだろう/君の行く先に/楽しめることがあるんだから

それでもPC画面の向こう側に、他校の生徒達の存在や英語の授業に不安を抱きながらも、丸石サイクルのジュニアスポーツ車にまたがって意気揚々と走り出す、あの頃の僕の姿がちらりと見えた気がした。

もう僕はとっくに若くはない。残された可能性も時間もたかが知れている、かもしれない。

でも何度でも立ち上がってみよう。今からだって「楽しめること」は、まだまだあるはずだ。なければ作ればいい。いい大人なんだから。

『YOUNG MAN』の歌詞はこう続く。

YOUNG MAN 聞こえているかい/俺の言うことが/プライドを捨ててすぐに行こうぜ/夢があるならば/とまどうことなど/ないはずじゃないか 俺と行こう

年をとるとつまらないプライドばかりが大きくなる、というのは本当の事だと思う。そんななけなしのプライドが自分の腰をますます重くさせる。新しいものに向かうことをためらわせる。

そんなものは放り出してしまうに限る。だってそれは、これ以上失敗を重ねないための言い訳でしかないのだから。

年齢は関係ない。失敗を恐れないのがYOUNG MANの条件なのだ。

本物のOLD MANになってしまう前に、行こう。

夢と呼べるものがまだ自分のなかに残されているうちに。


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