詩 『レモン哀歌』
高校二年の冬のことだったと思う。
通学バスの中で、同級生のFが隣りに勢いよく座って話しかけてきた。
Fは同じ中学出身の友人で、スポーツ万能。高校で野球からラグビーに転向すると、すぐに県の代表に選ばれた。無類のプロレス好きで、クラス対抗の柔道大会では、柔道部の主将を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを豪快に決めて、場内を総立ちにさせたりもしていた。
そんなFが、挨拶もそこそこにいきなり「俺、詩とか全然わからないんやけど、教科書に載ってる『レモン哀歌』、あれはすっげえいいな」と言いだしたので驚いた。
彼が急に詩の話を持ち出したのもそうだが、それ以上に、当時の僕が詩らしきものをこっそりノートの隅に書いていることを彼に知られているような気がして、動揺したのだ。
もちろん、そんなことがあるはずもなく、たぶん当時の僕が演劇部員で戯曲集や現代詩文庫を机に広げては始終眺めているのを、どこかで見ていたからなのだろうと思う。
要領を得ない返答をする僕を尻目に、彼は『レモン哀歌』について熱っぽく話し続けた。「一行一行、読むごとに場面がぱーって目の前に広がってきてさ。今まで何かを読んで、あんなにたまらない気持ちになったことはないな」
正直に言うと、『レモン哀歌』はそれほど好きではなかった。死ぬ間際の人間がレモンなど欲しがるものだろうか。僕にはなんだかすべてが少し芝居がかって感じられて、「これって本当にあったことなのかな?」などと思っていた。
同じ教科書に載っているものなら、たとえば宮沢賢治の『永訣の朝』の方がずっと真実味があるように感じられたし、言葉の結晶度から何から詩作品としては数段優っているのではないか。
そう思っていたのだが、僕はこの瞬間に考えをあらためた。
Fを、というか、一人の人間をして「読んだ後に自分の思いを誰かに伝えたくて、いてもたってもいられない気持ちにさせる」。そんな表現が良くないわけがない。僕の理解が浅かっただけで、『レモン哀歌』は間違いなく名詩なのだろう。
言いたいことを吐き出して気が済んだのか、Fはそれから黙って窓の外をみていた。
もしも今、Fの前に自分の書いているものを差し出したら、彼はどんな反応をするだろうか。窓の外を眺めながら、僕はそんな夢想をしていた。「すっげえいいな」と言ってくれるだろうか。考えるまでもなく「無理だろうな」と思った。元よりそんな勇気は僕にはなかったけれど。
今でも詩を書き上げた後、同じように考えることが度々ある。これはFに見せるに足るものだろうかと。そして、その問いに対する答えもずっと同じままだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
Fは高校を卒業した後、調理学校に通って板前となり、その後父親の小料理屋を継いだ。
僕が郷里に戻った翌年、友人たちと初めて彼の店を訪れた。通された部屋にいると、一目で彼の娘だとわかる女の子が、緊張した面持ちで料理を持ってやってきた。続いてFもやってきて女の子の頭に手を置くと、来年中学に入るのだと言った。友人の一人が「それならうちの娘と同級生やな。よろしくね」と声をかけた。その時だけ彼女はニコリと笑った。
大小ふたつの背中を見送ったあと、Fの作った料理を食べながらぼんやりと考えていた。
彼女もいつか『レモン哀歌』を読むだろうかと。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?