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清志郎とヒロトと一枚の手袋と。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.21 The Blue Hearts『少年の詩』 忌野清志郎『Around The Corner 曲がり角のところで』 

■The Blue Hearts『少年の詩』 1987年5月1日 作詞:作曲 甲本ヒロト 編曲:The Blue Hearts 浅田 孟 
■忌野清志郎 『Around The Corner 曲がり角のところで』 1987年2月25日 作詞:作曲 忌野清志郎
 

バイト先でザ・ブルーハーツと遭遇!

前々回Vol.19「昭和の最後にクラッシュギャルズと小人プロレスを観た」でバイト先での経験を書くうちに当時(86~87年)の思い出が色々と蘇ってきた。ということで今回もその頃の話を。

さて、バイト先では、コンサートやイベントの設営撤去、場内整理など単発のイベントへの派遣仕事が多かったということは、前々回で書いたが、他にも毎週レギュラーで入る現場もいくつかあった。

ひとつは名古屋球場でのビールの売り子。そして、もうひとつが今回のテーマである、テレビ局での仕事だ。

といっても、僕が担当していたのは、公開バラエティー番組の収録に訪れる観覧者たちを受付し、スタジオの前に整列させ、彼らの荷物を預かり、スタジオへと送り出す、そして終了後は預かった荷物を返す、ただそれだけのことだった。いわば雑用係である。

番組は毎週土曜午後5時から1時間の生放送。売りはブレイク直後の若手アーティストたちのゲスト出演だった。記憶に残る出演者は、The Street Sliders、久保田利伸、C-C-B、中村あゆみ、etc. ロック系のアーティストが多かった印象だ。

毎回ではないが、番組終了後には観覧者へのサービスとして彼らのミニライブが行われることもあった。そんなときは、そっとスタジオに忍び込んでライブをしっかり堪能した。

そんなゲスト・アーティスト達のなかで、特に印象的だったのは『リンダリンダ』で衝撃的なデビューを果たし、社会現象的な人気がまさに爆発しようかという時期のザ・ブルーハーツだ。

旬のバンドだけに観覧者のファンたちからプレゼントがいくつも持ち込まれていたが、それらはもちろん直接メンバーに渡すことはできない。結局、観覧者担当の僕がまずそれらを預かることになる。

両手いっぱいにプレゼントを抱えた僕は、楽屋というか、出演者やスタッフがいっしょくたにたまっている大部屋に移動した。

ブルーハーツのメンバー4人は、ひとつのテーブルで頭を寄せ合うようにして何かを話していた。近づくと、真ん中には地図が広げられているのが見えた。どうやら彼らは大阪への移動ルートについて話し合っているらしかった。マネージャーらしき人の姿もなかった。この時期の彼らは自分たちで車移動していたのだろうか。

「失礼します。こちらファンの方々からのプレゼントです」と声をかけると、4人はくるりとこちらに顔を向け、声を合わせて「ありがとうございま~す!!」と学生バンドのような快活さで返事をしてくれた。

ヒロト、マーシー、河ちゃん、梶くんの視線を一斉に浴びてドギマギしたが、極力それを見せないよう普通を装い、机にプレゼントを置いて退室した。

持ち場に戻り「うわ~、ブルーハーツのメンバーと(一瞬だけど)話しちゃったよ!」と、ひとりで静かに興奮したのは言うまでもない。

番組後恒例のミニライブは残念ながら行われなかった。もしやと思い、こっそりスタジオに入って待機していたので(通常は、スタジオの外で観覧者を待っている)、心底残念に思った。

「ブルーハーツ、知らんの?」

ブルーハーツの楽曲を初めて聴いた時期は判然としない。たぶん87年のどの時点かだろう。けれど、その場面はよく覚えている。

実家の居間で寝転がっていると、弟の部屋から鳴り出した音楽が薄く耳に入ってきた。曲名もわかっている。彼らのファーストアルバムに収録されている『少年の詩』だ。

「パパ ママ おはようございます 今日は何からはじめよう」というシンプル極まりない歌い出しから、楽器隊がいっせいになだれ込んで怒濤のロックンロールへ展開する。

初めて聴いた曲だったけれど、すぐに耳が吸い寄せられた。ダミ声で太いボーカルはどこか横浜銀蝿を思い起こさせた。サウンドも基本シンプルなロックンロール。だけど、パンク・ロックを感じさせる音像は横浜銀蝿のそれとはまったく違う。

これ、すごいカッコイイな。でも誰?まさか83年に解散した銀蝿が今風の音で復活したのか?いやいやまさか。

今思えばなんともトンチンカンな感想だが、ブルハに初遭遇した僕の嘘偽りない感想がこれだった。

弟が居間に来た時に訊いてみた。

「さっき聴いてたヤツってなんや?横浜銀蝿か?」

「アホか!あんなんと一緒にすんなま」と彼はおもいっきり顔をしかめながら答えた。

「ブルーハーツやん。知らんの?」と弟が言って、僕は初めてバンド名を知った。

それからは『リンダリンダ』を聴き、アルバムを聴き、テレビで圧倒的なパフォーマンスを観て、他の数十万人の若者と同じくすみやかにブルーハーツの虜になっていく。

しかし、振り返って思うに「これって横浜銀蝿?」という僕の感想も、実はそんなに遠くなかったのでは?と思ったりもする。

例えば、横浜銀蝿の功績をひとつ言うならば、お茶の間にロックンロールを持ち込み数多の若者にその洗礼を浴びせたことだ。大げさなリーゼント、革ジャン、白のドカン(と言われるパンツルック)でテレビに登場した彼らは、明らかに他の歌手たちとは異質な匂いをまき散らしていた。

当時の僕を含めたローティーンはまずそこに敏感に反応し飛びついた。

そして、彼らのロックンロールというよりも秋田音頭とかドンパン節に近いような和的なリズムが前面に出た楽曲は、ロックンロール未体験の子供達にはとてもとっつきやすいものだった。

彼らがどこまで意識的であったかはわからないが、日本独自のロックンロールを発明したと言ってもよいくらいだ。ただし、そのあまりにドメスティックな味わいのために、ロック史的な観点からは、彼らの評価は低いままなのだが。

翻ってブルーハーツである。横浜銀蝿がお茶の間にロックンロールを持ち込んだ存在ならば、ブルーハーツはお茶の間にパンクロックを持ち込んだ存在ではなかろうか。

『夜ヒット』などの歌番組で、華麗なステージ衣装に身を包んだ歌手たちに混じり破れたジーンズとシャツで登場した彼らの姿に、当時の十代たちは何かを感じたはずだ。それは僕らの世代が(その方向性はまったく違えど)横浜銀蝿の立ち姿に感じた何かと似通ったものがあったのではないだろうか。

彼らのアルバムを聴いた時、僕も他の多くの洋楽リスナーが感じたごとく「こ、これってクラッシュまんまじゃん!」と思ったものだった。赤い腕章をつけたヒロトとマーシーの姿をみて、その印象はより深くなった。

ただ、彼らの(特に初期の)歌メロとそのビート感は、まったく洋楽のそれではなかった。音楽雑誌でもなかば揶揄するように「昔のフォークソング的な歌詞とメロディーにパンク風の演奏を乗せただけ」などと言われることもあった。

その見方に全面的に賛同はしないが、彼らのフォークソング的というか和的な歌メロがあったればこそ、パンクロックに馴染みのないはずの当時の少年少女にもすんなりと受け入れられたのは確かだ。

横浜銀蝿は80年代初頭にロックンロールを、ブルーハーツは80年代中~後期にパンクロックを、日本的な解釈でもってそれぞれ当時の十代にわかりやすい形で提示してみせた。

図らずも、それは60年代から70年代にかけてのロックの歴史を、80年代の日本で追体験することにも似ていた、というと、これはこじつけすぎだろうか?

忌野清志郎との再会。

もうひとり、特に印象に残るのは、何度もこのシリーズで書かせてもらっている忌野清志郎である。

十代の僕の最大のアイドル。Vol.12「僕が忌野清志郎の腕をつかんだ日」でも書いた通り、高校3年のとき、RCサクセションのライブを観に行き、あろうことかステージに上がって清志郎の腕をつかむという暴挙を犯した思い出もある。

そんな清志郎がゲストとしてやってくると知った僕は、当然驚喜した。

ステージに勝手に上がって腕をつかむなんてそんな形ではなく、次はもっと違った形で出会うことはできないものだろうか?と、あれから常々思っていたが、こんなに早くその機会が訪れるとは。

単なる雑用のバイトに過ぎなくとも、清志郎が出演する番組のスタッフとして現場にいられる。そのことだけでとてもうれしかった。

さて、その日。スタッフは清志郎に内緒で、彼のファンである「そっくりさん」の若者を仕込んでいた。本番で清志郎ではなくまず彼が登場し、観覧者と清志郎本人に「どっきり」を仕掛けるという趣旨だ。

そのために本番前に彼と清志郎が会わないようにするはずだったのだが、それが彼には事前に伝わっていなかったのか、スタジオ近くいる清志郎を見つけた彼が、「わー!清志郎だ!」と近づいて話しかけてしまった。

苦い表情を浮かべるスタッフを尻目に、その青年は嬉々として清志郎に話しかけている。

意外だったのは清志郎の反応だ。突然話しかけてきたファンと思しき青年と、そのまま自然に雑談を始めたのだ。「へー、確かに似てるなー」「その服はどこで買ったの」と、まるで旧知の友人と話すような調子だ。

繊細で人見知り。勝手にそんな清志郎像を心に思い描いていたので、とても意外に感じた。

そんな清志郎の姿を遠巻きに眺めるだけで、残念ながら直接、清志郎と触れあうチャンスはまったくなかった。それでもステージを降りた普段の清志郎の姿を垣間見ることができただけでうれしかった。

それから一月ほど経って、名古屋でRCサクセションのライブがあった。たしか会場は名古屋市厚生年金会館。2日連続で行われたライブを、僕はどちらも観に行った。

その二日目だったと思う。ライブの後半で『気持ちE』が演奏された時のことだ。最後に「最高!最高!」と連呼する場面で、清志郎がすっと客席最前列に近づくと、ひとりの男性客にマイクを向けた。

「最高!」と叫んだ彼の後ろ姿には見覚えがあった。番組に来た、あの彼だ。客席に彼がいることを清志郎は事前に知っていたのか、それとも途中で気づいたのか。それはわからない。

一ファンとフランクに会話を交わす清志郎の姿を思い出して、「清志郎らしいな」と僕は少しうらやましく彼の後ろ姿を眺めた。

この頃の清志郎の最新音源といえば、RCではなく、87年2月にリリースされた初のソロアルバム『RAZOR SHARP』だ。

ロンドンに飛び、イアン・デューリーのバンド、ブロック・ヘッズとともに作り上げたアルバムの音は、それまでのRCとはまるで違っていた。

アルバムからシングル・カットされたのは『Around The Corner 曲がり角のところで』

「楽曲自体はいつもの清志郎節だけど、バックの音が違うとこうも変わるのか」というのが最初の印象だ。僕はこのアルバムに激ハマりした。清志郎関連のアルバムでは最も聴いたかもしれない。

この時のライブでは、ソロアルバム中の曲は演奏されなかったと記憶している。かわりに翌年リリースのRCのアルバム『MARVY』中の曲がいくつか演奏されていた(と思う)。

87年にソロアルバム、翌88年にはRCで2枚組『MARVY』、そして反核メッセージを前面に出し発売中止騒動にまで発展した『COVERS』、89年には覆面バンド、ザ・タイマーズでの活動など、80年代後半の清志郎のアーティスト・パワーは大爆発を繰り返す活火山状態。

一ファンとしては、本当に幸福な時期だった。

一枚の手袋の行方。

テレビ局でのバイトは、一年ほども続けただろうか。
その終りに近い頃だったと思う。

いつものようにスタジオから出てきた観覧者に、預かっていた手荷物を渡していった。手荷物は黒いビニール袋、つまりは当時のゴミ袋のなかに一人分ずつを入れていた。

ある女の子の荷物を返していた時だ。いわゆる常連の女の子で、毎週のように何度も顔を合わせているうちに、軽く挨拶をするくらいにはなっていた。

手袋を預かっていたはずなのだが、片方しか見あたらない。「いやいや、そんなはずが…」と思いつつ、袋の中を覗き込むがやはりない。

他にもお客さんはたくさんいるので、「探しておくので、後でもう一度来て」とお願いし、他の観客に荷物を返してから、もう一度ビニール袋のなかや、それらをまとめて入れていた箱の中を何度か見直した。

やはりない。

これまでこんなことは一度もなかったのに。まさか別の荷物にまぎれ込んでしまったとか。いやいや、そんなはずはない…。

件の女の子が戻ってきて、僕がバタバタとあたりをひっくり返す様子を見つめていた。

「…ごめん。まだ見つからなくて」と言うと、彼女は「すごく大事にしてた手袋なんだ…」と、小さな声で申し訳なさそうに言った。

結局、何度見直しても手袋は見つからなかった。その様子を見ていた彼女は、何か言いたそうにしていたものの、僕をそれ以上責めるでもなく、そのまま帰ってしまった。

その背中を見送りながら、彼女の落胆が伝わってくるようで、心が痛んだ。と同時に「弁償とかいう話にならなくてよかった」と胸をなでおろしてもいた。思い返すに、まったくひどいヤツである。

「ないはずがないんだけどなあ」と心の中で呟きつつ、ビニール袋を一枚、一枚あらためて確認していった。

すると、、、。持ち上げたビニール袋の合間から手袋がひとつ、するりと落ちてきた。

色はグレー、(本物かイミテーションかはわからないが)真珠の飾りが手首のあたりについている。さきほど見たものと同じだ。

「あった!」と思わず声が出た。そして、その瞬間、安堵するとともに大事なことを思い出した。彼女とは顔見知りではあったけれど、軽く会釈をする程度で名前まで聞いていなかったのだ。局に観覧者の情報はあるだろうが、それにしても名前がわからなければ連絡のとりようがない。

焦っていたにせよ、相変わらずの自分の間抜けさを呪った。

それでも「来週、彼女が来た時に渡せばいい」と思い直して、楽屋回りを担当していた女性に事の顛末を話し、手袋を渡した。彼女は「名前がわからない」という僕のありえない報告に、あからさまに「あなた馬鹿なの?」という視線を投げてきたが、これはもう甘んじて受けるしかない。

しかし翌週、彼女は姿を現さなかった。次の週も、そのまた次の週も、ついに僕がしばらくして地元に戻ることになり現場を去る日まで、結局、彼女が観覧にやってくることはなかった。

手袋のことが原因か、それとも他に理由があるのか。僕にはわからない。はっきりしているのは、あの手袋が彼女の元に戻ることはなかっただろうということだ。

もう35年ほども前のことなのに、この件はまるで指に刺さった小さなトゲのごとく、いまだにチクチクと僕の心を時おり刺激する。

失敗の大小にかかわらず、「取り返しのつかない」失敗の記憶というものは、どうやらいつまでも胸の奥から去ってくれないものらしい。

今でもはっきり思い出せる。その形、色、手に取った感触、そして彼女の僕をみるまなざし。

もしかしたら、彼女の方はそんなことがあったことすら、もうとっくに忘れているのかもしれない。たぶんその可能性の方が高いだろう。

だから僕の方も忘れてしまった方がいいのだろうか?と思うこともある。

けれど、たぶんそれは違うだろう。

大げさにいえば、これは僕が人生を通じてずっと抱えていくべき事柄なのだと、今は思う。

忘れてしまってはいけないことが、人生にはある。それが苦い経験であればあるほど。

良薬口に苦しの諺通り、その苦味は僕をこれ以上くだらない人間にしないためにも、きっと必要な類のものなのだ。

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