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14歳の『A LONG V.A.C.A.T.I.O.N』または80年代とは60'sリバイバルの10年間であった? HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.10 『君は天然色』

■ 大滝詠一『君は天然色』作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一 編曲:大瀧詠一 発売:1981年3月21日

81年のテレビCMは60年代の楽曲だらけ!

僕が少しづつ洋楽を聴き始めたのは1980年の暮れあたりから。というのも、この時期、ジョン・レノン暗殺という大事件があったからだった。ラジオは軒並み、ジョンのソロやビートルズ時代の楽曲を多くオンエアし、それらを僕はエア・チェックして、素晴らしい楽曲の数々にショックを受けた。

年が明けて、1981年。僕はお年玉でビートルズ赤盤青盤を購入し、ビートルズに急速にハマってい。と同時に、50~60年代のポップスにも興味を募らせていっ。「ビートルズをさらに理解するためにも、60年代の音楽をもっと聴いてみたい」

とはいえ、今と違って、クリックひとつでどの時代の音楽でもすぐに聴くことができる時代ではなかった。FM雑誌(というものが当時ありました!)を購入し、番組表とにらめっこしながら、60年代音楽をコツコツとエア・チェックを重ねた。

しかし振り返るに、60年代の音楽を知りたい、聴いてみたいと思っていた地方の中学生にとって、1981年は何ともタイミングの良い年だった。1980年にザ・モンキーズの楽曲がテレビCMに使われリバイバル・ヒットしたのが呼び水になったのかは定かではないが、次々に50~60年代の楽曲がテレビ画面に登場してきたのだ。

記憶に残るところをあげていくと、60年代ものでは、モンキーズ『デイドリーム・ビリーバー』『恋の最終列車』ジャン&ディーン『サーフ・シティ』ウォーカー・ブラザース『孤独の太陽』サイモン&ガーファンクル『スカボロー・フェア』、50年代からは、ダイヤモンズ『リトル・ダーリン』パット・ブーン『砂に書いたラブレター』ママス&パパス『カリフォルニア・ドリーミン』などなど。

このうち、モンキーズサイモン&ガーファンクルはベスト盤を購入。また、ジャン&ディーンから60年代のサーフィン・ミュージックの存在を知り、ビーチ・ボーイズ等を知っていった。

同時に、初期のビートルズのアルバム収録曲で、ジョンやポールが影響を受けたチャック・ベリーリトル・リチャードらのロックン・ロール・オリジネーターの存在を知り、50年代の音楽の魅力とも出会った。もちろん、この途中でジョンとポールの最大のアイドルであったエルビス・プレスリーの一連の楽曲を知る。

数々の名曲と毎日のように出会い続けた僕の81年は、まさに驚きと喜びの連続だった。

14歳で聴いた『A LONG V.A.C.A.T.I.O.N』

さて、そんな日々の中にあって、それまで聴いていた日本の音楽が、急になんだか陳腐なものに思えるようになってきた。当時の洋楽至上主義少年が陥りがちな症例で、今となっては苦笑モノだが、その時は確かにそう感じていたのだから仕方ない。それまで夢中だったはずの「ニューミュージック」を段々と恥ずかしく思うまでになっていた。

そんな14歳が突然に出会い一大ショックを受けたのが、大滝詠一『A LONG V.A.C.A.T.I.O.N(以下、ロンバケ)』だった。

当時はまだ貸しレコード店の登場前で、自由になるお金に乏しい中学生としては、やはりエアチェック頼み。最初に録ったのがどの曲だったか、いまでは判然としないが、『君は天然色』『恋するカレン』のどちらかだったと思う。続いて短い期間で『雨のウェンズディ』『カナリア諸島にて』

「今まさに自分が夢中になって聴いている60年代の洋楽と完全に地続きの音楽を、80年代の、しかも日本でやっている人がいる!」というのが最初の感想だった。

ジョン・レノンの『ロックン・ロール』のライナーノーツで、「フィル・スペクター」「ウォール・オブ・サウンド」という言葉には出会っていたし、大滝詠一の音楽がそれらに深く影響を受けた音楽を展開しているということも、たぶんFM雑誌などで読み知っていた。

しかし、情報として知っていることと、実際に自分の耳で体験することは、当たり前ですが別次元の出来事すぎた。60年代の音楽がそのまま再現されているというより、80年代の音楽としてアップデート(という言葉は当時もちろん知らなかったが)されているということに、なにより興奮した。

また、洋楽を聴くようになって日本の音楽に感じた、音の立体感のなさ、薄さなどを、『ロンバケ』からはまったく感じられないことも、大きな驚きだった。まさに『音の壁』が、僕の小さなモノラル・ラジカセからも立ち上がってくるように感じられた。

「トーン、トーン」という鍵盤を叩く音、オーケストラのサウンド・チェックのようなザワザワとした音に続いて、ドラム・スティックでのカウント、そしていきなりイントロが「ドドドドドドドドド」とあふれ出した瞬間の高揚感は、ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』を聴いた時のそれと同じ種類のものだった!

加えて詞の世界にも魅了された。たぶん、この時点では作詞が松本隆であることは知らなかったと思う。当時、彼の名前をみない日はないくらいのヒットメーカーだったので、名前自体はもちろん知っていたはずだが、その頃は作詞も大滝詠一その人がやっていると思っていたような気がする。「ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ それだけ…」なんていうハードボイルドなフレーズに痺れ、『恋するカレン』の映画のワンシーンのような鮮やかな情景描写に衝撃を受けた。

60年代風の音楽が次々にヒットした80年代前半の邦楽。

この年の秋には、ザ・ヴィーナスが『キッスは目にして!』というモロに60年代オールディーズ風の曲をヒットさせてもいた。ポニーテールにパラシュート・スカートのボーカル、コニーは、まさに60年代の世界から抜け出たような姿をしていた。

オールディーズ風のロックン・ロールといえば、横浜銀蝿が巷を席巻したのもこの年だった。ロックの不良性をことさらに戯画化した彼らの音楽スタイルは、元をたどれば、キャロル→ハンブルグ時代のビートルズという流れに行き着くと思うが、これも50~60年代の音楽を基調としているだった。

テレビをつければ、モンキーズやジャン&ディーンの曲が流れ、そして、ザ・ヴィーナスや横浜銀蝿がツイストを踊っている。81年は、まさに60年代リバイバルがお茶の間レベルで一気に花開いた一年だったと思う。

翌82年には、大滝詠一、佐野元春、杉真理による『ナイアガラ・トライアングルVol.2』が登場。この頃、ようやく地元にも貸しレコード店ができて、僕は早速、このレコードをレンタル。思いっきりビートリーな『Nobody』『Bye Bye C Boy』に歓喜するとともに、20代の若いアーティストが60年代の音楽に影響を受けながら新しい音楽を生み出していることに感銘を受けた。

中でも、同年に発表された佐野元春『SOMEDAY』は、ナイアガラ・サウンド的60年代エッセンスに、ブルース・スプリングスティーンなどのアメリカン・ロックのフィーリングがブレンドされ、新しい感覚の日本のロックの誕生を感じて思い出深い作品だ。

そんな風に60年代の音楽を聴き込んでいくと同時に、僕の中でも、趣向の変化のようなものが起こってきた。中学の時、生理的な嫌悪感さえ抱いていたRCサクセション、忌野清志郎の大ファンに気づけばなっていたのだ。

以前はまったく理解できなかった彼らの音楽が、60年代のソウル、R&Bをルーツとして持っていることがわかるようになると、全然違った風に聴こえてきた。どうしてもなじめなかったはずの清志郎の声もまた。

84年に入っても、60年代リバイバルの流れはまだまだ終わらない。この年のはじめ、突如として、60年代風のバンド・サウンドを持ったグループが大ブレイクを果たす。言わずと知れたザ・チェッカーズだ。『ザ・ベストテン』に3曲同時にランクインするなど、その存在は社会現象レベルにまでなったことは、あらためて説明する必要もないだろう。

気付けば洋楽も60年代風味に。

このような60年代リバイバルの動きは、日本だけのものではなかったように思う。日本でチェッカーズがブレイクした84年に同じく世界中で大ブレイクを果たしたアーティストといえば、マドンナ、シンディ・ローパー、プリンスなどが思い浮かぶ。

例えば、マドンナはMVでマリリン・モンローを思わせる衣装を着て話題を呼んでいたし、シンディ・ローパーはソロ・デビュー前にブルー・エンジェルというロカビリー・バンドを組んでいて、彼女がブレイクを果たした楽曲『ハイスクールはダンステリア』にしても60年代ポップスのテイストが入っているのは一目瞭然だった。プリンス「ジェームス・ブラウンのように踊り、ジミ・ヘンドリックスのようにギターを弾く」など、60年代に活躍したアーティストたちを引き合いに語られたものだった。

彼らはそのまま80年代を通して、時代を象徴するアーティストとして活躍を続けるのは周知のとおりだ。

ザ・グッバイの衝撃。

話を邦楽に戻します。80年代における60’sリバイバルを語る上で個人的にもうひとつ外せないと思うグループがある。ご存知(?)83年デビューのThe Good-Byeだ。

たのきんトリオの一角、野村義男が率いる4人組ロックグループ。デビュー曲『気まぐれONE WAY BOY』こそ作詞家、橋本淳など職業作家からの提供曲だったが、それ以降は自作曲で占められ、そのどれもが60'sフレイヴァ―に満ちたものだった。

3枚目のシングル『モダンボーイ狂騒曲』はロカビリー、4枚目『YOU惑-MAY惑』はビーチボーイズ風。極めつけは87年リリースの12枚目のシングルで、タイトルもそのものズバリで『マージ―ビートで抱きしめたい』
ある意味、こんな60年代趣味が激強い楽曲が、メジャーアイドルのシングル曲として成立した時代、それが80年代だった。

80年代後半のネオGSブーム。

一方、メジャーからインディーズの方に目を移しても、この時期(80年代後期)には、ネオGSブームが起こり、ファントム・ギフト、ザ・ストライクス、ザ・コレクターズなど、現在でも根強い人気を集めるバンドを輩出している。

GSといっても、上記の三組で一番GS風味が強かったファントム・ギフトにしても60年代のガレージロックの影響の方を強く感じるものだったし、ストライクスはアーリー・ビートルズなマージ―ビート、コレクターズはモッズと、三者三様だった。

それだけ様々な60年代音楽をベースにしたグループが人気を博していたとも言えるし、若い層の60年代音楽に対する理解度も、聴く方も、演奏する側も、この時期には相当上がっていたという言い方もできるかもしれない。

その流れは90年代、そして現在へと…。

80年代は60年代リバイバルの10年だった。というのが、このコラムの主題だが、では90年代以降はというと、やはりこの流れは根強く受け継がれていったのではないかと思う。

例えば、80年代末からのマッドチェスター・ブームにおける一連のバンドたち、その後に登場し最も大きな成功を収めたオアシス。そのどれもが60年代の音楽に大きな影響を受けていた。

日本でも同時期、バンド・ブームに登場したバンドたちに同じにおいがあったように思う。そのなかで最も大きな音楽的成果がユニコーン『スプリングマン』なのではないかなどと思ったりもする。

60年代に生まれ80年代に十代を過ごした世代が、90年代に入り、自らの作品を世に出すようになったとき、60年代リバイバルの空気を吸い込んだ彼らが、60年代の音楽のエッセンスを多分に含んだ作品を生み出していったのは、必然的なことだったのだと思う。

そして現在でも、シティ・ポップ昭和歌謡ブームという形で、80年代の音楽に注目が集まっいるが、それらの多くが60年代音楽に影響を受けているものだと思えば、ある意味で60年代リバイバルはいまだ続いているという考え方もできるのかもしれない。


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