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モーツァルトのレクイエムを歌う 3

そうこうしているうちに、10月から今度は、音楽的な指導(音の強弱や、歌詞の意味を踏まえた音楽的な表現)を前面に押し出した練習が始まった。曲の頭に戻ったので、今度こそちゃんと私も全部さらえるはずだ。
さすがにこのころになると、だいぶ歌えるようになってきているし、だんだん本番が近づいてくるので練習に熱も入ってくる。そして私も練習をサボらなくなる。

私はいつも不思議なのだが、オペラや外国語の合唱の練習の時、作品の背景や歌詞の意味について解説されることはあまりない。知っていて当然だと思われているのか、自分で調べろということなのかよくわからないが、とにかくそうなのだ。
今回なんてラテン語の歌詞だし、輸入の楽譜なので当然、日本語訳なんかは付いていない。まあ英語やフランス語などの類推から、なんとなく歌詞の意味はわかるし、先生も合唱指導の際、ところどころ単語などの意味を解説してくださる。しかし、歌詞の意味がわからないまま歌うのは落ち着かないので、歌詞などについても自分でネット検索する。
もっとも今回は、私は春先練習を3ヶ月サボったので、そのあいだに歌詞の説明があったのかもしれないし、かつ、私は仕事で参加したことはないが、いつも正規の練習前に、初心者用の強化練習があったので、そこで歌詞の説明がなされていたのかもしれない。真相はわからない。

そしてもう一つ不思議といえば不思議なのは、マエストロ(指揮者)による指導の機会が少ないことだ。
どのプロの場合でも同じなのだが、プロは本番に合わせてくるのが圧倒的にうまい。それが仕事なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが、いつもそのさまには感心させられる。
西本マエストロの場合は、本番の1週間前に指揮者による合唱指導の機会が設けられ、あとは本番前日のオケ合わせと、本番当日の公開ゲネプロだけで仕上げる。他のマエストロの場合も、概ね似たようなものだ。

だから普段の、地道で地味な合唱指導の先生の役割が、とても大切なのだ。正直なところ、合唱指導なんてなにが楽しいのか、と思うほど、地味な仕事だと私には思えるが、人生なんてたいがい地味な日々の積み重ねなのだから、それでいいのかもしれないし、合唱指揮者には、私にはわからない楽しみがあるのかもしれない。ともかく、本番までには、合唱指揮者の涙ぐましい努力が不可欠なのだ。

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