あらゆる場に「再現性」は存在し、答えの無い問題は無い

自分は大学で曲がりなりにも科学を修めてきました。科学において必ず習う言葉に「再現性」というものがあります。いつ、どこで、誰がやろうとも、必要な条件さえ整えば必ず同じ結果が得られるというものです。

自分はありとあらゆる分野において、この「再現性」は絶対の存在であると考えています。政治や経済、倫理といった「文系の分野」であっても、この「再現性」という概念からは逃れられない、全ての条件を同じにすれば正解も同じものであると考えています。

人からは「世の中はそんなにデジタルじゃない」と言われます。自分はこの考え方が根っこから間違っていると思っています。

同じ命題を前にして、所謂「1+1=2」のような共通した回答が出るわけではありません。それは「正解が無い」のではなく、自分は「持っている条件が違う」のだと見ています。

違う答えを出した各人を紐解いていくと、そもそも全くもって別の人間だということは当然わかります。生まれながらに肌の色が違うとか、どういう地域社会で育ったかとか、大まかなものも当然のこと。人間の場合下手したら生まれながらに指の長さが一ミリ違う、路傍の石に一秒目線を取られた、そんな些細なことが後から響いてくるということも有り得るわけです。勿論大半はそういったもの単体では何ら変わることは無いのでしょうけど、人生とは小さい差の集積であるのでいつの間にか違いが巨大化していくものなのです。

勿論ある程度の大別はできるかもしれません。が、全ての事柄に対して同じ答えを出す人間はそうそう存在しません。双子でもそうそう無いようなレベルで遺伝子をコピーし、正確に同じ立ち位置をなぞらないといけない。意図的に生み出すとあれば、仮に技術的な手法が確立できたところで様々な問題が付き纏う方法でしか生み出せないことでしょう。

持っているものが違い、目指すものが違う。それ故に意見の食い違いが起こるのは当然なのです。話し合いはその「違うもの」を聞き出すことが本来の目的です。何故この人はこのような答えを出すのか、自身の答えとはどうして違うのかを疑問を探り当てるものです。

このように考えれば、話し合いにおいてもとるべき態度は変わってくると思います。尤も、この話は本当に必要な人ほど「自分が正しい」と突き進んでしまうため、こうして書いておく意味は無いのかもしれませんが。自戒にはしています。

自分も今書けるものを書くに限られている身、不勉強があるかも知れません。何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。

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