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リヤカーの思い出

プラスチックケースもなく 紙箱で、洒落た包装紙といったら「バラ」か百貨店のマーク入り包装紙くらいだった時代。

世の中のお父さんたちの家族へ持ち帰る手土産の定番と言ったら

焼き鳥

この焼き鳥も、上記の洒落たケースなんかなかったから

専用の紙袋

に入れて、気の利いたところはビニール袋へも入れて、それをお父さんたちは下げて「イイ気分で」家路についていた♪

幼い頃に住んでいた家の隣は、その「専用袋」を作る こじんまりした工場があった。
そう・・・蝋引きの茶色の三角形の紙袋。
昭和より前の方は、一度は目にしたことのある紙袋である。
これが、定番だった。
焼き鳥をはじめとした店頭で売られる食材全て収まっていた。
蝋引きだから、素材からの煮汁などが出ないのである。

その工場へ、仲良しの子数名と よく遊びに行っていた。
工場にお兄ちゃんが 一人。
作業ズボンに白いシャツ、白いスニーカーを履いていた。
袋の納品時に、途中まで一緒に行っていた。
そう、公園のあるところまで。
この投稿をするのには、心に残ることがあるからである。

お兄ちゃんの名は、「しんちゃん」。
たぶん、当時20代だったのだろう。
残念なことに、本名を知らない。
納品時、リヤカーを引いていた。
私たち子供は、そのリヤカーのへりに乗っていたのである。
坂道も滅多に降りた・降ろされた思い出はない。
「しんちゃん」は、いつも笑顔で嫌な顔を見たことがなかった。
子供たちのアイドルだった。
母が 優しいしんちゃんをとても とても可愛がっていた。
「しんちゃんは とても優しいから、意地悪しちゃだめよ」が母の言葉だった。
しんちゃんの傍にいると、母は私たちを怒っていたことがあった。

成長と共に引っ越しもし、「しんちゃん」は一度は遠くになった。

大人になり、以前住んでいたところを通った時である。
飛んでもないことに気が付いた。
「子供だったけど、これは・・・」絶句だった。

自宅に帰るなり 母へたずねると 一層絶句だった。
言葉が出なかった。
当時 母が怒っていた理由をその時はじめて気が付いた。
本日の投稿は、違った〆にする。
しんちゃんは、どんな思いだったろうか・・・。

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しんちゃんへ
大人になって 久しぶりに坂をのぼって気が付いたの。
重い蝋引きの袋をリヤカーに乗せて、私たちを多い時は4名も乗せて

坂を上っていたんだという事実。

若いからと言っても、「重労働」になっていたはず。
いつも笑顔だった。いつも遊んでくれていた。
暑い夏は、腰に下げたタオルで汗を拭きながら押してたよね、リヤカー。
「降りて」って滅多に言わなかった。嬉しそうに乗せていた。
子供だったけど、残酷なことをしていたんだと。
今の場所に住み ちょっと大人になって バッタリ会ったよね。
私は、知らん顔をしてしまった。
しんちゃん、寂しそうな顔をしていた。
あの後、若くして亡くなったんだね。
かなり大人になって知ったのよ、ショックだった。
挨拶しなきゃいけなかった、優しくしなくちゃいけなかったのよ。
猛烈に後悔してる。
たまに、リヤカーや蝋引きの袋を見たり、昔住んでいたところや坂道を通る時、しんちゃん、あなたを素敵な思い出と共に後悔の思いも一緒に思い出してます。
工場のあった場所は 高級住宅地になってしまったけど、あの頃のしんちゃんもいた風景は忘れない。
大変な思いをさせていたけど、私たち子供は「しんちゃんのこと」イイ思い出になって残ってます。
子供同士「しんちゃん、大好き」だった。
ほんとに大好きなお兄ちゃんだった。
忘れないからね。
今更だけど・・・優しくしてくれて ありがとう。・・・そしてお疲れ様でした。
ゆっくり休んでください。