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道端に500円落ちていたとしても拾えない。

"いい妻"だと思われたい。

"いい母"だと思われたい。

"いい人"だと思われたい。

常に頭の中に「よく見られたい」という感情がある。自分でもびっくりするほど、とにもかくにも「よく見られたい」。



わたしは道端に500円落ちていたとしても拾えない。

心の中では、500円くらい交番に届けないでポケットに忍ばせたってバチは当たらないのでは、と思っている。


(硬貨には製造番号も記されておらず、落とし主が出てくることもほとんどないらしい。届け出たって、数ヶ月後には拾い主のものになるのだ。)

(でもみなさんは交番に届けてください。)

(届けてください、と言うことで善人であることをアピールしています。)

(みなさんは交番に届けてください。)


わたしは500円を見つけても拾えない。

500円を拾うのか、届け出るのか、
誰かに試されているのでは!?!?

この人"いい人"なのか
どこかから見られているのでは!?!?

と心臓がバクバクして拾えないのである。

じゃあ交番に届け出たらいいじゃないの、
と思うかもしれないが、それも面倒くさいのである。

面倒くさくなくて、万が一の場合でも"いい人"でいるために、拾わないに限る。

こんなふうに考えていること自体が面倒くさいのだが、28年染み付いたものはなかなか変わらない。頑張って落としどころを見つけるしかないのである。



こんな性格になったのは、28年の積み重ねなのだけれど、これってもしかして学校教育の成果なんじゃない?と思う。


「悪いことは全部ばれるよ。」

「良いことも悪いこともどこかで誰かが見ている。」

「教室のゴミを黙って拾える人になりなさい。」

先生に言われたことが染み付いている。

これってすごいことだけど、同時に怖いことでもあるよね。学校教育によって思想が作られちゃっているわけだから。



昔からの友達とお酒を飲んだとき。
みんな社会人なりたてで、疲弊していた。疲弊も疲弊。自分の足りない部分と毎日向き合わないといけない現実から目を背けたい、でも背けられない。心がボロボロになっていた。

「本当毎日忙しすぎて、ブラックだよ。担当の〇〇さんが理不尽に怒ってきて、、、何がなんだか。」

「嫌いになっちゃいけないって分かってるんだけど、苦手なんだよ、〇〇さん。」

みんな何かのせいにして、自分を保たなきゃやっていけない雰囲気だった。
そんな中、小学校の先生をしている友達が話を聞いてくれた。

「そう考えちゃうのって学校教育のせいだよね。小学校では、友達を嫌いになっちゃダメって教えるけど、当たり前に苦手な人っているよね。本当は苦手な人との付き合い方を身につけなきゃいけないんだけど。いい子ほど、人を嫌いになっちゃダメって、思っちゃうんだよね。」

「・・・苦手な人もいる。」

「じゃなきゃ、心が壊れちゃうよ。世の中には平気で人を傷つけて、身を守ってる人がいるのに。そんな人たちも大好きな人と同じように愛せないでしょ。」

「うん、たしかに。たしかにそうだよね。」

「苦手な人がいたっていいの。全部愛そうとしてたら、心が壊れちゃうよ。」

飲みの席での会話。疲れた心に深く刺さった。



わたしは先生から褒められる"いい子"になりたかったんだなぁ、とその時初めて自覚した。

褒められたかった。認められたかった。

学校では先生が全てで、認められればそれでよかった。学校を出た今、自分の価値を自分で決めなきゃいけないんだよね、きっと。

でもわたしはまだ、"いい人"にこだわっている。
自分の価値を測るものさしを、自分で見つけなきゃいけないんだろうな。



人生まだまだ、一児の母になってもまだまだ。


"いい人"であるのをやめたとき、自分らしさってなんだろう。自分らしく生きるってなんだろう。

人生まだまだ。答えを見つける頃には、こんなことを考えていた28歳の今のことなんて、きっと忘れているんだろうな。

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