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カーテンコール1 ~坂路の怪物 ミホノブルボン

一頭の馬にはたくさんの人々が関わっている。牧場の生産者、育生者、馬主、調教師、厩務員、騎手‥‥。
その馬を取り巻く人の数だけドラマがある。

1 繁栄の影に ~小さな牧場

日本国内だけでも、毎年1万頭近いサラブレッド(競走馬)が誕生するが、そのほとんどは北海道の牧場で生まれる。
北海道の日高から浦河周辺にかけての牧場銀座と呼ばれる一帯には、たくさんの牧場が集まっており、近年では、社台ファームに代表されるような生産・育成を兼ねた大型の牧場も増えている。
また、1990年代の第二次競馬ブームは日本競馬界に潤いと変革をもたらし、世界的な良血を持つ高額な種牡馬や繁殖牝馬が、次々と輸入されるようになった。

しかし、光ある所には必ず影がつきまとう‥‥。
多くの名馬を抱え観光客で賑わう牧場銀座から少し離れた門別には、牧場の存続すら危ぶまれる名もない小さな牧場がある。
豊富な資金で超良血の種牡馬を輸入し、次々に活躍馬を輩出する巨大牧場とは対照的に、半農半牧の生活を強いられ、馬の餌代にも困るほどの小さな牧場、それが原口牧場である。

原口牧場は、原口さん夫妻だけで営む小さな牧場で、わずかに所有する5頭の繁殖牝馬の中にも目立った血統を持つ馬はなく、牧場を営む傍らで農業をして生計を立てていた。

その牧場に、いつも1頭だけで寂しそうにたたずむ年老いた牝馬がいた。
彼女はカツミエコーといい片目の見えない障害を背負っていた。
そのため、他の馬からもいじめられ、いつも群れからはぐれて独りぼっちだった。
場長の原口さんも、そんな彼女をいつも気に掛けていた。
しかし、せっかく高いお金をかけて種付けしても不受胎が続き、繁殖牝馬としての役目を果たせない彼女は、いつしか高額な餌代だけがかかる牧場のお荷物になっていた。

家族のことを考え、原口さんは、やむなくカツミエコーの殺処分を決める。「あんなかわいそうな馬を殺さないで」と泣いてすがる奥さんの姿に、
「今度受胎しなかったら処分する」という条件付きで、もう一度だけカツミエコーに種付けする事にした。
しかし、受胎するかどうかも分からない馬のために、高い種付け料を支払う余裕があるはずはなく、相手には種付け料わずか20万円マグニチュードという馬を選んだ(一流種牡馬の種付け料は1,000万円を超える)。

ようやく受胎したカツミエコーは、翌平成元年の春、一頭の栗毛の馬を産んだ。
この馬が、後に競馬界の常識を覆し韋駄天のごとくターフを駆け抜けた快速馬、ミホノブルボンである。
しかし、彼もまた障害を持つ母の影響で他の馬からのいじめに遭い、この母仔は、いつも群れから離れて牧場の隅でひっそりと暮らしていた。

2 運命の出会い ~壊し屋と呼ばれた男

そんなある日、一人の男が原口牧場を訪れる。
馬主に頼まれ、安くていい馬(もともと無理な話なのだが…)を探しにきた戸山為夫調教師である。
戸山氏は、独特の競馬観のもと、管理馬を坂路(坂道)で鍛えるという方法を採っていた。
調教師として目立った実績もない彼の厩舎にやってくる馬は、ほとんどが血統的魅力もない安い馬ばかりであった。
そのため、彼は鍛えに鍛えぬく事で、血統の壁を打ち破ろうと考えていた。
しかし、元来繊細な生きものであるサラブレッドにとって、坂路トレーニングは苛酷を極め、故障馬が続出し、いつしか戸山氏は、競馬関係者の間から“栗東の壊し屋”の汚名をきせられるようになっていた。
それでも彼は自分のやり方を変えることはなかった。
食肉となる運命を持って生まれてきたような安馬達を救うには、それが唯一の方法であると信じて疑わなかったからである。

そんな彼の目にとまったブルボンは、彼と共に北海道を後にし、滋賀の栗東トレーニングセンターへと旅立った。
栗東入りしたブルボンを待っていたのは、苛酷な坂路トレーニングだった。

栗東トレセン

ブルボンが栗東でトレーニングを始めてしばらくした頃、その動きに戸山調教師の目は釘づけになる。
坂路を3回も上ると、普通の馬はバテバテになる。
ブルボンも例外ではなかったが、彼はバテながらもまだ上ろうとする意欲を見せていた。
他馬とは明らかに違うその様子に、並々ならぬ資質を感じ取った戸山氏は、ブルボンに坂路1日5回のスパルタ調教を課す事にした。

「壊れるのが先か、パワーを身につけるのが先か・・・」
これは大きな賭けであった。

しかし、どんなハードトレーニングにも、ブルボンが音を上げる事はなかった。
彼は戸山氏の読みばかりか、競走馬の常識をもはるかに超越した、恐るべき根性の持ち主だった。
これは、もともとはブルボンの素質を見込んでの賭けであったが、猛調教に必死に耐えるブルボンの姿を見るうち、その賭けはいつしか戸山氏自身の一世一代の賭けにもなっていた。
彼には、時間がなかった…(このとき、彼の体は癌に蝕まれていた)。

3 孤独な逃亡者

猛調教に耐え続けたブルボンの馬体、特に後肢の筋肉は見事な発達を見せ、3歳(現2歳)になりデビューを間近に控えた頃には、同世代のライバル達をはるかにしのぐ卓越したスピードを身につけていた。
そして、デビューからわずか3戦目にして朝日杯3歳SGⅠ)を勝ち、3歳馬の頂点に登りつめた。

競走馬には、その脚質気性から様々なタイプがいるが、スタートからハナに立ち終始先頭を走る“逃げ”は、他馬の格好の標的になってしまうため、最も不利な戦法といわれている。
だがブルボンは、出遅れたデビュー戦を除き、その卓越したスピードで常に逃げまくった
まるで彼の生い立ちを彷彿とさせるように、いつも独りっきりで走っていた
彼は、誰にも影すら踏ませない、孤独な逃げ馬だった。

4 三流騎手 ~小島貞博

デビュー以来無傷の4連勝を飾り、一躍クラシックの主役に躍り出た頃、ひとつの問題が持ち上がる。
クラシック第一段の皐月賞を前に、記者や評論家の間では「騎手を替えた方がいい。」という声が囁かれ始めるようになった。

ブルボンの騎手は、戸山厩舎所属の小島貞博という40代半ばの騎手だったが、彼はそれまでの20数年の通算成績が200勝そこそこで、一時は障害レースにも乗っていた、いわゆる三流騎手だった。
(ちなみに当時、弱冠25才の天才武豊は、デビューからわずか7年目にして800勝を達成していた)
そのため大レースの経験はほとんどなく、現に朝日杯の時などは、プレッシャーから騎乗ミスをし、危うく勝利を逃すところだった。

小島にとってミホノブルボンという馬との出会いは、それまでの騎手生活のうっぷんを晴らす、千載一遇のチャンスであったが、皐月賞が近付くにつれ次第にその責任の重さを感じるようになり、ある日、自分から戸山氏にブルボンの騎手を替えてくれるよう願い出る。

戸山氏は、その時既に世間の噂も耳にし、馬主からも騎手の交替について打診を受けていた
しかし、長年苦労を共にし、辛酸をなめてきた戸山氏には、小島の心中は察するに余りあるものだった。
彼は、意気消沈の小島に対し、記者や馬主に言ったのと同じセリフを口にする。

「小島、うちの騎手はお前だ!」

その言葉に小島は、涙と共に自らの手でクラシックのタイトルをとる決意をする。

4月19日、中山競馬場。
皐月賞当日、小島は小学校6年になる娘を初めて競馬場に呼んだ。
そして今度は、完璧な騎乗で念願のクラシックのタイトルを手にする。
込み上げるものを必死に抑えながら、勝利騎手インタビューに答える小島の姿には、もはや三流騎手の面影はなかった。

皐月賞を圧勝し、筋肉の塊のような鍛えぬかれた馬体を持つミホノブルボンを、人々は“今世紀最高の彫刻”という賛辞をもって讃えた。

ブルボンの活躍により、坂路調教は一躍脚光を浴びることとなった。
以前に「壊し屋」の汚名を着せられる原因となった坂路調教は高い評価を受け、その先駆けとして“戸山式”の名をもって、坂路調教は多くの馬の調教に取り入れられていった。

また、ブルボンの活躍により北海道の原口牧場は、クラシック馬を輩出した牧場として注目を浴びるようになり、不思議な事に、その頃から母のカツミエコーがいじめられることはなくなったという。

5 血統の壁 ~距離不安

史上7頭目無敗の皐月賞馬となったブルボンは、当然ダービーの本名馬となるはずであった。
しかし、評論家の間ではブルボン不安説が論じられるようになっていた。

第一の理由は、彼の血統にあった。
彼の父であるマグニチュード(6戦未勝利)が輩出した産駒に活躍馬は少なく、短距離でしか勝てない馬ばかりであった。
ダービーは2400mの長距離戦、先の皐月賞(2000m)の時でさえ、距離不安をささやかれていた程であり、戸山氏も早くから「ブルボンは本質的にスプリンターである」と明言している(1200mまでの短距離を得意とする馬をスプリンターという)。

もう一つの理由は、脚質(戦法)である。
日本ダービーが行なわれる東京競馬場は、ゴール前に500mに及ぶ日本一長い直線(当時)を持つ、“差し・追い込み馬”に有利なコース形態であった。
戸山氏をはじめブルボンの関係者も、ダービーへの出走には一抹の不安があったが、無敗の皐月賞馬を回避させるわけにはいかなかった。

しかし、まわりの雑音をよそに、ブルボンは人気に応え見事にダービーを制する
配当は馬番連勝式で29,850円という驚くべき配当だった。
2着に人気薄のライスシャワー(皐月賞8着)が入ったこともあったが、本命馬が優勝したことを考えればあまりに高すぎる配当であり、ブルボンのダービー制覇がいかに不安視されていたかが伺える。

(出典:毎日新聞社)

6 忍び寄る影 ~三冠の夢

あらゆる不安を克服し、ついに無敗の2冠馬となったブルボンの関係者には、ようやく安堵と自信がみなぎっていた。
しかし、華麗な逃げで血統の壁を乗り越えてきたブルボンに、静かに忍び寄る小さな影があった。
ダービーで波乱を演じ、大器の片鱗を見せた伏兵ライスシャワーである。

リアルシャダイを父に持つライスシャワーは、ブルボンとは対照的なステイヤー血統(3000m前後の長距離を得意とする馬をステイヤーという)であり、当時、父リアルシャダイは、大種牡馬ノーザンテースト(11年連続リーディングサイヤー)に迫る勢いの優秀な種牡馬で、菊花賞では、その産駒が4年連続して連対を果たすなど、折り紙付きの超良血ステイヤーであった。
牡馬クラシック最後の一冠、菊花賞を目指すブルボンにとって、その血は驚異であった。

両者はそれまで何度か対戦していたが、全てブルボンの圧勝でダービーでも4馬身差をつけていた。秋初戦の菊花賞トライアル京都新聞杯でも、ライスシャワーを力でねじ伏せるが着差は1馬身半・・・、その影は着実にブルボンの背後に忍び寄っていた。

史上5頭目の3冠馬誕生の期待に沸き上がる中、菊花賞がスタートした。
しかし、そのレースで先頭を走っていたのはブルボンではなかった。
先頭を走るのは、スタート直後から気合いを付けて強引な逃げをうつキョウエイボーガン
ブルボンと同じ逃げ馬である彼の陣営が取った玉砕戦法に、ペースを乱されたブルボンは、初めて舌を出して走っていた。
ただでさえ、血統的に不利なブルボンが、自分の競馬をさせてもらえなければ、結果は見えていた。
最後の直線、彼を生涯初めて追い越していったのは、ライスシャワーであった。レコードタイムだった。

ライスシャワーは、翌年春の天皇賞で、史上最強のステイヤーメジロマックイーンをもレコードで完封し、マックイーンの「春の天皇賞三連覇」の夢を打ち砕くなど、驚異のステイヤーであった。

レース後、脚部に故障が見つかり、温泉治療などで復活をはかったブルボンであったが、苛酷なトレーニングに耐え続けた彼の体は、すでに限界に達しており、その雄姿をターフで見ることは二度となかった。

戸山調教師、小島騎手、原口牧場・・・、たくさんの人々の思いを乗せ、ミホノブルボンが挑んだ「血統の壁」と「常識」への挑戦のドラマ・・・。
ブルボンを歴史的名馬に育て上げた戸山調教師は、そのわずか1年後、癌のため他界した。
最後に遅咲きの見事な花を咲かせて…。

“「不可能」とは、愚か者が妄想を、弱い物が逃げ口上を、
そして権力者が己の無能を語る言葉である。”  

ナポレオン・ボナパルト

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