見出し画像

Breaking Barrier――、わたしは、ピンチをチャンスに変える! フィッシャーマン・ジャパン・マーケティング 海外事業部 村上日奈子

東日本大震災当時、多くの国や地域の人々が救いの手を差しのベてくれた。
その温かい思いに触れて、自分の言葉で気持ちを伝えることができなかった少女は今、地元の美味しい食材を世界に向けて発信しようとしている。

SeaOO(Sea・Overseas・Officer)。地元イチ推しの海産物『金華サバ』も海外で初めて食べたという、フィッシャーマン・ジャパン・マーケティング海外事業部の村上日奈子(23)は、日本の海産物に立ちはだかる海外の障壁に言葉で乗り越えていこうとしている。

311、言葉でモヤモヤ

村上は、石巻市渡波出身。渡波とは、なんとも海を連想させる土地の名だ。その由来には、入江を渡るという意味のアイヌ語のワッタリの転訛説(『渡波町史』)や、「波打渡の渚村」と呼んでいたが長すぎるので「渡波」に改称された(『安永風土記書出』)とも記されている。どちらにしても、風雅な言葉が土地に名付けられている。海はとても身近な場所だった。

2011年3月11日東日本大震災。震災当時、村上は卒業間近の小学6年生。体育館で、思い出づくりのドッジボールをしていた。

「一旦校庭に出たんですけど、津波が来るというので体育館に戻りました。男の先生がドアをずっと持っていてくれたので、体育館の中に海水が少ししか入ってきませんでしたが、自宅は1階の天井まで水に浸かって全壊。家族は全員無事で、私は被災した人の中では被害の少ない被災者でした」

楽しみにしていた中学生活のスタートは仮設校舎。

「中学時代はみんな被災しているのが当たり前の環境に育ったので、肉親が亡くなった人もいるし、仮設住宅に暮らしている人もいるので地震の話がタブーというか、津波の話もしなかったですね」

きっと、知らず知らずのうちに相手を傷つけまいと言葉を選んでいたことだろう。
中学卒業後は、宮城県内陸部の高校に進学。片道1時間半ほどかけて通った。

「津波を経験したことのない内陸の友だちは震災当時のことを、バンバン聞いてくるんですよ。同じ宮城県なのにすごく温度差があってカルチャーショックを受けました」

中学時代は、言葉を選んでいた。高校時代は、言葉を選べない同世代にモヤモヤしたものを感じていた。

フツフツと目覚める石巻愛

村上が、そのモヤモヤした思いをどう解決したらいいんだろうと考えていた時期に、『TOMODACHIイニシアティブ』に参加する。震災時、米軍は災害救助・救援及び復興支援の活動を<トモダチ作戦>という作戦名で呼んでいた。
トモダチ作戦はその後、<TOMODACHIイニシアチブ>として、日米の将来を担う世代が互いの文化や国を理解し、世界中で通用する技能と国際的な視点を備えたリーダー「TOMODACHI世代」の育成を目指した官民パートナーシップとして活動を始め、多くの企業の協力・支援を得て今も続いている。
村上が参加したのはソフトバンクが支援している<TOMODACHIサマー2015ソフトバンクリーダーシップ・プログラム>。東日本大震災で被災した100名の高校生が、カリフォルニア州バークレー校で3週間、グローバルリーダーシップと地域貢献について学んだ。

画像1

「参加してる人はそれぞれ心に傷を負っていて、一番仲のいい子が福島の子だったんです。その子は被災して家があるのに住めないって、東北から遠い沖縄に行っちゃって、親戚もいないし、口に出してはいけないようなこともバンバン言われてすごく苦労したって聞いて。その時に、私の中のモヤモヤしていたことは軽い方なんだなんと思って……。
みんなに共通していたのは、被災して一度は廃れた地元をどうやって活性化するか。私は地元愛がなかったんですけど紙に書き出してみたら、高校生ながらも魚が有名だってことはわかっていたし、石巻のいいところってたくさんあることに改めて気がつきました」

画像5

帰国後にプログラムに参加した学生たちは、その経験を自分達のコミュニティーでどのように活かすかなどを発表するイベントをしている。

「私は魚をテーマにして地域を活性化するような……、何か忘れたんですけど 笑。地域団体の人も入っているプログラムだったので、そこで幸奈さんに出会ってこのフィッシャーマン・ジャパンのことを知って、そういう団体もあるんだって」

島本幸奈は、フィッシャーマン・ジャパンの立ち上げ時のメンバーで、主に漁師の担い手担当。当時の様子を聞くと「ひなちゃんとも話すんだけど、思い出せないんですよ……、すみません……」。
2015年当時の三陸沿岸部は、まだまだ混乱の中にあり、さまざまな人が被災地に訪れていた。やるべきことは山積みで、たとえ会っていても思い出せないのも頷ける。ただ、村上にはフィッシャーマン・ジャパンという言葉が残っていた。

画像6

「フィッシャーマン・ジャパンは、石巻の市民だけじゃできないことが達成できているし、それをやってのけるのが凄いって。縁もゆかりもない地域、ただボランティアして、普通はそこで終わっちゃうけど、移住を決めて人生をかけて石巻に心血を注いでくれるっていうのがすごくありがたいってその時に思っていました」


石巻の水産物の魅力発信

けれど村上は、高校を卒業して石巻で就職しようとは思わなかったし、日本の大学は絶対行きたくなかった。

「進路を決めるときにTOMODACHIプロジェクトの有意義な時間を思い出して、アメリカに憧れがあったというのもあるけど、留学しようと。親には『家も建てて車も買ったし、早く言ってよ!』と無茶苦茶反対されました 笑。それでも行きたかったので、エージェントをいくつか自分で探して、渡米して実際に自分の目で見て、第2候補だった大学に決めました。留学は、本当に勉強きつくて泣きながら。私は短大だったので、頑張って留年せずに2年で卒業して、就職先もハワイの日系の観光業に決まっていたんですけど……」

東日本大震災から10年。震災当時に小学6年生だった世代は、中学高校の6年間を仮設住宅や遠方で不自由な学校生活を余儀なくされた。そしてまた大学や就職の貴重な時期に、今度はコロナウイルスという感染症に見舞われてしまう。
決まっていた就職先からは丁重に断られ、アメリカでの生活も両親に反対され、村上は石巻に戻ることにした。しかし、日本で就職活動をするも思うような企業には出会えず、一度は就職を諦め、アルバイト生活。

「私は何がしたいんだろうって考えて、英語もできるし留学の経験もあるし、最初は起業をしようと思ったんです。でもその頃に、アルバイト先の方が、フィッシャーマン・ジャパン・マーケティングのFacebookを見て薦めてくれ、入社したいと思いました」

画像4

フィッシャーマン・ジャパン・マーケティングは、水産資源の魅力発信に注力し販売面の強化に務める会社として、2014年設立の(一社)フィッシャーマン・ジャパンから、2016年に分社化。海外事業部では石巻市の水産加工会社30社の輸出に携わっている。

石巻の食品輸出を盛り上げていこうと言う動きは、2019年ごろから活発に議論されていた。石巻は水産品が強い。香港、タイ、シンガポールなどのアジア圏は、既存市場で競争が激しい。一方で、衛生管理上の輸入規制が厳しいアメリカへは、国際認証を得るための工場がまだ日本では限られている。けれど、三陸の水産加工業は良くも悪くも一度津波で流されており新しい設備が揃っているので条件的に整っていた。
アメリカで勝負できると考え始めた時に、在米大使館から連絡が入った。それは、震災10年で日本政府として感謝の意味を込めたイベントをやるので協力してくれないかと言う打診。まさに、ナイスなタイミング。しかし人手が足りず急遽募集したときに現れたのが、村上だった。

アメリカの販路開拓

村上は、フィッシャーマン・ジャパン・マーケティング海外事業部部長の土合和樹に同行し、2021年9月下旬から10月上旬にかけて1週間渡米、西海岸のロサンゼルスと東海岸のワシントンDCを回った。震災から10年。アメリカへの感謝を伝える在米大使館主催のイベントに参加するためである。

画像2

この訪米の際にワシントンDCでは、ワシントン在米日本大使館が全面協力し、日本の農林水産物の米国輸出の販路開拓に向けて後押し。石巻産の銀ザケや金華サバなど、直接売り込む機会を設けてくれた。

ここで村上の手腕が発揮される。土合は村上の最初の印象を「若いのに自分がやりたい気持ちがはっきりしている、芯のありそうな子」という印象を受けた。そして、滞在期間でどんどん相手の懐に飛び込んでいく村上を見て、「若い時に持つべき最大の武器を持っている。石巻市の事業者やメーカーとも市の人とも、大使館の人やコーディネータとも、そんなフランクにコミュニケーションが取れるの?って、びっくりするぐらい。可愛がられて、なんでも教えてもらえる関係を構築できるのは、彼女の武器」と舌を巻く。

画像8

アメリカに留学していた大学生時代。すぐ目の前の海で獲れた魚なのに、食べたことがなかった金華サバを食べた。

「金華サバ(宮城)って産地名も書いてあって、日本からエア便で直送していました。日本だったらあって当たり前のものが、アメリカではすごく美味しいと言ってもらえるし、石巻のものだねって思ってもらえるようにしないといけないし、それによって石巻の価値が上がる。アメリカで金華サバを食べた経験が、今のフィッシャーマンの道になっているように思います」

学生時代に初めて訪れたアメリカで、地元では意識しなかった海産物をはじめとした石巻のいいところがいくつも思い浮かんだ。そして10年を経て村上は、そのアメリカで今度はビジネスとして石巻の海産物を現地の人に薦めている。

画像7

「在米大使館で行われたイベントに持っていったのは、石巻で水揚げされ鮮度抜群の状態でフィレ加工・凍結加工等された水産加工品。コロナ禍で人出不足に陥っている現地レストランや量販店からは、産地加工された商品群に前向きな評価を得ることができました。解凍してそのまま出すだけというのが、人手の確保が難しい今の状況ではすごくいいって言われました。うまくフィードバックできたら、日本の冷凍水産物や加工品はアメリカでもいけるかもって。ただ、冷凍物を使ってもらうには、クオリティをさらに上げる必要があると私自身は感じています。今のままでは絶対通用しない。クオリティ向上に向けた体制づくりや、石巻産のブランド化を、この1、2年でアメリカ向けに頑張っていこうと思っています」

輸出、楽しい!

帰国後、成果はすぐに現れた。
現地の輸入会社や量販店、飲食店や大使館と商談をしてきて、帰国後にフォローアップしたら、すぐに注文を取ることができた。商談会や展示会をして返事がこないことも多い中で、ほとんどの人が返事をしてくれたという。村上は、アメリカからホタテ100キロを受注し納品した。もともとはホタテ貝柱1トンの受注だったが、時化(しけ)で1トンの納品は困難と判断し、方々駆け回り100キロの納品で先方の了解も取り付けることができた。

「まるでドキドキの映画のようで、その駆け引きがすごく面白くて 笑。自分が薦めた商品を気に入って買ってくれて、それがアメリカで消費者に売られるというのがすごく面白いなと思います。現地で味わった日本食の凄さを知っているので、それを私が受注し発送しという一連の流れがつながったので、楽しいですね。もっと、アメリカに石巻のものを届けられるように頑張りたいな。私も現地で食べてみたいです! 笑」

土合はタイミングがうまく合致したと言いつつ、村上には期待している。

「彼女には引き寄せる力がある。石巻の水産物を新たにアメリカに販路をつくる中で、彼女のアメリカでの経験もいきるし、渡波生まれの石巻っ子というのも地域の人からも愛される。最低限のことを教えながらも、いいところを伸ばしていきたいと思います。でも、つい褒めすぎてしまうので、日奈子が調子に乗りすぎないように気をつけていかないと 笑」

地元愛がそれほどなかった村上。けれど、この10年で変わった。

「石巻のものがアメリカに通用するぐらい、金華サバだったり銀鮭だったりが売れるようになることが1番の目標です。地元の人にも、海外の現地の人たちにも関わってもらいながら、国を巻き込んでやっていきたいと思っています」

言葉に悩み、言葉に傷ついた村上は、日本の水産物を取り巻く世界の壁を、自らの言葉で切り拓こうとしている。

画像3

2021年12月、<TOMODACHIイニシアチブ 次世代サミット2021>1日目の閉会の辞で村上は、次の世代に向けてメッセージを送った。この10年を振り返り、自分自身の心に刻むように……。

「東日本大震災で色々なものを失いましたが、私にとってはTOMODACHIプログラムがきっかけでピンチをチャンスに変えることができました。これからもこの経験を活かし、TOMODACHI世代の一人として、日本とアメリカや世界の架け橋になり、より多くのことを発信していきたいと思います。そして、みなさんも自信をもって一歩外に出ることにより、視野を広げ、たくさんの経験を持ち帰り、それを生かすことができます。各自がBreaking Barrierをし、世界をそして地元を変えていってほしいと思います」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?