バビバビバビロンの胡座をかきながらする談議で胡座談「友情とはなんぞや編」

自己喪失という言葉は英語ではアイデンティティクライシスと訳されたりします。

自己やアイデンティティはつまり自分らしさとした時にそれが喪失すること、そして危機的状況に陥ることをクライシスといいます。

自分の存在意義を見失ってしまい心理的な危機に陥る状況のことを指してそう表現するわけなのですが、それが何故起きるのかをこれから説明します。


たとえば、親からの虐待などによって親と築き上げてきたそれまでの関係性が失われて、そのこれまでの関係性の中で育まれてきた自己を保つのが困難に陥ることで自己喪失になります。

これは要するに親に愛されることで確立していた自分の存在が崩壊した場合に起こりえるものということです。

例外もありますが自己喪失というのは子供の成長段階に発現することを指すようです。

つまり子供にとって親からの愛情というのは何物にも変えられないものであるということですね。


私の特に親しかった友人の一人にそういった経験をした人がいました。

その人の場合は母親からの虐待ではありませんでしたが、母親からの突然の心無い言葉がその人の心に大きな傷と陰を残していたのは間違いなかったです。


私はその友人は幼い頃から知っていて、友人が事故に遭いそうになった時にその母親はとても友人の身を心配されていたことをよく覚えています。

そこに愛情が無かったなんてまったく思いもしなかったです。

だからこそ、その母親の突然の友人への裏切りと表現してもいい言葉が未だに許したわけではないというか、愛情というものは、特に親から子への愛情なんて子へ伝わらなければなんの意味もないものだとは断言できます。


その友人は母親からの心無い言葉にやはり当時はかなり落ち込んでしまっていました。

自分が何か悪かったのかと自問自答しては苦しんでいたその友人は、母親のことが大好きだったのは見るからに明らかでもありました。

子供には理解できたとしても受け入れがたいことも世の中には数多くあります。

なので私はその友人が落ち込んでいる当時からなるべく傍にいて支えてきたつもりですし、大人になってから腹を割って話し合えるようになって、それで自分の母親が言い訳のしようがない糞だったら踏ん切りも着くだろうと励ましたこともあります。

その時が来るまで私がある程度はその母親と友人の防波堤の役割も務めてもきました。


もちろんそれは私が一人でその友人を支えてきたわけではなく、何度も話題に出す親友二人と私の配偶者になる女性ともう一人、はじめてnoteで話題に出す別の友人らなんかを中心としてです。


件の私たちが支えてきた友人は明るさを取り戻した後も、やはりふとした時に悲しみに暮れることもあったようで、私たちはその友人を支えることはできても母親の代わりになることは到底できなかったのも事実ではあります。


その友人が大人になってから母親と改めて話した時に、なんの会話をしたのかは覚えてないですし、ここで話すつもりもありませんが、その後の友人は憑き物が晴れたようではありましたね。

その友人は女性でした。


友情というものはお互いがお互いを思いやれて、信じ合える気持ちや関係性がある時に友人へ感じる情愛の心です。

彼女の方はどうかはわかりませんが、私は彼女には私なりに友情を感じています。

この彼女との友情を育む時に何が大切で、どちらが先に何をすべきだったのかみたいなものは大した問題でもないというか、仮に彼女がある程度でも立ち直ることができなかった場合はこの友情は成立しなかったかもしれませんから。


ただ、友情というのは損得勘定のような打算的なものではないことも確かです。

また相手を思いやれるかどうかというよりも、自分の気持ちの方が大切なのかなとも思います。

他者を支えるということは正にその気持ちがどうあるかみたいな話しでもありますからね。

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