バビバビバビロンの胡座をかきながらする談議で胡座談「普通とはなんぞや編」
普通という言葉の意味は「ごくありふれたもの」「当たり前のこと」「特に変わったところがないこと」という意味合いがあって、私はかつてこの言葉は嫌いでした。
理由はその普通の基準は誰が定めたかわからないからです。
今になって思えば私はまだ若く、子供だったからそう思っていた自覚があります。
私が生まれ育った家庭では、酒を飲んでは管を巻いて暴力や暴言というものではなく威圧的な態度で私に振る舞う父と、ヒステリーを起こすととにかく暴言や激しい時には暴力で私を押さえ付けようとする母の下で三人兄弟でした。
私は末っ子で上の二人の兄貴はまだしも、父も母も昼間は至って善良に見える人たちでした。
夕飯の時間になるとその前に父が晩酌をしているので酔った父を刺激しないように黙って食事をして、それに父は機嫌を悪くして私たちに「お前たちは俺を馬鹿にしている」のだと言う人でした。
もちろん、そうじゃない時もあったと思いますし、人間というのはどうやら悪い記憶の方が心に残る生き物らしいのですが、まず最初に私が生まれ育った家庭を説明しようとしたら一番に思い出すのがそのことですね。
これは普通ではないと多くの人が思うはずです。
普通というのは特定の誰かが決めるものではなく、この社会が決めるようなものだと私は思います。
とにかく我が家には自立心や自己肯定感を育む教育は特にありませんでした。
子供が三人もいれば両親共働きで稼ぐのが精一杯で、仕事をしていればそれだけで偉いというわけではありませんが、金がすべての中流より少し下の家庭環境だったと思います。
なので自分の手を煩わせる問題はすべてその問題を抱える私ならば私を形としては納得させるために、その問題の何が問題かなどの話し合いはなく、とにかく黙らせるための脅し文句で、たとえば幼少期ならもうお前の世話をしないぞやら金を稼ぐのがどれだけ大変でその苦労がお前にわかるのかなどの言葉を投げかけられて生きてきました。
私が明らかに我が家の異常な一面に気が付いたのは、後に私の伴侶になる女性宅に一ヶ月間くらい泊まらせてもらっていた中学生くらいのことですかね。
夕飯の時に学校で何をしたかだのを楽しそうに話してるわけです。
そして実家に帰って夕飯の時に私が口を開くと父がお前今日はよく喋るなと言われた時に、どうして我が家は夕飯の時には誰も話さないのだろうかとはじめて疑問に思ったのです。
しかし、それは私が質問すると全員押し黙ってしまって場は一瞬で凍りました。
断っておきますが私は生まれ育った家庭の家族のことを憎しんでいるわけでも嫌っているわけでもありません。
ただ、どうしても心のどこかでふとした時に彼らが哀れに思えてしまう時がやはりあります。
私の思想的なものでは彼らは苦しむべくして苦しんでいますし、私もその呪縛のようなものに囚われてもいるとも思います。
そこになんの未練もなければそもそも家族のことを哀れに思うことすらないでしょうからね。
私が我が家の中で特別他の家族と違っていたわけでもなくて、敢えて違うとしたら出会った人が彼らよりも多く、そしてその親交度も彼らよりも一人一人が深く、他者という存在にまともに関わってきたからですね。
その他者が要するに私の奥さんと子供たちの家族であり、友人たちということです。
「自分らしく」と「普通」というのは違う意味の言葉です。
私が自分の幸せを得ようとしたら、自分が生まれ育った家庭の家族とは距離を取る必要があるわけです。
私によほど幸せの余裕があるのなら、彼らに手を差し伸べることもできるかもしれません。
ですが、私は私の大切な家族のために彼らと私の家族は接触させたくはないと思っています。
個人的に二人の兄なんかと少しの間会うとかならばお互いに嫌な思いはしないでしょうが、その二人の兄も私ではありませんしそれはお互い様なのでしょうきっと。
そうそう頻繁にはしたくないのは私だけではなく、二人の兄も一緒のはずです。
しかしやはりそれは悲しくもあります正直言って。
彼らを憎んでいるわけでも、嫌っているわけでもありませんからね。
この記事を書いている今も込み上げてくる感情はたしかにあります。
ただ私は自分が育んできた自分の家族を不幸にしたくないだけなのです。
「普通」というのが「幸せ」とは限りませんし、「自分らしく」生きれればそれで良いのかというのも違うと思います。
それらを教訓めいたものにできるのか、ただの呪いにしてしまうのかはやはり自分次第ということですね。
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