バビバビバビロンの胡座をかきながらする談議で胡座談「負とは悪とはなんぞや編」

「負」という言葉にはですね抱える、被る、敗北するという意味合いが含まれていてあまり良いものではありませんね。

ただ、抱負だとか自負などの頼みとするなどの意味としての言葉もあるのですが、具体的には否定の意味合いの言葉によく使われるようです。

そこで私は「負」という言葉の意味を調べました。

「人」の下に「貝(古の財貨の意)」があるということで価値のあるものという予想外の意味合いで、それが語源としてあるということは「負」というものは人間が避けては通れないものなのかなと思いますね。


つまり苦労は買ってでもしろということですね。


ただ気を付けなければならないのがその苦労と表現した負が連鎖して別の問題へと繋がるのは良いことではないとも思います。

要するにどういうことかと言うと、ある問題でネガティブな思考に陥ったとした時に何をしても同じネガティブにしか捉えられないことってありますよね。

そういう状態に陥ることは敢えて断定すると悪いことですよ。


ではこの負の連鎖に陥っている時にどうしたらいいのかですが、極論まずは自分がどうしたいかによりますね。

自分の人生が上手くいかないと思えて苦しいのならば、それはおそらく何かしらの間違いや悪い人生を送ってきたということです。

選択肢を誤ったなどとも表現できますが、これはですが大前提として自分も悪いわけですよ。

果たして環境や境遇に周囲の人間だけのせいにできるのかということでして、少なくとも自分の人生の選択をしてきたのは他ならぬ自分のはずだからですね。

自分がない人はこう言われてなおも自分は世の中に振り回されてきた被害者だと主張するでしょう。

他者から言われたことをしてきたのにだとか、そうせざるを得なかったとして酷い言い方になりますがそれに抵抗しなかったのは自分の責任ということです。

そういう意味での自分も悪いという言葉を選びました。


人に責任を転嫁する人間というのは自分に自信がない人間です。

過ちを犯してしまった時にその問題の大小がどうあれ自分に自信がないから他者に償わせようとしたり、自分は関係ないと主張するのです。

それは間違いなく弱さであり、それを突き詰めていくと人間の悪意やエゴとも表現されていきます。

自信が皆無で弱く、悪意やエゴイズムの塊のような人間にこの話を理解するのは無理からぬことでしょう。

彼らの自分の置かれている環境や問題の主張の多くは善からぬことをする理由にはなっても容認されて良いようなものではありません。

でなければこの世には法と秩序など必要ありませんからね。


敢えて言うならば「悪」の正体はこんなところでしょう。

生き方を変えられない人間が生き方を変えられないのは単純に弱くて愚かだからです。

そこにあるのは怠慢であったりするのです。

生き方を変えるというのはつまりこれまでの自分の否定ということですからね。

弱ければ到底無理なことであり、愚かならばそのことに気付きもしません。


私は正確な年齢を意識すると少なくとも楽しい気分には繋がらないためアラフォーを名乗りますが、我が子たち家族や周囲の友人たちのような大切な人たちには押し付けるつもりはありませんでしたが常にそう主張してきました。

だからたとえどんな大きな問題もいつも乗り越えられてきました。

周囲の人たちは私を凄いと称賛しますが、私は私一人ではその凄いことを成し遂げられなかったであろう自覚がありますからそれで勝手に周囲は私を気取らない善き人間だと思うようです。


本当の私は物臭な人間でありますから自分のことでも、それがましてや他者のためになんてなるとやらなければならないことでも面倒臭くて行動に起こさないような人間です。

それがそういう風に周囲から思われるということは、それだけ私が周囲を大切に思っているからなのですが、私が抱くのはあくまでも感謝の想いであり謙遜なんてしているつもりもないのです。

得てして人間なんて、それも個人となるとそんなものですよ。

そして信念というのもそういうものです。


これが「戒護武闘教義」の根底にもある私の精神哲学ですね。

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