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旅行先に本を持っていく

 平日はばたつきや負荷が多めでやんなっちゃう週だったが、休みの日は思ったより元気があって身体がテキパキ動く感じだった。家事をしていて楽しい。たぶん、仕事で自分の力ではどうにもコントロールできない事象の取り扱いが増えているので、コントロールできることに快感を感じている。

 先週の間は『君たちはどう生きるか』の余韻があって、見た際の自分の感情の動きを探り直しながら、そこに言葉を引き当てていくということをしている時間が長く、それもあってか習慣として文章を書いているときの身体の感じが戻ってきた実感があった。次に書く小説のことを考えようかなと思う時間も増え、何か書けるかもという実感がある。

 フジロックの実感がいまいち持てていなかったのだが、あと三日もすればフジロックという段階でようやくいくぞ、という気持ちが湧いてきて今更ながらちゃんとプレイリストを作ったり、ステージをどう回るかちゃんと考えるか、と思ったり荷物をどう詰めるかということを真面目に考え始めている。今日が買い物ができるほぼ最後のチャンスなのに、こんなにのんびりでは何か抜かりがありそうだなと思うが、行けば行ったで楽しいでしょうよと舐めた態度を取っている。しかし、普段しないことをする楽しみがじんわり広がってきている。

 フジロックに本を持って行って、時間があるときに読めるようにしようと思っているのだが、その本選びが楽しい。旅行に行くときの本選びの楽しさがある。月頭くらいに須賀敦子のエッセイを読んでいたが、須賀敦子のエッセイは険しい山を一歩一歩進んでいくような重たい歩みの感覚と、歩みを止めてふと後ろを振り返るとひらけた美しい景色が広がるような感覚の両方があり、そういうじりじりと読むことでたどり着く快感の読書をしたいと思って、持っていく本を考えている。
 それと、須賀敦子のエッセイは土地が主人公のようにしてどっしりと横たわっており、読んでいるとその空間に圧倒され、包み込まれる感覚がある。だから、フジロックに行っている間に読む本も同じような土地の存在感が強い作品がいい、と思った。それでフォークナーを一冊選んだ。

 日曜日、友達の映画の撮影が全部終わった後に、吉祥寺でフジロックのための買い物をした後にハモニカ横丁で夜ごはんを食べた。中華料理を出すお店の三階に通されたところ、テラスのようなほとんど外の席で、外の道に面した階下には赤い提灯がお祭りのようにぶら下がっており、サイバーパンクSFのアジアのネオン街のような雰囲気だった。
 こういうSFっていうのは『ブレードランナー』からかね、というような話をしながら、ご飯を食べていたら、SFを読みたい気分にもなったので、何が読みたいかを考えてみて、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『愛はさだめ、さだめは死』も持っていくことにした。この人の作品は、SFとしての面白さがギュッと詰まっている上に、皮肉っぽさや寂しさや絶望があって、暗い感じの本が読みたい気分だったので合っている気がした。これは短編集だけれども、読むのに時間がかかる作家なので、旅先にちょうどいい。

 あとは、須賀敦子の訳した『ある家族の会話』で、いいバランスの手荷物ではなかろうか。5日間あり、移動も暇な時間もかなりありそうなので、あと一冊くらいは検討したいなと思っている。ほんとうは、チボー家の人々か、マルケスの何かが読みたいが、流石に文庫本が良かったので、残りの荷造りをしながらゆっくり検討しようと思う。

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