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3月読んだもの観たもの

トルストイ『アンナ・カレーニナ』中巻
 小説。散髪しに行くから本一冊だけ持って!って引っ掴んできたら、まだ上巻の半分も読んでいない状態で中巻を持ってきてしまっており(ちょうど家人が家で読んでたので部屋に転がっていたのを間違えた)、しかし他に読むものもないのでまぁいっか、と思って読み始めた。
 冒頭がいつも農村にいる弟リョーヴィンと労働者階級ではなくたまに農村に遊びに来る兄コズヌイシェフの話で、意外と私はロシアの小説でいわゆるロシア的な「農村」が出てくる話を初めて読んだかもしれない、と思った。作品などを通じて、ロシアの上流階級がフランス語ができたりフランスの文化に通ずることをステータスとしているのは知っていたんだけど、もしかしてロシアの作品で作中にめちゃくちゃ長尺の議論や会話の要素があるのは、知識のひけらかし的な性質を持って議論が楽しまれていたからなのか??と思った。『RED』の連合赤軍の人々が朝まで会議だ、と言って議論していたのにも近い感じなのかも。プラトーノフの『チェヴェングール』とかもそういう話かもな〜と思って積読を解く気が出てきた。

松本大洋『GOGOモンスター』
 漫画。前に読んだことあったけど読み直してしっくりきた。前の時はあんまりピンと来なかった記憶。

『劇場版 機動警察パトレイバー』
 映画。二度目の視聴。よかった。
 前見た時より絵の素晴らしさとかをゆっくり味わえて良かった。こんなところにカメラ置くんだ!の画角の面白さをようやくちゃんと理解した。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE part2』
 映画。音が最高だった! ドーナツを食べに遠出することにしたけど、まぁまぁ遠出だったので、流石にドーナツ以外にも用事が欲しいとなり、偶然やっていたDUNEの先行上映にもいくことにした。ドーナツは売り切れていたけど映画は良かった。
 原作を読んだ時思ったけれど原作の面白さを捨てて、映画的な面白さを取っているのがめちゃくちゃいいな、と思って観ている。実際面白さとしてはやっぱり原作の方が面白いは面白いと思っているけど(それは、予言というものの在り方とか、ベネ・ゲゼリットという団体の面白さとか、ポールの内面に起こる変化とか)、映像の圧倒的な凄さで黙らせる!みたいな映像作りはそれはそれでとても良くて、映画で観たいSFってこういうことだよねという心の昂りがある。特に、ハルコンネン家の砂漠をうろつく際のスーツの動きがめちゃくちゃ良くて、サイエンスからむしろ離れていく心地よさ……!!と思った。あと、ハルコンネンの星での表現もめちゃくちゃ良かったし、闘技場にいる変なピエロみたいな守衛みたいな奴らのデザインもかなり良かった。
 あと、大きな印象としては原作では、フェイド=ラウサはかなり好きになれない造形で描かれていて、ポールも別に好きになれる感じではないが、フェイド=ラウサは嫌すぎだしうすらバカっぽい、という感じが強いのに対して、映画ではめちゃ魅力的なキャラクターになっていたのも面白かった。そのおかげでしっかり話が締まるよな〜と思う。
 けど、原作読んでるから、これはこうだから〜と思って観ていられた部分が、原作読んでいないと訳わからないし、はて、となりそうなところも多々あった。ベネ・ゲゼリットの企みとか、できることとかが、訳わからないと思う。Xで映画評論などをしている人が、原作では予言というものが、計算や計画の上のものであり、ポールはそれを外側から見つめているような視点だから、そこに対しては冷めている、というのに対して映画はあまりにも予言の実現が熱く描かれ過ぎているというコメントがあって、それは確かにそうだ……と思った。そういう危うさはある。その人は、DUNEはめちゃくちゃキリスト教文脈映画だと指摘していて、ヴィルヌーヴは、実際ゴリゴリのカトリックかつ、DUNEなら宗教大作撮れるなと思っていたらしい、ということにも言及しており、その視点での話ももっと聞いてみたいと思った。
 あと、ポール役の演技はめちゃくちゃ良かったけど、ティモシー・シャラメのことは許せていない。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』
 映画。ベニチオ・デルトロのゴツさと怖さ。ギレルモはあんなにマスコットキャラみたいなのになぜこんなに怖いのだ……と思いながら観た。
 マジでアメリカ本当にこういうことあると思うので、ひょんえーと思いながら観ていた。『七つの殺人に関する簡潔な記録』もこういう目線あるよな、とふんわり思い出していた。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『複製された男』
 映画。拍子抜けしてしまった。ずっとSFだと思い込んで観ていたので、なんだ、SFじゃないじゃん、ファイト・クラブか!ってなった。ジェイク・ギレンホールはずっと観てて飽きないので、飽きはしなかったけど、そんなだった。

『RED LINE』
 映画。ちょっと他の作業しながらになってしまったけど、スクリーンを購入したので、やったぜ!って感じで家でみた。二度目だったけど、なんか全然話の展開覚えてなくて、レッドラインの開催会場がこんなことになってたっけ〜?とか、なりながら観た。

アッバス・キアロスタミ『友だちのうちはどこ?』
 映画。子どもの頃自分が嫌だったことってこういうことだ!!と、観ていて心がキュッとなることが多々あった。昔から自分の言っていることが正しく受け取られていないと感じるとフラストレーションを感じていたんだった、と思い出して(根本的に感覚の違う人が周りに多かったとか、自分の言葉の習熟度が低かったとか、自分のわがまま度が今よりも高かったとか、子どもなので舐められていた、など様々な理由がある)しみじみした。
 映画としてはすごく面白くて、人間の綻びみたいな面白さが常に写っていたし、街の形やさまざまな道の形や、会う人々とそれらの会話どれをとっても面白かった。

アッバス・キアロスタミ『ホームワーク』
 映画。学校であんなこと言わせてるんだー!きぇ!ってことがかなり衝撃だったんだけど、かなり面白かった。あと、『友だちのうちはどこ?』を観た後だったので、俳優の選び方って重要だなぁと思った。主人公の男の子は顔つきが話にあっていてずっと観ていて退屈しなかったんだなぁ、というのを他の子どもの顔や振る舞いを見ていて感じた。

アッバス・キアロスタミ『そして人生は続く』
 映画。『友だちのうちはどこ?』に続いてのジグザグ道三部作の二作目。この三部作の意味って、アゴタ・クリストフの『悪童日記』の三部作の感覚に近いな、と二作目を観て気がついた(『悪童日記』も二作目読まないとそれに気がつかない)。
 地震に対する感覚の違い、というか、実際に市井の人がどういう感覚を持って地震に関わったりどれくらいの規模の被害があったりしたのかというのは作品内で表現されているものとはまた異なると思うのだけれど、少なくとも日本ではこういうふうに地震による死傷者のことを描くことはできないだろうなと思わされる表現でそれが面白かった。作中でたくさん子どもが語るところとか、宗教があるから違う感じに捉えられているのだろうか、と思った。神様の思し召しだよ、みたいなスタンスでいる人がいたり(それに対する立場の人もいたり)不躾な感じで死者について問いかけたりとか、全部、様々な人の口から語られるあれこれが面白かった。
 あとは、印象的だったのが壊れた家のドアの奥に人を配置してフレームの形にするような撮り方で、作品のメタさを象徴するような画角で面白かった。
 今月たくさんキアロスタミの映画を見たけど、一番好きなのはこれかも。

アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』
 映画。こんなのずるいよ、というオチだと思うのだが、ジグザグ道三部作の経緯を知っているとそうも思わないみたいなところと、最後のその切り替わりの巧みさに、同じアイデアを誰かが真似してやろうとしてもこのようにきちんと観ている人が舌を巻くような、そしてそこから何かを感じるような形にはできないだろうと思わされる出来で、すごかった。単純に、俳優の顔の迫力とか会話の面白さもすごくある。ずっと同じペースで面白い。

アッバス・キアロスタミ『クローズアップ』
 映画。メタのバランスやいやらしくなさに舌を巻いた。裁判のシーン、逆にあんなにザラザラの白黒とかにしちゃうんだ、と思ってびっくりした。あそこまでやられると逆に良い。
 三作くらい観ていって、人の話をしているところがものすごく面白いというのがこの人の作品のど真ん中にあるな、と思った。メタ揺らぎがあるので作中の人々が話していることを聞いていられるのだけれど、メタの揺らぎも作為的でなくて、人間ってこういうところがあるよね、とか、こういうおかしみがあるよねということに満ちているのが面白いな、と思った。

山本直樹『ビリーバーズ』上下
 漫画。あんまり好きではなかった。やっぱエロ漫画だ〜となったが、別にエロ漫画として好きな部類ではなかったのと(割と人間の嫌な面を出すタイプの話の中にエロを持ち込んでいるからだと思う)、エロ漫画でない面にしても、ちょっと『RED』の方が事実としての強度が強くて面白すぎたため。

アッバス・キアロスタミ『オリーブの林を抜けて』
 映画。よかった。『そして人生はつづく』のたったあのワンシーンを、何度も繰り返すことによって別の意味がそこに生じるというのが面白くて、こういうメタなやり方があるのだという面白さだった。
 最後のシーンのかわいらしさと、キアロスタミ役のお節介おじさん度が高くて面白い。
 これもキアロスタミの作品の中ではかなり好き。

ヨルゴス・ランティモス『哀れなるものたち』
 映画。(以下ネタバレあり)
 『籠の中の乙女』と『ロブスター』は観たことがあり、割と両方とも好きだったのだけれど、今回は刺さらなかった。作家の根幹にあるユニークさが現代の売れる文脈の枠に押し込まれて変形しているのが原因だと思う。籠の中の乙女もロブスターもぼんやりした記憶しかなかったけれど、自分の感想を読み返しながら、規範から著しく逸れたものへの興味と、ある隔離(監禁)された空間とその外側についての興味が通底してあるんだな、と思い返した。確かに哀れなるものたちは、その延長線上にあるのだけれどその二作とは徹底的に違くて、それが私としては悲しかった。好きなヨルゴス・ランティモスの気配をあまり感じなかった。
 わたしが観た過去二作との大きな相違点は、作品の持つ明るさや逸脱に対するスタンスの取り方の違いと、人と人の間にある関係性の違いなどが大きいかもしれない。過去の作品の方はトーンとしては常に暗くて、家族関係や、恋人関係というのはその関係性の過剰な強要によって、逆に規範的なあり方から逸脱し、それらがものすごくグロテスクに見えるという形がずっとあると思う。ロブスターでは、その過剰な強要の外側にでて自由になってもその強要されたものをなぞり直してしまうという絶望感もあった。
 今作も確かに、さまざまな男性による過剰な男女関係・家族関係の強要というものを受けるわけだけれど、その過剰さがマイルドになっていて、今までの作品の作品の強度の根っこにあったその過剰さゆえのグロテスクさに頼れなくなっている。どちらかというと、ベラの持つ特殊な出生による規範から外れた人間性のグロテスクさが常に物語を引っ張っている。しかしそのグロテスクさが暗い方向から捉えられるというよりかは、同じく既存の規範をひっくり返していこうとするフェミニズムの文脈を当てはめて明るく肯定的な物語に仕立てており、映画に寄せられたコメントなんかはそのグロテスクさを無視して底抜けに明るいという、気持ち悪さがある。
 フェミニズムの文脈に嵌め込まれているというのを言い換えると、ベラの成長・学習が進歩として捉えられているという風にも言える。物語の形式としては冒険譚・成長譚なわけで(それもあってファンタジックなちょっと寓話感のある描かれ方になっているのだろうが)、その形式によっても、ベラ本人の言葉によっても、ベラの進んでいく方向は進歩であり素晴らしいこと、として好意的に捉えられ続けている感じがある。それが割とずっと気持ち悪かった。ベラが娼館で知り合う女性は社会主義者だが、社会主義も進歩したことによってこの社会になるべきであると考えることだと捉えると(社会主義者の立場から進歩すべきだというあなたの言葉に同意する!というセリフもあるし)、進歩することによってベラの体現するフェミニズムが施行されるべきだ、ということと心を同じくするわけだし。逆に、貧しい子供達を救うことはできないと進歩を望まないハリー・アストレーとはサラッと分かれることになるし、最後の団欒の場にハリーはいない。この進歩であるからやるべきである、という感覚はあまりにも西洋列強が第三世界を蹂躙する際に都合よく使われてきた感覚であると思っていて、野蛮な人々をより良い人間にする、とか、野蛮な社会に文化と文明を持ち込むのだ、みたいな考えの一端を担っていると思うので、ずっとベラのことが好きになれず、ちょっとわたしの望むあり方とは違いますね……となってしまった。最後の最後の元夫のところで、アフリカなどで行われている女性割礼についてもちょろっと触れられているのなんか、第三世界のフェミニズムの観点から捉えるとかなり嫌な映画だと思う。触れなければただ自分の身体が傷つけられそうである女性がそれを拒むということで済むのに、触れられることによって暗に白人女性がイスラームなどの宗教および文化のあるところで、その中にいる女性が行っていることを否定している、という植民地主義的な面がでてしまう。あとはその進歩を、赤子の脳と成人女性の体を持った女性だからこそ、無垢で社会の常識にとらわれない状態で、女性が受けるさまざまな処遇について偏見なく考えることができ、素晴らしい道を選ぶことができる!みたいに表現しているが、それも違和感が強くて、わたしはこの無垢さとかピュアさに全然価値を置いていなくて、むしろそれは愚かさとしてしか表出しないだろうと思っているので、あれこれ自分の意思を持ってイエス・ノーを突きつけているのを見ながら、それも西洋的というか理性的な人間の賛美という感じがあり、全然受け入れられなかった。
 なので、最後の最後でヤギ人間の製造に至った時にはかなりホッとした。この物語が賛美している成長や進化の帰結が、流石に気持ち悪くて倫理を超えすぎているヤギ人間に彩られることによって疑問符のつくものになるからだ。割と『ミッドサマー』も最後の最後の帰結を良い結末として捉えるか、はたまた流石にやりすぎみたいに捉えるかというのがあったが、あれはホラーなのでホラーでは女や黒人が死にやすいとかそういうことも踏まえて『ミッドサマー』(黒人については『ゲットアウト』の結末も、ミッドサマーとは全く違う形だけどその文脈の上にある結末)の結末を考えることもできるが、今回は冒険譚なのであそこまでする必要はないだろう、という風にわたしは受け取った。相手が怪我をしたのを見過ごせない、といって助けた上にこれがとても良いことであるという風にして進歩させなきゃ!とヤギ人間に改造するのは、今までの肯定的な感覚をひっくり返すにはちょっと弱いけどひっくり返しかねない結末だったので、そこだけ割と良かった。ベラの持つ社会規範にとらえられない良心というのはムカデ人間的な発想のグロテスクな狂気だったと言えなくもないので。
 あとは単純に映画としての緊張感とリズムが好みではなかった。間に挟まる「パリ」みたいなの、寓話感の足しにはなると思うけどいらないと思う。

スパイク・リー『アメリカン・ユートピア』
 映画。文芸坐なので音響は良くて楽しかった。でもどうしても、『ストップ・メイキング・センス』が音楽だけのパワーでめちゃくちゃ良くて、それを求めてしまう気持ち故に、それに比べるとアメリカンユートピアはまぁまぁといった感じ。
 確かにクオリティは高いので生で観たらすごくいいなーってなる気がしたけど、舞台としてやるという視点によって組まれたものであり、そこに文脈を埋め込みたいという意図があるので、ちょっと説明的すぎて、普通にこれの元になったライブのセトリとかで演奏だけを堪能するほうが楽しそうだな、とか思った。
 全然思想としては、デヴィッド・バーンの主張に賛成するけれど、アメリカ国民でないのでアメリカの国内的な問題とそれに対する語り掛けの集積であるという点故に、あんまり響かないのもある。そうですよねあなたたちの国はそういう国だしそういうところがやですよね〜という。

テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』
 映画。暗すぎやしないか……ってなって落ち込んじゃった。あと、もうどの時代に作られたとしても、子どもと性的なものの結び付けは結構観ていられなくて、しんどくなってしまった。映像としては確かに観ていて気持ちよかったり面白かったりはするのだが、しかしそれをわざわざやるということにあまり馴染めなくて、作為の強さとかの方に気を取られてしまった。
 『永遠と一日』は割と観ていて楽しかったけれど、おそらくもう少し大袈裟にやっていたからだろうなと思った。ファンタジーの度合いが高くて、それで観ていられた感じがある。
 アンゲロプロス自作を語る、という特典映像で、池澤夏樹がインタビュアーとしてインタビューをしていて、結構楽しそうに自作の話をしていたので、あんまり暗すぎるって気持ちではいなさそうだな〜と思った。おとぎ話であり奇跡の話と言っていて、ひんえ〜となった。詩的な表現で映画を作っていると言っていたが、その詩的な表現がどうしても馴染みきれず、あんまり好みに合わなかった。

ウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』
 映画。親子の話、愛の話、ユーモア、が割とずっとあるな〜と頭の中で思いながらみた。アンゲロプロスが暗かったのでちょうどいいやつみたいよ〜〜ということで観た。良かった。

ギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リム』
 映画。観たことないの?!と家人に言われてアンゲロプロス→ウェス→デル・トロの謎リレーになった。俗の方に走り抜けた。良かった。
 エンドクレジットの後に、本多猪四郎に謝辞のようなものが付されていたので調べたら、全然知らないことがたくさん書いてあって面白かった。

ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』
 映画。実は見たことないシリーズ。観終わった後に指をもぎ取る真似をするなど。面白かった!
 やっぱりデルトロの作品は王道の楽しさを味わいながらも、他の作品では味わえないデルトロらしさというのを有していて、それがすごい良かった。

林田球『大ダーク』1.2.3巻
 漫画。死ま田=デス、が女なのほんといいな〜〜。
 みぼすパンの調理を読んで、SFのサプリ飯的な不味そうなメシはたくさんあっても、サプリ的なものからうまそうなメシができるってあんまないかも〜、と気が付いておもろかった。ドロヘドロの時も美味しいメシだったので、それだな、と思う。
 最新刊読もうと思ったら全て忘れてたので頭から読み直しです。4月に続く。

ポール・トーマス・アンダーソン『ザ・マスター』
 映画。頭から終わりまで、ホアキン・フェニックスがすごくて、すげ〜、気持ち悪い〜すご〜ってなっていた。爆発する暴力に笑い転げるなど。
 この話恋愛の一瞬の瑞々しさみたいなことがギュッと凝縮(爽やかな形ではなく)されている作品とかと比べると切れ味やテンポはちょっと鈍いが、長い人生の中で、メチャクチャな人間の間に生まれる絆の尊さみたいなものがそれらの作品と同様にあって、この作品においてはそれがとてもゆっくりした形でしかもぼんやりした形で存在しているというのが、この作品の中心にあるので、切れ味やテンポは鈍くてもいいのだと思う。
 PTAの奇人を愛する気持ちとか、奇跡のような一瞬へのときめきはやっぱりあって、それがめちゃくちゃ映像としてかっこいいので、グッときてしまう。シークエンスのつながれ方とか、まぁまぁ時間軸飛ぶのに、ガンガン繋げる凄さとか、説明しないけれど映像で引っ張る力の巧みさを改めて感じた。本当に必要なシーンしか無いし、その結びつきに脈絡がないように感じるが観ていると総合して全て必要であるというのがわかるという不思議さ。
 これの直後に『カモン・カモン』観て比べたくなったけど夜遅かったので諦めた。今度観たい。

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