見出し画像

書くことと読むことは一人

 noteを再開することにしたが、習慣がすっかり消えているので何を書くか日常的に考える癖も消えていて、今日の昼間にnoteを再開したことを思い出しハッとした。

 演劇の上演が終わり、土日に稽古が続く日々も終わり、6月が終わり、それと入れ替わるようにして今月からは友人の制作する映画に出ることになったのでその撮影がある。演劇とほぼ同じメンバー。
 昨年か一昨年くらいから、映画の観る量が大きく減った感じがあって、この撮影に関わることで久々に映画に触れる時間が増えた。といっても微々たる量なのだが、一つ一つのショットをつぶさに見つめたり、作る視点から見ることを久々にしている。

 演劇より映画の方が編集を司る一人に力が集中する感はあるが、しかし複数人で作るものであるということには変わらず、そういう場に参加していると、自分が製作者の一員であるという自認が著しく下がり、どんなものができるか楽しみだなーという、他人事のような感覚がついて回る。
 参加していて楽しいし面白いし、意見をすることもあるけれど、自分で文章を書いている時の感覚とは全く異なっていて、一緒に作っている誰かがいると大抵にして少しばかり気が抜ける。申し訳ない気もしつつ、できる範囲で楽しんで口を突っ込んで、先を見越した何かというよりはその場の楽しさに浸っている。
 むかし一番親しい友人と話している時に、はたちゃんはホスピタリティがないよね、と言われたことを思い出して、その言葉の的確さを愉快に思う。こういう人間関係に於いて、ホスピタリティがない。

 しかしそうやって参加をしていると、自分だけの何かの時間がふつふつと欲しくなってくるのも事実で、最近はそろそろ小説を書くのを再開したり、noteを書いたりしたいなぁという気持ちになることが多々ある。
 どちらかといえば、心地よい相手であれば常に人と居たいと思う方であるというのは二十余年生きてきて自分に深く根を下ろす欲望の一つだと実感しているが、何かを創るという欲望に一番適うのは一人きりの形であるというのもまたかなり確かな自分に根付いた欲望の一つなのだ。
 何かに軋轢や不和、不快感や違和感を感じると、それを言葉に落とし洗い流すのは一人での作業となりやすいが、何かを創ることはそれに近くて、人前で意見を言ったり、何か複雑なことを話すことは年々容易になってきていると感じながらも、一人でそれを考えている時には及ばないという感覚もまた健在であるというのが、最近の再確認事項だった。

 六月は碌に本を読んでいなかったので、リハビリがてら須賀敦子のエッセイを読んでいる。全集の一巻を読んだ時から気に入っていて、非常にノロノロとしたスピードで気が向けば読むというのを繰り返しているが、その何が良いのかというと、須賀敦子のエッセイにはたくさんの人が出てくるが、その誰もが手の届ききれていない他人として存在していて、その人の見えない面や、彼女とその人との距離にピントが合っていて、常に彼女が一人でいるような感覚があることなのだろうなと思う。

一人である、ということの居心地の良さは、一人であるという物理的な状態というよりは、一人であるという人の側にいると、自分も一人であれるというような心地よさだなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?