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9月読んだもの観たもの

カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの幼女』
小説。『スローターハウス5』の後に読んで、ヴォネガットの持つ決定論的な感覚は他の作品にも共通している感覚なのだというのがわかり、これが作家の中心的なテーマで、作品としていろんなバリエーションで描かれているのは、かなり気になる、と思った。決定論を描き続けるニヒリスティックな面がありつつ、眼差しは温かいタイプだと感じているので、それが物語としてどんなふうに立ち上がるのかというのが気になっている理由。『スローターハウス5』は、自伝的なだけあって、かなり現実に近く、決定論的な思考と作家自身が体験したことと、それに対する片付けのスタンスがかなり現実的に読みとることができる、良くも悪くもシンプルで強い作品だった。『タイタンの幼女』は、フィクションの濃度が濃いので、はぐらかしの面や見せないようにしている部分などが増える感じがあり、より複雑で作家の感情は読み取りづらいし、明示もされていないのだけれど、その曖昧さがかなり重要であるということだよなぁ、と思って、それがどんなふうに作品ごとに揺らぐのか、というのが読むのが楽しみになった。
あと、読みながら、頭の裏側にずっと『風の歌を聴け』がへばりついていて、村上春樹うるさい!!という気持ちになった。村上春樹を先に読んでしまったが最後、ヴォネガットを読んでいる間に村上春樹のことを思い出さざるを得ない。特に読み込んでいるのが風の歌なのだが、多分風の歌はかなり近くて、めちゃくちゃヴォネガットじゃん……となる。村上春樹の諦めている感じは、こういう作品への共感とかもあるのか、と思ったが、決定的に奥に構える人の感じが違うので、読んでいる感触は違う。根っこに自分自身が居座る村上春樹と、他者がいるヴォネガットという差異のように思う。ヴォネガットは、作中人物と作家の間に距離を感じるが、村上春樹は作中人物と作家の間にあまり距離がないように感じたり、それゆえに、登場人物の行動が嫌な感じになる傾向があり、そして、ちょっと不愉快に感じることがある。女性に対する筆致が全然違うので(やはり、村上春樹には、この人は自分がモテるかどうかは結構重視している人だなという筆致をどうしても、どうしても感じる)、その辺が読んでいる時の感覚の大きな違いにもつながっているかもしれない。
どちらも本人が意図しない何かに翻弄されることが、決定論的に描かれてはいるのだが、それを屁でもないというふうにスカす雰囲気をどうしても感じるのが村上春樹で、それに対してただ翻弄されてそれが行為として表に出るということを書いているヴォネガット、という差異があって、後者の方が好みだ、ということである。

カート・ヴォネガット・ジュニア『プレイヤー・ピアノ』
小説。ヴォネガットのデビュー作なのだが、全然それ以外のヴォネガットの作品と異なった作風なので、最初ちょっと読んで、やっぱり寝かせようかな、と思ったくらいだった。ただ、本の裏側にあるあらすじを読むに、ヴォネガットにとって重要な主題がテーマであり、スタイルが違うだけで書いている本人は同じであることが実感できる作品であるのは確かだったので、ヴォネガットのことを知り尽くしたい思うならやはりこのデビュー作は避けては通れんだろう、ともおもい、悶々としていた。が、たまたま電車での長距離移動の必要があって、車内で読んでいたら、面白くなるゾーンに乗ってきて、一気に読み進められた。
「アニータは、あきれるほど近視眼的になれる女だった」と書かれていたアニータが一番苦手なキャラクターだった。
ユートピアと言われていてる社会の内側にいる人が、その社会の歪さに目覚め、そこから逸脱していく、というのがディストピア小説のよくある筋立てで、この作品も綺麗にそれに沿っているのだけれど、端々にヴォネガットらしさがあり、それがやっぱり好きだなと思った。
例えば、体制側がものすごくガチガチに強固であるわけではないことや、管理側の階級に属している人たちが、何を信奉してそこに所属しているのかというのが人ごとに異なり、それによってその体制が維持されているという描写。また、体制に反発する側も、なぜその運動に参加するのかという部分は人によって異なり、どういうことを求めていたのかということも異なるというのが描かれていて、人の書き分けというのがきちんとなされている。
管理社会の恐ろしさへの告発というよりは、人が幸福に生きるというのはどういうことなのか、ということに焦点が当てられていて、定量的なことで全て判断をして管理していくことは、人の幸福につながらないという部分は、現在の現実(資本主義社会だとか、あとはエビデンスや数値を求める姿勢、科学信奉的なものとかもあるかも)の歪さとかなり繋がっている部分があって、読んでいて面白かった。
かなり終盤の裁判のシーンで機械による嘘発見器にかけられながら話しているところも面白かった。機械と敵対する話なのだが、機械がもたらす良さというのは認めており、この嘘発見器も否定されないし(嘘発見器にかけるとは何事!!みたいな)主人公は嘘発見器にかけられているがために、できるだけ正確に話そうとしたり、ちょっとヒロイックな心地に酔っている時に嘘発見器の反応によって、間違っていたなということに気がつき、より本当に思っていることを話すようになるという流れがとても見事だなと思った。
人間が愚かでどうしようもないのは確かだが、そこに愛はある、というのがヴォネガットなんだな、というのが、他のディストピア小説との比較から浮かび上がってくる作品だった。

カード・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』
小説。すでに読んでいる三冊で感じてはいたけれど、ヴォネガットは宗教に関する関心が強い。
p20 起きることに意味はなく、そこに意味を見出そうとするのは不毛だ。
ボコノン教の既存の宗教を否定するスタイルは、プリーモレーヴィの宗教に関する言説に似ている。
ストーリーの進み方が面白い。様々な人のところを巡って、それぞれの人のエピソードがさらさらと語られ、またそこを離れ、と群像劇映画のカメラみたいな動きをしている。『スラッカー』とか思い出していた。

アベツカサ 山田鐘人『葬送のフリーレン』11巻
漫画。黄金郷の話が思いのほか長かったので、やっと最後まで読めました!!嬉しい!の巻だった。
面白かった。ものすごく感動的なわけではないが、信頼関係があっていいんだよな、と思った。

スッタニパータ『ブッダのことば』
書籍。岩波文庫でちまちま読む。結構宗教っぽい〜(そらそうだ)と思いながら読んだ。ギリシア神話とか読むのとテンションが違うので(経典だから)、そういう感じがする。孤独であり、一人で歩むことを重要視することと、インドの風土についての訳注が面白かった。

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