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トラルファマドール星人と出会う

 カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を先月末から今月頭にかけて読んでいた。とても面白かった。家人がとても大切に思っている作家なので読みたくはあったが、自分が読みたいタイミングになるまで待たないと嫌だったので、読みたいタイミングになるまで待っていたら今になっていた。
 お風呂の中でゆっくり読んでいたら、上がったあと洗面所で身体を拭いている間に、本当に『スローターハウス5』って面白いということしか考えられなくなるくらい、面白いのである。すごく面白いと思っている感覚を、言葉の方に抽出していくためにずっとそのことについて考えている感じで、読んだ直後の自分は興奮していたんだな、と今考えてみて思う。
 『スローターハウス5』はとにかく圧倒される感覚がある。読んでいると、自分が作品を良いと感じるか否かの尺度は、自分の内側が大きく波打つ感覚の有無に尽きるし、それは幼少の頃から変わらないということを思い出す。作品に圧倒されている時間は、すごく気持ちのいい昼寝みたいな感じで、それが終わった後にすごくよかったという感触だけぽやーと残る。

 『スローターハウス5』を読む体験というのは、今中盤まで読んでいたメモから感想を書くと、一人の人生の時間がランダムにつぎはぎに映し出されるスクリーンをずっと眺めているような体験だった。それぞれの時間の順序はバラバラだし、隣り合う時間の因果関係もほとんどないと言える。それにその時間を眺める目は感情的になることがなく、無感覚にそれを観ている。でも読んでいるとなぜか面白い。
 そういう、時間をランダムにつぎはぎさせるというやり方は細かい違いはあれど、小説の書かれ方としてあるにはあるし、読者に面白さを感じさせることは可能な形式だとは思っていたが(だし、自分はとても好きな形式である)、その形式を前に押し出しているSF的な設定の妙によって、世界大戦の記憶を読み、読者がそこから何かを感じ取るという体験がこれ以上なく面白く、効果的になっていると思う。
 わたしはある時期、自分の手に余る体験をした人は、それをどう取り扱うか、とか、どう語るのかということを考えていたことがあり、それに関連する本を読んでいたことがあるのだが、その際、言葉にできてしまうことで体験が矮小化されることへの忌避と、またそれがもたらす安楽という相反する二つがあるということや、その相反する二つのことがあるゆえに、条理や因果のない物事が言葉になる時には言語は混乱した形で表出することも多々あるということも知った。
 小説というのは、そういう混乱した事実を、言葉による単純化を避けて伝えることができるものだとわたしは思っている。しかもそれは、そういう物事を淡々と、事実を述べる筆致によって、表現せしむるのだと思っていて、それはまさに『スローターハウス5』だ、と感動していた。『スローターハウス5』は、第二次世界大戦時にヴォネガットが体験したドレスデン爆撃の話であり、その事象はその渦中にいた人間の手に余る事象だったからである。

 ヴォネガット自身の価値観と、作品は分かち難く結びついているだろうというのが、特に色濃く感じられる作品が『スローターハウス5』だったのではないか、と、『タイタンの妖女』に手をつけてみて思った。が、全作品に於いて、『スローターハウス5』に於ける、一番重要と言って過言ではない決定論的な感覚は存在していて、それをさまざまな作品の形で体験し、ヴォネガットが生きることや世界をどう考えていたのかということをゆっくり知っていくというのがとても楽しみになった。仲良くなりたい友達を見つけた時の喜びみたいで嬉しい。しばらくは、ヴォネガットを読むことになりそう。

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