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ツイッタの友敵理論(クソデカため息)


 この記事は「ツイッタの友敵理論はクソだ」と言いたいわけではない。誰しも党派的思考をしてしまうことはあるだろう。
 ただし非常に残念なことに、ツイッタで使用される友敵理論は、カール・シュミットの友敵理論の誤読・ミスリードに基づいると思われる。この点本当にクソとしか言いようがない。

1.友敵理論の「敵」は誰なのか

 以下の引用はシュミット先輩が呈示した、余りにも有名な政治的なもののテーゼである。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。
田中浩 原田武雄訳『政治的なものの概念』1970年 未來社 p15より引用

 ただこの箇所のみが切り取られている場合がツイッタでは少なくないのである。友敵理論の「敵」は誰を指すのか?『政治的なものの概念』でシュミット先輩はいくつか条件を呈示している。以下の3つにまとめられよう。

①公敵であって私敵ではない。
②存在的に他者・異質者である。
③「闘争の現実的可能性」を有している。
『政治的なものの概念』のp14~33より、投稿者による作成

①公敵であって私敵ではない
 簡単言えば、友敵理論の敵はまず「国家の敵」ということであり、ゆえに「公敵」となる。「戦敵」と言い換えることもできよう。つまりは私のような下々の人民には、敵は誰かを決めることはできない。また「敵」の顔を知っている必要もない。
 なお私敵とは「両親の仇」などが挙げられるが、それは友敵理論の「敵」のは当たらないことになる。

②存在的に他者・異質者である
 ややきつい言い方だが、「存在的に」と言っているので、まずこの地球上に現物よして存在していなければならない。例えば「男は家を出ると7人の敵がいる」と言われるが、この「敵」は隠喩となるため友敵理論の敵には当たらない。
 他者・異質者というのは極端に言えば「存在するだけで自分の実存を否定しうる者」ということになる。異民族や異教徒は存在するだけで自民族を否定する存在となりうるため、友敵理論の「敵」となり得る。

③「闘争の現実的可能性」を有している
 これが最も重要である。闘争というのは比喩ではなく、物理的闘争のことを指す。つまりは敵対が極度に達した場合は武力衝突になり得る可能性を常に有しているのであれば、友敵理論の「敵」となる。

というのは、敵という概念には、闘争が現実に偶発する可能性が含まれているからである。
田中浩 原田武雄訳『政治的なものの概念』1970年 未來社 p25より引用

別の箇所ではこう言っている。

友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味をもつのは、それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、そのかかわりをもち続けることによってである。戦争は敵対より生じる。敵対とは、他者の存在そのものの否定だからである。戦争は、敵対のもっとも極端な実現にほかならない。戦争はなにも日常的・通常的なものである必要はないし、また理想的なもも。望ましいものと感じられる必要もないが、ただ、敵という概念が意味をもち続けるかぎりは、戦争が現実的可能性として存在し続けなければならないのである。
田中浩 原田武雄訳『政治的なものの概念』1970年 未來社 p26より引用

①~③をまとめると友敵理論は主権を持つ国家間同士の戦争を想定している。異国は国家によって「仮想敵国」となる場合があるし、また国家の同質性を揺るがす存在であり、さらには「闘争の現実的可能性」を有しているからだ。ゆえに主権国家は国内において「敵」を定めることができ、交戦権を有し、自国民の生命を意のままにできるのだと。

2.ツイッタの友敵理論

 面倒なので引用してしまおう(クソデカため息)。最終閲覧は2022年3月7日である。

仰ることは理解できるが、党派的思考と友敵理論はあまり関係ない。おそらく「友敵理論的な発想の人」というにのは「敵か?味方か?でしか物事を判断しない人」を指していると思われるが、ならば友敵理論という言葉を使う必要がない。もう少し言葉を大事に使ってほしい(願望)

仰ることは理解できるが、友敵理論の敵は共感とかどうでもいいし、誰が敵なのかを個人が決めることはできないし、「私のお友達を悪く言う奴」は私敵である。よってシュミット先輩の友敵理論とは何の関係もない。

敵は「好悪感情」では決まらないし、友敵理論の敵は「共感性」が入り込む余地はあまりない。てかネットの「好悪感情」で闘争の現実的可能性が生じる可能性は非常に低い。交通事故に遭う現実的可能性のがまだ高いだろう。

なにこれ(素)

3.ツイッタの「友敵理論」の意味するところは?
 この記事では3つしか引用できていないが、ツイッターで「友敵理論」と検索すれば、上の3つとおおよそ同じ内容を見つけることは容易いだろう。ツイッタの友敵理論はどのような意味で使用されているのか?
 一言で言えば「党派的思考」ということになる。つまりは「自分の敵か味方でしか内容の妥当性を吟味できない」人を指している。
 しかし、自らを「私は友敵理論的(党派的思考)だ」と名乗る人間は珍しい。「私は政治的だ」と自称する人間が少ないのと同じである。ゆえにツイッタの友敵理論は、対立相手を罵倒するときに使用される言葉である。もっと言えば「お前はイデオロギーに囚われている」と暴露するために使用される。このことについてはシュミット先輩が適切に述べている。

すなわち、敵を(世事にうとく、具体性に欠くという意味で)「非政治的」と呼ぶばあいにせよ、逆に、敵を、「政治的」であるとして失格させて告発するばあいにせよ、つまり自分のほうは(純粋に現実的、純粋に学問的、純粋に道徳的、純粋に法律的、純粋に美的、純粋に経済的であるという意味で、もしくは同様な抗争的純粋性を根拠にして)、「非政治的」であるとして、敵の上位に立とうするばあいにせよ、同じことであるが。
田中浩 原田武雄訳『政治的なものの概念』1970年 未來社 p22~23より引用
太字は投稿者による。

 ゆえにツイッタの「友敵理論」は「お前は政治的だ!イデオロギー的だ!」と相手を罵倒するために使用されていることになる。太字引用の部分とやっていることはほぼ同じである。シュミット先輩は預言者か何か?

4.おわり

 シュミット先輩の「友敵理論」とツイッタの「友敵理論」は全くの別物だということが分かった。ツイッタの「お前は友敵理論的だ」というのは「お前は政治的だ」と言って、相手の主張内容を台無しにしようとするものであるということも分かった。
 「お前は友敵理論的だ、政治的だ」と言うのは自由だが、二度とカール・シュミットの名前を出さないでほしい(願望)。

5.おまけ

気が収まらないので動画をはる。つかこの記事は非常に基本的なことしか言ってないんですよねぇ…


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