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普遍性vs個性

どうも、

ノミが白昼夢をみた、です。

ついさっき面白い動画を見ました。

ホリエモンが出演していました。

ある人がホリエモンを型にはめようとするんですが、ホリエモンは全く型にはまってくれない、というような内容でした。

本当に見てて、画面越しで義こち悪さが伝わってきます。

西洋みたいに、両サイドがガツガツディベイトをしていたらよかったんですが、

ホリエモンが相手を一方的に全否定していくので、、、

で、

そこで気になったのがホリエモンの

「世界のマーケットのこと考えている」という発言です。

なんでも良いです、何かを作る・創る・造る人は普遍性個性のどちらを目指すべきなんでしょうか?


答えは、普遍性です。多分。


ですけど、これは決して個性を否定しているわけではないんです。

むしろ、個性が生かされます。

まず、いうまでもなく個性は何かを作る行為の大前提にあります。

ユニークでなければ注目されるなんて不可能です。

「ジャポニスム」がその一例です。日本的であるからこそ好まれるということがあります。

しかし、個性だけを目標としてしまうとその文化圏内でしか評価されない作品が続出することになってしまいます。

閉鎖的な文化になるということですね。

確かに、自分が所属する文化をアピールすることは大事ですが、その文化圏から一歩出たら、誰も理解してくれないような作品にどれほどの意味があるでしょうか。

個性にこだわるのは、無意味ですらあると捉えることもできます。

だって、「日本的」であることを個性の例とすると、その人はすでに日本で生まれ育っている時点で個性を身につけていることになりませんか?

日本語であったり、相槌であったり、微妙な感覚であったり、個性は意識されないほどに身にしみついちゃっているものです。

そして、意識されないからこそ意味があるものなのに、そこをわざわざ強調する必要はないのではないでしょうか。

だから普遍性が優先された方が望ましいということです。

ドストエフスキーの『罪と罰』を考えてみましょう。

彼が普遍性を目指していたか否かについては置いといて、

ロシア語で書かれているあんなにも分厚い本がなぜ世界で重宝されるのでしょうか。

それは、本の内容が普遍性に富んでいることにあります。だから、なんか国語にも訳すことができ、より多くの人に愛されたということです。

もちろん、翻訳の過程で失われる部分はありますが、作品の中心的メッセージが普遍的であるということが大事です。

大事というのは、誰もが理解できる内容ということです。

マーケティング戦略としてある特定の層を対象としているビジネスとは違って、クリエーターは多くの人に認識されたいと感じるのではないでしょうか。

個性と普遍性は対立関係にあるのではなく、個性を活かすためには普遍性を意識する方がためになるような気がします。