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生きてることへの申し訳なさ

なんとなく続いてる続き。

前回のあらすじ:
滅茶苦茶やってた無職のハートは、ガラス細工。

気のせいでなければ、「働くのはいやじゃー」ではなく、生きてることへの申し訳なさみたいなものをひしひしと感じるんだわ。もちろん、ほんの一部なんだろうけど。

それはなんだろう、働けない自分が生きてることが申し訳ないのか。
生きてることが申し訳ないから、ずっとそこに留まっているのか。

分からないけれど、心当たりはある。
私なんかで申し訳ないなっていうのが。

お店とかいくじゃん。
ああ、私なんかが来ても店員さんに申し訳ないなっていう。
これが嵐のメンバーでも来たら(10年前だからね)、店員さんも嬉しいと思うのに私なんかですみません、、みたいな。
どれだけ自己価値が低かったのでしょう。
(まあ、お手を煩わせて申し訳ないって気持ちは、場合によっちゃあるけれども)

この謎の申し訳なさ。
私たちは、決してナマケモノなわけでも、自分だけ楽して生きたいわけでもない。
むしろ真面目な部類だと思っている。
そして、謎の苦しみに喘いでいる。

自分なんかが生きてて申し訳ないっスって気持ちは、一体どこから来るんだろう。
まるで、何かに打ちのめされたような。
大きなふさがってない傷を抱えたまま、最小限に小さく呼吸して生きているような。

無職は何でもできるチャンスって思うのは間違いないけれど。
そんな風に打ちのめされた心で、何かやってみるチャンスだよなんて言われても・・・
っていうのが、過去の私からのツッコミである。

「そうだよ、だから長らく前向きになれなかったんじゃん。
そりゃ体験2度目のアンタなら、そう思えるんでしょうけどさぁ・・・」
(過去の私の声)

そうでした。
2度目の無職の時は、契約更新か破棄かで、なんとなく辞め時が分かってたからともかく。
中には急な事情や人員整理など、不本意な形で辞めざるを得ないってこともありますもんね。
そうなったら、その衝撃の方が大きいのは当然で。
かつての自分も晴天の霹靂にも似た感じで突如、明日やることを失ってしまったので、しばらく茫然としてた。

「そう、それが多くの人の状況ですよ」(過去の声)

すみませんでした。
いやぁ記憶ってのは、新しい物から、しかも美化された思い出の方が先によみがえってきますもんで。。

そうだよね、その一度茫然とした状態で、再びエンジンをかけるって難しいですよね。

それに加えて「私なんかが、、」って申し訳なさを持っていると、そもそも希望の光さえ見えてこない。
眩しすぎて、光の中では目を開けてられないから、薄暗い方が安心できたというか。居心地がよかった。こんな自分には、薄暗い部屋で苦しんでる方がお似合いだよねって。

何より私は当時、晴らせない恨みと、その根底にある傷つきをずっと抱えてて。
それと向き合いたくないが故の、やっぱり働くなんて自分には無理だったんだ!という嘆きというか、拗ね?のようなものもありました。

そんないじけた状況で新しい目標を見つけるなんて、そもそもが無理だった。

私だって最初から希望をもってたから、何かをやってみようと思えたわけじゃないのです。それができたのは、2度目だから。人生2回目みたいな余裕さがあったからこそ。

初回は、むしろその逆で。
ずっとそこに立ち止まったまま。
確かに動いている時間の中で、自分だけが止まっているような感覚を生きて。
だからこそ取り残されたような感覚を覚え、生きてる意味を考え出したり、
自分の価値を下げてしまったりするのでしょうね。

つづく

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