お布団『アンティゴネアノニマス - フェノメノン/善き人の戦争』

 2017年1月25日にシアターバビロンの流れのほとりで観たお布団『アンティゴネアノニマス - フェノメノン/善き人の戦争』。

 ギリシャ悲劇を元にしてブレヒトが再解釈を加えた戯曲の上演なのに、序盤の登場人物のチュートリアルの部分を観ていて最近ライトノベルや漫画雑誌で異常に流行っている「異世界ファンタジー転生」ごっこ感が払拭されなかったらどうしようと思ったけど、

(これは単純にキャスティングの問題だと思いますが、同学年/同世代ばかりの学校の教室の中みたいな俳優の並びの「生身」と戯曲の組み合わせが語ってしまう微妙なリアリティもある。冴えないダメな日常がそのままモンスターを捕まえるんじゃなくて魔物を魔法で倒すのかどっちかのファンタジーと通底する鬱屈した青春エンターテイメントの根強い需要……田中ロミオの名作『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』などで人口に膾炙したいわゆる「中二病」を描くジャンルは2010年代に入ってからは「なろう系小説」と呼ばれているのか(さやわか「文学の読み方」参照)、要はKADOKAWAとスクエアエニックスが牽引する「ゲーム的リアリズム」の物語が何年もかけてシリーズ化されてスピンオフのエピソードにまで分岐してもまだ飽き足らずにバージョン違いの語り直しで形態を変えてメディアミックスもされる消費サイクルでどんどん増殖しているということですが今やスマートフォンやタブレットの電源さえ切れなければいつでもどこでも現実逃避のファンタジーが用意されている日本社会、話を戻すとこの劇中にも見たことないレトロ携帯ゲーム機が転生していて王の暇つぶしになっていた。余談が脱線しますが個人的にそのジャンルでは『ダンジョン飯』の九井諒子が好きですね。)

 ……その不安は大きく別の方向にねじ曲げられた。ギリシャ悲劇の侵略戦争を起こす暴君に囚われた王妃の運命を3016年の「人間が死ねなくなって魂の抜け殻になった後も労働力として動かされるようになった」未来に置き換える飛躍した設定で、王の指令に対して断固として反抗した態度表明により民衆のシンボルとして支持を集めてしまった「アンティゴネの処刑」というトピックをめぐって城を囲むテーバイの群衆達に沸き起こった「人間を寿命の定め通りに死なせないのは冒涜だと反対する生命主義者」の反体制デモと過激派テロリストとの闘いが前面に出てきた辺りから、数千年のスケールに跨った「戦争」をモチーフの中心に据えていながら暴力的な映像や効果音も武器の小道具も使わない(ナイフや銃はボールペンを携えた手振りで演じられる、つまり派手なイメージによる惨劇の可視化よりもそこで起きる一連の行為のプロセスへと分解されている)この舞台で何を例題にして「異化・モデル化」したかったのか、現実逃避的なファンタジーの背後に聳えている社会情勢やポストヒューマンな思考実験とのリンクが見えてきたような。それでもかなりさりげなくシチュエーションの行間から覗かせる暗示に留まっている。

 なぜそっちを先に片付けないのかと自分でも不思議なんだけど今まさに締め切りに向かって書いている真っ最中の、昨年末に公演があったキュイの劇評のタイトルが『テロルとスペクタクル−−不条理/ダークサイド演劇の「現在地」』だったので奇遇な所もあった。

 渦中のアンティゴネはこの舞台の空間には姿を見せず、その妹であるイスメネが幽閉されている部屋に騒ぎが浸入してくる城外乱闘のデモや戦場の中継映像もその場で俳優が空間を重ねて編集するようにして演じて見せるのだが、シンプルな動作の配置と台詞だけで現象する場面と場面の切れ目のモンタージュで観客の想像力が汲み取る解釈の揺らぎが生まれる、いわゆる「玉ねぎの皮剥き」的なリアリティの構造が畳み掛けられる。そのP・K・ディック等のSFで言われていた不確定なリアリティと同時多発会話が導入された「複雑系演劇」以降の手法を掛け合わせるようにして、紀元前のギリシャ神話のキャラクターと、2017年の日本の、ソーシャルメディアを介してどこに潜んでいるのかわからないホームグロウン型の無差別テロのニュースが飛び込んでくるようになったその皺寄せで世間の監視の目が強化された結果と裏表一体の現象でもあるどんな些細な言動に火が付くのか不可解なネット炎上と背中合わせの若者の日常(遠くのバーチャルな存在を呼び出すiPhoneやタブレットだけは小道具として強調されていた)と、3016年の不滅になった死体が再利用されるバーチャルな戦場が重ね合わされていた。
 あと近未来のシミュレーションっぽいデザインの字幕のプロジェクションで場面が転換するのと連動した電子音や情景が変化する際の照明など視聴覚的なエフェクトも巧みだった。衣装は20代の男女の普段着+αで毛皮や鎧風のパーツやフードが付いているアレンジだった。

「これは私たちの話ではありません」
「実際に似たようなことがあったことなのかもしれないし、なかったかもしれません。その似たようなことがあったかもしれないこと/あるいは、なかったかもしれないことを、あなたが知っているかも知れないし、知らないかもしれません。」(「アンティゴネアノニマス」戯曲より)

 人格(魂)のコピー、及び人体をクローン化する複製技術が実用化された劇中世界で次々と姿を変える暴君クレオン(何人かの同世代の女優が交代して演じる)が先代王のオイディプスの娘であるイスメネに秘策を語って聞かせる対話のシーンで、テーバイ市中の混乱を鎮めるための〈アンティゴネの処遇〉にその技術の行く末が行き着いた性と生殖の機能を無意味なサイボーグ化するおぞましい想像力が発揮されてからがそれまでのお布団によって改変された色々な要素や仕掛けが噛み合ってきて乗ってきたと思う。

 公演前のコンセプトを読んでこの作品で「資源として国家に回収された屍体を再利用するゾンビ兵士」を舞台上の俳優を使ってどう造形するのかに結構興味があったんだけど、そこはあえて人間と人間じゃなくなったものの見分けが付かなくなった世界として演出したとのこと。以上を踏まえて今回ここでは人間性とは無関係になった無感情で無機質な物体が殺し合うとはどういうことか、とでも要約できるような思弁の片鱗を20世紀までの死すべき人間観とリアリズム演劇観を引きずった俳優の身体を使って「叙事的演劇」にする、という実験が試みられていたのが整理できるのだが、演出の得地弘基とドラマトゥルクの塩田将也によるアフタートークでは他に演劇以外から持ってきた元ネタは「メタルギアソリッド」だったとも製作過程を答えていた。

 たまたま読んだばかりだったので文脈をつなげておくと、文芸批評家の藤田直哉は2015年の「ニューロ・フィクション論」で、SFともジャンル間で相互浸透してきた日本のメタフィクションの流れを振り返りつつ「遺伝子とミームとコンピュータシミュレーションなどが、大衆的な想像力の中で、重ね合わされるようになってきた」時代を象徴する作品として小島秀夫監督の『メタルギアソリッド2』(2001年)について、伊藤計劃の小説にも大きな影響を与えたゲームとして言及していた。

『ゲームの後半に、主人公の雷電は、アイデンティティクライシスを経験する。思想や理念、記憶すら、操作、管理されて、自分のものではないのではないか、この世界はシミュレーションの中なのではないかと疑念に駆られる。(……)ゲームの中で、ゲームのキャラクターがそのように悩むのは、メタフィクション的なユーモアを醸し出していた。何故なら、プレイヤーがコントロールしている状態から、キャラクターは抜け出せないからである。』

『ここには、人間や生命すら、記号に置き換え、情報としてしまうことが可能なのではないかという同時代の夢が、メタフィクションの形式を取って現れている。だが、このような、記号や情報に意識や生命を還元しようとする流れは、徐々に流行しなくなってくる。その理由は、前述の通りである。
 ニューロ・フィクションは、ミーム・フィクションの後継者であり、同時に批判者として現れた。デジタルではない、デジタルになりえない、「人間」の「脳」の物質的な問題に対して自覚的になってきたのだ。
 生命がデジタルになるというのは、デジタル空間に人間が移行してしまうという夢を生むものだった。しかし、腸の具合が思考や感情に影響を及ぼしたり、有酸素運動で生み出された脳内物質などが気分や思考に影響を与えたりするように、身体全体のネットワークが意識や思考を生み出しているのだとすると、そこから離脱するという夢は儚くも頓挫する(特に、キリスト教圏の、肉体は牢獄であるという思想を背景に持つ人々の書く作品が、このような夢を体現した作品を書きがちであった)。
 伊藤計劃が「意識」にこだわりながらも、「身体」の重要性を述べ続けたのも、このような時代の思潮の変化に拠る。メタフィクションは、ジーン・フィクションとミーム・フィクションを経て、ニューロ・フィクションとして現在まで継承され続けている。
 では、ニューロ・フィクションが、メタフィクションと違う点は何か? メタフィクションは、物語や小説の作動について、自覚性や反省性を生じさせるものであった。ニューロ・フィクションは、脳の作動そのものについての自覚性と反省性を発生させるのである。』(藤田直哉「ニューロ・フィクション論」)

 さらに藤田はその論の冒頭で、『ソーシャルゲームは、脳内報酬系を如何に刺激するかに特化し、大成功を収めている。フェイスブックやツイッターなど、日常的に使うSNSも、「いいね!」やRT、ふぁぼなどのシステムにより、ゲーム的な脳内報酬系の刺激を行うようにデザインされている。デイミアン・トンプソンが「依存症ビジネス−−「廃人」製造社会の真実」(2014)で、現在のビジネスは人間を依存症にさせるものになっていると言っているが、依存症が起きるのは、脳の作用である。脳内報酬系などへの刺激で、依存症になりやすくしているのだ。それが現在の文化産業の主流であることは間違いがない。/そういう時代において、小説に−−特に、純文学に何ができるのか。それが、この論の、もう一つの問いである。』と問題提起していたのも付け加えておきたい。

 ついでにそこから拡げると、「Youtuberの決断主義」という具体例がある。

 これは元々は実況動画として広まったものが、そこでプレイしているゲームの内容よりもその部屋に写っているプレイヤーの人物像の方に視聴者の興味が移動して行って現在の放っておいても噂が喧しい「動画配信ビジネス」の形に定着したのだと推察できるのだが、動画投稿者自らが身の回りの日常生活を舞台にしてかつてのマスプロモーション時代のテレビ番組のパロディのようなチャレンジ企画を考え出すようになった。
 そして毎日のように自分の生活を不特定多数の衆目に晒し続けてアクセス稼ぎに精を出す人々が、自分がアップロードした動画の再生回数やアカウント名がシェアされる注目度によって広告収益が変動するシステムに溺れていって、他愛もないバカなリアクション芸で済んでいるうちはいいのだが、ごく一部の歯止めの効かない人の場合、瞬発的なウケ狙いのパフォーマンスが過激化していって迷惑行為で逮捕される事件も増えてきた。全体の比率からいうとごく一部の迷惑Youtuberが目立っているだけだというのを一応フォローしておくが、このネットの反応に心身を直結した結果のドラッギーな機会原因論的な(※1)、つまり合理的な因果系列を生理的かつ感性=美学的な快・不快のスイッチで切断する「神/経」に責任転嫁した脊髄反射の「リアクション」の連鎖にアディクトしていく迷惑Youtuberの世界は神のお告げに擬した匿名のコメントに操られる『巨人と玩具』ならぬネットの玩具みたいになっていると思う。「脳の作用」に踊らされるインターネット時代の「超越的な男のロマン」の暴走である。ニュースで報道されるものすごい空虚でしょうもないフレーズの数々の影で密かにゲーム内のキャラクターとプレイヤーの位置関係が逆転していると言える。

『ロマン主義的に構成された機会をもととするこうした政治行動の不滅の典型はドン・キホーテである。彼はロマン主義的政治者であって政治的ロマン主義者ではない。彼はより高い調和などのかわりに正義と不正との区別を見、その正義とするもののために決断を行う能力を持っていた。』(カール・シュミット「政治的ロマン主義」)

『ロマン主義は、とにかく“何か”に動かされているのだが、その“何か”は○○だと特定した時点でそれはすでに仮象になってしまい、「本当に動かしている真のものは何か?」、という話がまた出てくる。それが延々と続き、最終ゴールが見えてこない。ロマン主義的反省によって、「真なるもの」により近付いているかどうか、分からないわけです。ヘーゲル主義者やシュミットから見れば、「全然埒があかないではないか!」、と苛々してくる。/つまり、ロマン主義者にとって、「革命」は「審美的」な対象であり、重要なのは、政治的理念とか規範ではなくて、「パトス Pathos」であったわけです。初期ロマン派は、そうした革命的・美的パトスに惹きつけられたわけです。』(仲正昌樹「カール・シュミット入門講義」)

 とりあえず、TV画面の中のタワーの炎上とモバイルデバイスに表示されたアカウントが炎上する事件の因果関係については、現代思想では死を恐れない行動により「欲望を諦めない倫理」の代名詞になっているアンティゴネも主要な登場人物になっている『リアルの倫理』などを糸口にしてこれまで様々なアプローチで論じられていますが、そういった諸々が日常化したスペクタクルとして消費されているのが2011年からさらに10年ぐらい遡ると見えてくる2001年以降の世界である。

 また脱線が長くなったが、『アンティゴネアノニマス - フェノメノン』の終盤部分で、クレオンをコピーしたクローン兄弟であるハイモンとメガレウスを交えたイスメネとの対話の場面の切れ目で自分があの出来事以降、繋ぎ目なしに生きていると思い込んでいるだけで実はプログラムに動かされている記憶とすり替えられているかもしれないよ、というメタな会話があったのは一体この伏線がどう回収されるのかモヤモヤさせる不穏な亀裂が開いたままのクリティカルポイントだったけどさりげなさ過ぎて後からじわじわ効いてくるタイプの不協和音だった、というのを書き忘れるところだったので今振り返っておこう。「自分が本当に生きている人間だと錯覚していませんか?」という問いのフレーズを発する俳優の視線は一瞬客席にも向けられる。

 ギリシャ世界にまだキリスト教が生まれる気配のない2400年ぐらい前の劇なのに何回か神に祈りを捧げるポーズでアルコール依存症の治療プログラムでも使われるのでおなじみのラインホールド・ニーバー牧師の「変えるべきことを変えるための勇気と 変わらないことを受け入れる静けさと その二つを見分ける正しさが 私たちにありますように」が引用されて混ざってくるのはどういう意図で古代と西欧を折衷したマッシュアップ文化が継承されて残った3016年のテーバイになったのかな?(教会の権威が信じられなくなった近代にギリシャ芸術を見直そうとした復古運動はどっちかというとアンチクライスト主義だったような)とか他にも気になる所はあったけど初日に観てしまったので、一応ネタバレ部分は公演が終わってから書き足します。

※1「ロマン主義とは、主観化された機会原因論である」というカール・シュミットの『政治的ロマン主義』の概念については、仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』で三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地での自決事件なども例にして詳しく解説されている。ちなみに「機会原因論」の神学を体系化した17世紀のデカルト派の哲学者・マルブランシュはサミュエル・ベケットの作品にも影響を与えている。 
 現代演劇に登場する『「シニカルな現代人」が抱える不気味さ/「趣味」がもたらす身体の徹底した受動性が精神的でも物質的でもない「真の原因としての<神>の意志」に動かされるあやつり人形に反転する、というモチーフ』(インターネット時代の人間観?)についてはここにも書きました。最後に『ゴドーを待ちながら』に出てくるラッキーの「網の踊り」を想い起こしておこう……『だが今じゃ、できるのはこれだけだ。なんて名をつけているか知ってるかね、この踊りに?/当人はあれで網の中でばたばたやっているつもりだ』(※2)

『機会原因論は、神が精神と身体を動かして、両者を連動させていると考えます。つまり、「私」は、「私」自身が主体的に思考し、身体を動かそうとする意志を持つと思っているけど、実際には神によってそう仕向けられているので、「私」自身に身体を支配する能力がなくても、両者は予定調和するわけです。通常のキリスト教にも、神の介入という考え方がありますが、機会原因論では、全ての心身の連動に神が介入し、神が真の原因になっていると見るわけです。この世界の運動の全ては、神によって起動されていて、個々の人間や物体は、その運動の「きっかけ」に偶々なったにすぎないわけです。
 そうなってくると、私が何かやっているように見えても、実際には、神が私の手足を使ってやっていることであって、私は単なる観客にすぎない、という感じになる。』(カール・シュミット入門講義)

※2 『わたし〔エホバ〕は彼に網を打とう。彼はわたしの網にかかるだろう」(『エゼキエル書』12・12) そのほか「トロイアはゼウスの網に捕らえられている。」(『アガメムノン』)、「神はわたしを捉えようとどんな網を織っていたのか」(『オイディプース』)など、ギリシャ悲劇でも「網」と「神」の結びつきがある。』(高橋康也による「ゴドーを待ちながら」第一幕の注釈より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?