俳優の「仕事」とは何か? 山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』/入江陽

2015年6月10日(水)

 水曜日に横浜STスポットで観た主演・大谷能生、作/演出/振付・山縣太一のパフォーマンス公演『海底で履く靴には紐が無い』。

 出演者によるアフタートークで今回は「舞台で表現を立ち上げる人(体)がいちばんすごいんじゃない?」という動機から始まっているので物語はどうでもいいものにしたかった、と言っていたが「身体より脱力した台詞」がありうるとしたら逆にすごいのではないか。

 主にダジャレ寄りで、台詞の語尾まで来るとそこから細切れに連想が飛んでいく戯曲だった。会社内で何回「呑みニュケーション」を奢っても人望が得られない上司(大谷)が部下(松村翔子や宮崎晋太郎)に対してディスコミュニケーションに陥っている、という設定が仄見える。

 本番中の時間のあいだ白い平面でできたその場の重力(直立姿勢)が歪んでいく、変な方向に力み過ぎて相手に届かない他人(ここでは会社の同僚)へのアイコンタクトとボディランゲージを必死で全力でやる、というのはつまりチェルフィッチュの岡田利規が一時期から始めた「日常生活にあるのかないのかギリギリの言葉と身体挙動のズレをフィクションにして上演する」という手法を増幅したものだと解釈できる。そこに「牧歌的な気持ち悪さ」とでもいうべき、一つの動作を粘着的なランダムさを目指して分解するグニャグニャ化が加わっている。

 途中で振り付けをした山縣太一本人がバックステージから登場してきて主役の大谷と交代して「ちょっとちょっと、手を止めて、話を聞いてくれる?」と斜めに傾いた姿勢でグニャグニャしながら松村翔子に迫っていく言動を繰り返す場面があるのだが、動きだけじゃなく登場人物全員の台詞回しもネット回線の通信が寸断されてフリーズしかけたパソコンでYoutube動画を見続けている、みたいな人力グリッチ的なガクガク途絶しながら動き続ける「負荷のかかった」時間感覚(強烈に癖のあるノイズが混ざった「太一メソッド」)に統率されているので1時間ぐらい観ているうちに酔った……というなかなかない「演劇酔い」体験は、藤原ちからがBricolaQのブログで指摘しているように、おそらく反復のカタルシスもないひたすら底なしの「太一メソッドの実験台」になり続ける大谷能生のソロ即興パフォーマンスとしての性質が強かったからだと思う。

・ダンス批評サイト・BONUSの稽古場インタビュー
http://www.bonus.dance/special/03/

・この舞台を制作した、山縣太一が主宰するオフィスマウンテンに公演記録がある。
http://officemountain.tumblr.com/post/141885112399

・山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』 - BricolaQ Blog (diary)
http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2015/06/12/152955

2015年6月29日(月)

 渋谷WWWにて入江陽のアルバム「仕事」のリリースライブを観た。共演したのはまずアルバム曲の「やけど」にラップで参加してもいるOMSB(SIMI LAB)のDJがあって、ジンタナ&エメラルズはコスプレ的マーティン・デニー感?をディスコからクラブへと移り変わった時代のコーラスグループへと翻訳してショーとして真面目にやっている気概があった。

 メインの入江陽バンドは、大所帯のリズムでBPMが特殊加工されて揺れ動くいやらしいアレンジ(良い意味で)のソウル〜ファンクから1人でマイクの前に立ってキーボードのみで弾き語る曲まで歌手としての振れ幅が多芸だったが、とりわけ「JERA」でのモード奏法で蛇行して爆走する大谷能生のサックスソロと渡り合える楽器として伸びやかに切り込んでくるボーカルのドライヴ感が至福であった。

 そういえばこの前ele-kingに載っていた矢野利裕による入江陽&大谷能生インタビューの中に、『78年~81年あたりの、歌謡曲とブラック・ミュージックのアレンジが結ばれていた時期というものが、僕にとって印象深いんです。松田聖子が誰のアレンジでなにを歌うとか。』『でも、誰が流しているのかも誰が歌っているのかもわからないけど流れている、そして、それを好きになる、という状態に対する渇望がわたしにはものすごくある。現在はそういうことがないから。それがないことに対して、ものすごいイライラするわけ。他の人がイラつかないのが不思議なくらいですよ。』という話の後に「アイドルのプロデュース仕事が来たら、全力でやってみたい。」という見逃せない一文が。

『大谷:70年代後半から現在にいたるまで、日本の歌謡チャートに入っているものは、たぶんワタシ、普通にほぼ聴いているんですよ。誰がなにをアレンジしてなにをしたかということも、あとになってから研究しているんで、だいたいわかってるつもり。筒美京平がどれだけどのように同時代のブラック・ミュージックを取り入れているか、とか、それが75年の時点で日本でどう響いたか……みたいなことに関しては3時間でも4時間でも話せる。超楽しい(笑)。で、90年代まではずっとあった同世代のブラック・ミュージックと緊張との関係が、2000年代に入ってスポッと、日本のメジャーなサウンドから消えるんですよ。あたらしいグルーヴをどう取り入れて、どのように日本のウタものにするか、という工夫とアレンジが聞こえなくなった。しかも、その前の世代である、ジャズ・サウンドとの格闘みたいなものも減ってくるわけです。

 たとえば、サザンオールスターズがメジャーになってから、どんどん消えていくラインがある。78年~81年あたりの、歌謡曲とブラック・ミュージックのアレンジが結ばれていた時期というものが、僕にとって印象深いんです。松田聖子が誰のアレンジでなにを歌うとか。しかも、それが商業と結びついていて、けっこう厳しいアレンジがたくさん入っている。僕はいまだに、ああいう状態が戻ってきてくれればいいなと思っている派で、それはバンドじゃ無理なのかなあ、と。サザンとかアルフィーとかは、そういう歌謡曲のなかにいるからわたし的にはOKなわけ。職業作家みたいな人が消えちゃったんですよ。いや、いまでもいるんだけど、その人たちが孤軍奮闘という状態になっている。

■職業作家のメンツが更新されていないですよね。

大谷:そう。でも、いまだとアイドルやボカロのほうで、新しい人がどんどん出てきているかもしれない。期待してます。私はどちらかというと職業作家組だと思っているので、入江くんを使ってそういうことをしたかった、というのがこのアルバムのモチヴェーションですね。』(ele-kingのインタヴュー http://www.ele-king.net/interviews/004260/

 入江陽のアルバムの曲は個人的にはfeat.大谷能生のラップのリリックがキレキレなのもあって「仕事」が一番良かったけど「フリスビー」のサックスとの絡みがある掠れたファンク歌謡が岡村靖幸っぽい。そして町田康っぽいシュールなフレーズがさりげなく意表を突く。そこから垣間見える井上陽水や町田康とディアンジェロを単にマッシュアップして足しただけだとくどくて味が濃い胃もたれしそうな音楽になりそうなのにシャープに研がれたアヴァンポップな仕上がりなのがさすが大谷能生プロデュース。入江陽の歌詞は何気にカメラアイ的に細部を切り取る情景描写が巧みだと思う。

 それで思い出したのが、『TRASH-UP!! vol.22』という雑誌に載っていた入江陽インタビューで「仕事」の歌詞(「忘れられた者たちの声を聞く だけの仕事/わかりにくい冗談を拾ってく だけの仕事」)についてコメントしていて、『「悔しがるひとたちの横にいる だけの仕事」っていうのは医療職のイメージも含まれています。』……そうだったのか!

 今年の2016年3月に同じく渋谷WWWであった、2015年末に出た新作『SF』リリース記念の入江陽のライブは、故・野坂昭如のサングラスを受け継いだような黒づくめの出で立ちで一通り新曲をシャウトした後、忌野清志郎の「サラリーマン」と松田聖子の「Sweet Memories」のカバーを引き攣れたファルセットで弾き語りするのが印象に残った。そして未完成の映像が会場で流れていたのだが、この謎の寸劇から始まる名作PVを撮っている副島正紀監督(元精神科医)と映画を製作中とのことです。


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