小説のタクティクス/猿の演劇論・特別編/『動物園』

劇中でサラエボに核爆弾が落ちたのが大惨事の首謀者ジョン・ポールをよからぬ研究に走らせる転機になってしまう『虐殺器官』のアニメ版は結局まだ観られていないのだが、伊藤計劃が2008年の「ユリイカ」スピルバーグ特集に寄せたエッセイ「侵略する死者たち」(「伊藤計劃記録」に収録)は今読むと末恐ろしく的確にハリウッド映画のイメージの表面に映える「我々を戦争へと衝き動かす呪縛としての死者の帝国」を見通している。

『死者の荒ぶる魂は、我々の、生者の世界を憎しみへと駆り立てる。
恐ろしいことだが、それによって国体の一部が支えられている国家も多く存在するのだから、死者の国というのは強大な勢力だ。(……)我々が「ミュンヘン」の最終カットで目撃した「ふたつの塔」は、その帝国が我々の現実に侵入するための橋頭堡であり、であらばこそ、それは河の向こう側に聳え立っていなければならなかったのだ。
すなわち、我々が「彼岸」と形容する場所に。/

「向こう側」と呼ばれる何か。
我々の理解も想像も絶した領域の、此岸への侵食の予兆。それは初期のスピルバーグ作品から時折描かれてきたモチーフではある。/

(……)妻とのセックスの際ですら主人公の脳裏から離れないほどの強烈な呪縛でありながら、主人公はその「死者のイメージ」を実際には観ていない。主人公は存在しない死者のイメージに衝き動かされているのだ。ホロコーストを引き合いに出すまでもなく、イスラエルという国家の国体はこうした「死者の帝国」によって支えられている。/

二一世紀に入り、スピルバーグはそれまで漠然と描いてきた「向こう側」を、「死者の帝国」として扱いはじめた。我々を呪縛し、規定し、衝き動かすものとして。ここ三作、スピルバーグSFで起こっているのは、映画の物語がすべて死者によって牽引されているという、何ともグロテスクな事態だ。』(伊藤計劃「侵略する死者たち」)

続いて何冊かうちの文庫の棚にあった佐藤亜紀の小説をどれから読めばいいのか悩んだあげく導入として伊藤計劃など最近の同時代作家が論じられているらしい『小説のタクティクス』から読み始めたわたくしですが、「近代が約束した固有の顔」の回復/剥奪、「薄皮一枚の上のささやかな生活を維持するための凡庸な悪」など、ここまで異論反論も(ある重大なツッコミも)何もないということはつまりそんな究極の真実を書いてしまった覚えも全然ない先日公開された「現在地」論がより鮮明かつ明快に補足されるような部分が多々あって膝から崩れ落ちかけていた寸前に激しく膝を打って持ち直した。
まあでもよくよく考えたらこんな嫌なヴィジョンばかりを怨念のように詰め込んだテキストを誰もが好きこのんで読みたいわけがなかった。「この件を蒸し返すのはよくない」(アクト・オブ・キリング)、「寝た子は起こすな」ってことか……

『ある種の芸術はーー彼がやっていたような芸術はまさに、我々の生きている世界の脈絡では捉え難い、容易には組み込み難い物や事を突き付けることを目的としているからです。
そうした物や事が表しているものが何なのか、は、また後で考えるとしましょう。覚えておいていただきたいのは、正視の困難な、脈絡の与え難い、我々の世界に組み込まれることを拒否する事や物がふいに出現することがある、という事実です。無論、そうしたものに物語を与えることは出来ます。アメリカが以後演じ、日本を含む西側諸国が従うことになる、テロとの戦い、という物語も、そうした物語のひとつであり、その裏側で絶えず囁かれ続ける陰謀論も、また別な物語、表裏一体の物語のひとつです。しかしそうした物語化をあくまで拒否するとしたら。』(「小説のタクティクス」p44-45)

『世界は近代以前と同じかそれ以上に不安定であることが暴かれ、更に不安定さを増し、束の間人間の顔を獲得したとしても、いつそれを奪い去られ剝ぎ取られるかわからない場になりつつあります。どうにか薄皮一枚の上に立ちおおせて固有の顔を仮構するとしても、それは極めて危ういばかりか、果たして人間の顔と言えるものなのかどうかも怪しくなっています。』(同 p182)

先週末の土曜日に聴講したのが、オープンしたばかりの三鷹SCOOLで行われた鴻英良の講義『猿の演劇論』特別編。
チェーホフ「桜の園」に20世紀最大の革命が刻印されているように演劇にとってロシア革命がいかに重要か、しかし2017年は新しい世界像を生み出した1917年の革命から100周年なのに日本の演劇界では反応を聞かない、という問題提起から一気にその組み合わせを「政治的・社会的に重要な転換の核になっているのが演劇である」(アテナイ人たちは戦争のトラゲディアのカタルシス、恐れと憐れみを通して民主政を作った)、と古代ギリシャ演劇の起源にまで戻して近代戯曲やロシアアバンギャルド演劇の成立過程を世界史的な構造の中でとらえ直していく作業の予告がされていた。

(以下全部メモ)1991年の国際知識人会議でヨーロッパの偉大な遺産ということになった「社会主義の理念」の消滅に反応したのがアバンギャルド芸術、ポーランドではその会議で作品を発表していたタデウシュ・カントール。

ソ連の社会主義体制が崩壊し始めて資本主義が入ってきたポーランドの町の風景が一変するのを見た演出家のカントールは1990年のインタビューで「マーケットのテロの方が共産主義のテロより悪質かもしれない」というフレーズを残した。

1986年にミラノで開催されたカントールのワークショップ『20世紀の終わりを前にして』では、第二次世界大戦以後を指して「そして人類は泥と石鹸と灰になった」というイリュージョンが存在できなくなった認識から、農村の車輪や田舎の小学校で使われていた机といった使い古されたオブジェに刻まれた傷をどのように読み解くことができるのかを歴史の再配置として考える舞台作品をつくる。鴻氏によるとそれはフーコーが『ニーチェ、系譜学、歴史』で言っている「肉体は皮膜であり、皮膜に歴史が刻み込まれている」とも関連している。

2000年以降のここ10数年アフリカ・アジア・南アメリカ各地の演劇を観て回っていた時に読んでいたサイードの『文化と帝国主義』は数日前にシリア周辺にミサイルを撃ったばかりのアメリカの「新世界秩序の自己賛美と勝利宣言」を先取りしているので再検討が必要、日本でもポストコロニアル批評が忘れられている(「西洋のオルタナティヴがあるということをまったく知らない人たちの行動である」と85〜88年の講義を1993年にまとめた本で言っていたサイード)、といったように現代の演劇批評のコアな根幹がどこにあるのか今いちわかっていなかったので一気に古代ギリシャの民主政まで蒙が啓けました。

『コメディ=喜劇、トラゲディア=悲劇という漢字は完全な誤訳である、コメディアの系譜にある「桜の園」は最も悲しい作品。「詩学」のアリストテレスでさえもトラゲディアは悲しいなんて書いてない。』(コメディアの悲しみ、トラゲディアの喜び)が鴻氏の題しか存在しないエッセイで定番ネタだそうです。

そしてどうやら隣の席に座っていたパレスチナ問題について質問していた方がジュネ『恋する虜』の翻訳者でデリダの研究者の鵜飼哲氏だった模様……。

・「猿の演劇論」アーカイブ Vol.5 美学と戦争(ピナ・バウシュとタデウシュ・カントール)

最近なぜか繰り返し登場するスピルバーグも先月特集上映があったドキュメンタリー映画作家のフレデリック・ワイズマンも『アクト・オブ・キリング』のジョシュア・オッペンハイマー監督も『慈しみの女神たち』のジョナサン・リテルにしても人間の作った制度や歴史=物語を疑問に付す作品を残す人々はユダヤ系アメリカ人だったという人類の不協和音……

そういえば先月のシネマヴェーラのフレデリック・ワイズマン監督特集で一番見応えがあった1993年の『動物園』では餌を食う側と餌になって食われる側の生殺与奪権を人間の飼育員だけが管理している残酷な食物連鎖が陽気なマイアミ州の家族連れが来場する表面とその裏側まで両方克明に描かれているのだが、園の外れにある出産に失敗して死産になったサイの遺体を放り込む焼却炉のスイッチを入れた時の音が夢に出てきそうなイヤな響きだった……。
草食動物の檻に侵入してきた原住民ならぬ原住動物との闘いが突然始まってしまう猟銃を持って立ち上がる展開はいかにもアメリカ人。凶暴化した野良犬までアメリカサイズ。そしてまた処分した外敵は焼却炉が何とかしてくれるという合理的な発想。欧米では人間じゃない身近な動物が亡くなった際の扱いとしては墓を建てる習慣があまりないのかな?

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