中野成樹+大谷能生『長短調』/『みずうみのかもめ』

2010年10月某日

 池袋あうるすぽっとであった誤意訳・演出:中野成樹の公演『長短調(または眺め身近め)』から帰ってきた。

 あうるすぽっとの「チェーホフ生誕150周年記念フェスティバル」の企画であるこの舞台は、チケットの種類が「眺め」席と「身近め」席の2種類があって、よくわからないままステージ内に隔離されて新人ラップグループ、その名も〈みずうみ〉の熱演に直面する(というか「ライブを見に来た客」として演劇の一部に組み込まれる)「身近め」席を選んだんだけど、当日になってスタンディング観覧の空間に案内されてからようやく気づいたんだけど身近で観ると批評しづらいのなんの(笑)「エンジョイしました」としか言う事がなかったりする。どうやら外側の通常通り劇場に座る「眺め」席ではフェスティバルのライブステージという設定の傍らで別の物語が演じられていたらしい……。
 「身近め」席があるためにステージと客席の間が分断されているので、曲とダンスが良かっただけにここでエビバディハンズアップセイホーな状態で踊らされているのが、外で起きていることも合わせて俯瞰すると騙されているのではないか?という猜疑心も沸きつつ、よかったよかったみんな頑張った、って温かい気分に浸るだけでは済まないようになっている。「……これでよかったのか!?」という釈然としなさを抱いて劇場を後にする時、見事にこの演劇装置の罠にはまっている事に気づかされるわけである。
 そしてその仕掛けが成立するためには、一番奥のステージで主役になる20代の女性から中年男性まで年齢もファッションも見事にバラバラの男女混合即席ラップグループ〈みずうみ〉のライブのショーとしてのある程度のクオリティーが求められていたんだけど、実際のところ蓋を開けてみたら各MCの練習の成果がうかがえる熱狂のライブだった。そのデコボコメンバー達が一生懸命ダンスしてラップするっていうだけでも新ユニットお披露目の場としては「身近め」席の内側の空間で十分完結しているものだったわけだが、 事後的に「眺め」席側からのネット上の感想を集めてもあの時外で何が起きていたのか今いち想像できないので、体験のギャップを残すのがこの客席が二つに分断された劇のコンセプトなのであろう。

 つまり、ラップ版「かもめ」が劇中劇として内側のステージで上演されていて、その外のヒップホップフェスティバルの舞台セットでさらに別の「かもめ」が同時進行していたっていう複層化した演劇だった。

 戯曲の展開ごとにシンセベースと四つ打ちで上げる所とか哀愁がリリックに盛り込まれたR&B調の曲に転換する、なおかつDJプレミア的なスクラッチに乗せた各登場人物のキャラクター紹介ソングの要素もある音楽はどうだったのかというと、大谷能生の作るアイドル曲は「萌え」を茶化しまくっているような緻密に切り刻んだカットアップの捻りがあってSPANK HAPPYの菊地成孔とはまた別の確信犯的なエスプリを忍ばせている。

 ヒロインのニーナに手を出す俗悪な中年ベストセラー作家とか元女優の愚痴とかを配置した「社交界のゴシップ」としてのチェーホフの演劇を、大衆の欲望を吸い上げるワイドショー的な取り上げ方でヒップホップに置き換えたこの『長短調』には、しかもそこに去年から「こんな田舎者でもやればできる」っていうラップスターに憧れるドリームが感動の共同体を形成している入江悠監督の映画『サイタマノラッパー』の主演だったMC IKKUを起用するという意地悪な批評性があるのだが、舞台の周りに集う人々に対して新奇な趣向で飾り立てたがるアマチュア芸術家の虚栄心みたいなもの(「クリエイター気取り」)に冷や水を浴びせるようなその裏切り要素はチェーホフの原作の中にも入ってたのかな?と気になる所があったので帰ってきて戯曲「かもめ」(新潮文庫)を読んでみたらかもめエグいな……何しろ主題を単純に要約すると「芸術への憧れを捨てられない平凡な人々の不毛と絶望」だから、世界で最も上演回数の多い戯曲として認定されているとのことで説明する必要はないだろうっていうくらいの演劇界では大ネタだった。

『トリゴーリン:それじゃ、わたしがやっと物を書きだしたころ、まだ若くて、生気にあふれていた時代はどうかというと、これまたわたしの文筆生活は、ただもう苦しみの連続でしたよ。駆けだしの文士というものは、殊に不遇な時代がそうですが、われながら間の抜けた、不細工な余計者みたいな気のするものでしてね、神経ばかりやたらに尖らせて、ただもう文学や美術にたずさわっている人たちのまわりを、ふらふらうろつき回らずにはいられない。認めてももらえず、誰の目にもはいらず、しかもこっちから相手の眼を、まともにぐいと見る勇気もなく―まあ言って見れば、一文なしのバクチ気ちがいといったざまです。わたしは自分の読者に会ったことはなかったけれど、なぜかわたしの想像では、不愛想な疑ぐりぶかい人種のように思えましたね。わたしは世間というものが怖かった。ものすごい怪物のような気がした。』(「かもめ」より)

『メドヴェージェンコ あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?

マーシャ わが人生の喪服なの。あたし、ふしあわせな女ですもの。 

メドヴェージェンコ なぜです?(考えこんで)わからんですなあ。……あなたは健康だし、お父さんにしたって金持じゃないまでも、暮しに不自由はないし。僕なんか、あなたに比べたら、ずっと生活は辛いですよ。』

『トリゴーリン ちょっと書きとめとくんです。…題材が浮かんだものでね。…(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鷗のように湖が好きで、鷗のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまうーほら、この鷗のようにね!』

『ひどい演技をやってるなと自分で感じるときの心もち、とてもあなたにはわからないわ。わたしは−−かもめ。いいえ、そうじゃない…。おぼえてらして、あなたは鷗を射ち落としたわね? ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、破滅させてしまった。…ちょっとした短編の題材…。これでもないわ。…(額をこする)何を話してたんだっけ?…そう、舞台のことだったわ。今じゃもうわたし、そんなふうじゃないの。…わたしはもう本物の女優なの。』(「かもめ」)

・公式サウンドトラック『みずうみのかもめ』(実は『サイタマノラッパー』でMC IKKU役だった駒木根隆介とMoe and ghostsが始まる前のMC Moeが共演しているという日本語ラップのカルト盤でもある)
http://www.faderbyheadz.com/release/headz144.html

2010年10月11日

 渋谷o-nestで恒例になっているHEADZプレゼンツのエクス・ポナイトvol.6で買った大谷能生×中野成樹『みずうみのかもめ』を聴いている。あらためて整理してみると、音楽監督の大谷さんの作るエレクトロニカ以降のサンプリング&編集手法で新エキゾチカなブレイクビーツを探求するみたいなトラックや絶妙にズレたインチキエレクトロ歌謡の上で全力で初ステージを演じていた素人ラップグループが見世物になって(あの隔離する壁はそれをより引き立てている効果がある)どことなく気まずいイヤな感じがするのはあらかじめ「かもめ」にあった要素だと思います。舞台の出演者と観客の温度差のギャップをいかに強めるかっていうのが「かもめ」の肝っていうか……。 チェーホフの「かもめ」は、自尊心を持て余して自意識過剰な前衛芸術家志望の青年を主人公にした成功しない「8mile」みたいな悲惨な話だった。彼女のために張り切って戯曲を書いたのにニーナは権力志向な俗物の売れっ子中年作家に取られ……という様に。
 で、その主人公トレープレフが湖畔で芝居を上演するという舞台設定なので、劇作家志望の青年トレープレフをラッパーに置き換えた中野成樹版では、「かもめ」の劇中劇をラップに置き換えたものの中でさらに「かもめ」のあらすじが語られる、という悪夢(ラップグループ「みずうみ」によるかもめ)と現実(それを眺める山中湖ヒップホップフェスティバルに集う人々という設定に翻案されたかもめ)が入れ子状になって同時進行する、という何と言うかデヴィッド・リンチ的な構造になっていた。
 夢見る青年から疲れた中年まで芸術信仰に翻弄される人々の縮図として寄せ集められた素人ラップグループが初ライブにチャレンジしてみました、っていうある種の残酷な「見世物性」が、あらかじめ元のチェーホフの戯曲のテキストによって指定された舞台設定にもあったっていうこと。そのラップ+ダンスが音楽家・大谷能生プロデュースで無駄によく出来ていた場合、もう一層のリアルな熱量で上演されるレイヤーが複雑になって壁の内側と外側の体験のギャップが深まる、という企みだったのだな、と。

『彼はそれで我が身を芸術にささげているつもりで、それを鎧がわりにまとい人とうすくかかわっていった。もちろん下心のある女性と二人きりの場合、芸術家であるという設定を必要以上にアピールし、心のベールや実際の服を脱がせようといやらしくせまった。』(「トレープレフ(新しい戯言)」より)


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