東京デスロック『セレモニー』『シンポジウム』

『どこにもない どこにも似ない 脈絡が無い わけでも無い 筋書きが無い わけでも無い ここでしかない どこでもない/どこにもない どこにも似ない このリアクション 脈絡が無いわけでも無い このリアクション 』(電気グルーヴ「レアクティオーン」)


2014年7月10日(木)

 ずぶ濡れの台風の中這ってSTスポットに辿りついて観れた東京デスロックの『セレモニー』は、このシリーズは2012年の『モラトリアム』から見始めた俺ですが、世相が切羽詰まっているのと拮抗せざるをえないからか、それが逆説的に影響を及ぼしているためかどうかわかりませんが過去最高に面白かった。

 劇団員が進行しつつプロジェクターの映像を使ってリアルタイムで起きている出来事の「前と後」という時間の区切りの設定が一々ポップな演出なのだが、デスロックのメンバーが儀式の運営者に扮して日本人の一生を駆け抜ける、体験型の架空のセレモニーという趣向。
 日本人が米を炊き始めた3000年前の縄文時代まで遡るということで全員参加で有り難みを確認する「食の儀」、『モラトリアム』以来の出演になる「どんな演奏現場でも一定のリズムをキープし続けるのが使命であるジャズミュージシャンは機械に頼っちゃダメだ」と大谷能生が宣言してからのストップウォッチを使わない体内時計のリズム感のみであの現代音楽の古典を演奏するという誰もその発想はしなかったパフォーマンス「俺の4分33秒」(日によって成功する回と惜しかった回があったようだ)、俳優達がJ-POP(恋するフォーチュンクッキー~今夜はブギーバック~チョコレート・ディスコ)の選曲で盆踊りとコンテンポラリー・ダンスを融合した無駄にクオリティが緊迫した舞いを始める「舞踊の儀」、冒頭の「挨拶の儀」からスムーズに伏線が貼られていた名物俳優・夏目慎也による「新入社員式の練習」の一人芝居に雪崩れこむ「演劇の誕生~演劇の成長~演出の誕生~演劇の応用」のくだりは爆笑した。謎の登場人物「塩村さんと野々村さん」も登場。ヒロインの一生を子役時代から描く朝の連続テレビ小説の全150数話分を2時間半に詰め込んだような盛り沢山ぶり。

 東京デスロックの舞台の上演中に不意に訪れる、生と死を駆け抜けて切羽詰まった所に生起する一瞬で消えていく高揚感・多幸感がギリギリの所で捻れて問いかけに着地する現象については引き続き調査したい。『ぼんやりと ただ意味なく/ゆっくり消える虹みたく トリコじかけにする』(電気グルーヴ「虹」より)

『そういう地域の演劇を観ることは、要するに自分と出会ったり、自分で考えたりする作業で。それは青年団とかでも同じで、作品を観ることで、自分たちのことを考えたり今の世の中について考えることになる。しかも人間を使うところがポイント。絵とかモノではなくて、人間のことを考えるために人間を使う、っていう芸術だと思います。』

『多田 (……)演劇って、俳優とお客さんが同じ時間と場所を共有してるから。いわゆる演劇の一回性を時間として考えることが結構あって、「この時間、二度とないよ」みたいなところをお客さんと共有したいという感覚は強いかもしれない。もはやオリジナルのものってなかなか世の中にないけど、時間という軸で考えれば、どの作品もオリジナル。

藤原 同じことは絶対に二度起きないから。

多田 だから「毎回違う」ということが、起きる。それにお客さんだって、隣の人と全く同じ感想なんて持てないし。要は昔からオリザさんが言っている「半分の人が泣いて半分の人が笑っているのがいい作品だ」っていう。』(インタビュー 多田淳之介、徳永京子+藤原ちから『演劇最強論』より)

・『CEREMONY セレモニー』::Tokyo Deathlock

http://deathlock.specters.net/index.php?e=62

2013年7月21日(日)
 
 横浜STスポットで今回観たのは東京デスロック『シンポジウム』。おもむろに会場で始まる「なぜそこに住みたいのですか?」「選挙について」「SNSの使い方」「愛について」という議題から再び劇場に本番が8時間ある作品『モラトリアム』の時にモチーフになっていた「避難所」が侵入してきて、第2部までの議題があっという間に終わったのでまた次第に「ひたすらPerfumeに身を任せる時間」になるのかと思いきや、背後でいつの間にか移り変わっている音楽と照明の巧妙な演出によって、韓国語で何かを語る俳優が前に出てきて、どこから来て何をやっているのか、地方の訛りで何を言っているのかわからないどころか国籍や母語も違うメンバーと座して自己紹介する処から始まるGMTティータイム(当時一世を風靡したテレビドラマ『あまちゃん』の一場面より)になるとは予想できなかったのでやはり何が起きるかわからない。

 そこで出現した、俳優と観客が区別なくごっちゃになって詰め込まれる奈落のレッスンルーム(それを通じて「なぜ劇場に居るのか?」が、突き詰めて考えると「演劇からの」と「人生からの」が区別し難くなる避難/待機場所)から演劇を持って帰れという意図がより強調されていたと思う。

 というか、デスロックの演劇を観るのはまだ4回目だけど上演中に「観客」という役割が剥がされていくので居心地が良いか悪いかがたまたま持っていたコンディション(コミュニケーション能力やら人の話を聞く能力やら)に左右される作品になっていると思います。前回のアゴラ劇場での『東京ノート』は「呼吸」と「寿命」が突きつけられたし。

 東京デスロックの『モラトリアム』以降の舞台で変遷している、俳優を酷使した演技の死ではなく「いつでも好きな時に出て行ってよい」という指示・演出によって「観客がいなくなる」という事態については引き続き考えます。そこでオーバーラップしてくるのは、話が突然演劇から日本映画史にスライドするのですが、かつて小津安二郎がカメラで写した、特定の人物の視点が消去された(父役を演じる笠智衆の娘が無事に嫁に出て行って空になった)無人のフロア=家の中の空間。についてはわたくしの幻の批評家養成ギブス卒業批評文に書いているのですが、途中で止まっていて未完です。(参照:東京デスロック『モラトリアム』から『東京ノート』までのSpending all my time

・『シンポジウム SYMPOSIUM』::Tokyo Deathlock

http://deathlock.specters.net/index.php?e=53

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