視聴者の仕事は愛? または正義? 『ONE PIECE』とパラパラ漫画⇄映画

“「ねえねえねえ あのさあ〜〜」
「なんだよタカハシ」
「マ◯セリホの水に飛びこむCMってあったじゃん」
「あったあった」
「その水に女の顔がうつってんだって」
「ウッソー」
「マジマジ ビデオでポーズすると見えるんだって」” --岡崎京子『リバーズ・エッジ』より

1. 岡崎京子が観たゴダールはどれだったのか問題

 気がつけば二階堂ふみ主演で映画化された『リバーズ・エッジ』の公開が始まるのが2018年初春、すなわちもうすぐそこまで迫っているという、例えば昨年同様にジョージ朝倉が「別冊フレンド」で連載していた人気漫画を原作にして若手女優の小松菜奈が主演を務めた『溺れるナイフ』についての映画時評で菊地成孔が思わず「映画は漫画の巨大なノベルティと化すのか?」(“しかし、いかな日本映画が今年、バブルと称されるほどの好景気を見せようとも、漫画産業という、ゲームやSNSを含む通信と並び、我が国の国是といって良い巨大産業に比べれば、屁のツッパリ程度の位置にあることを、我々日本人は熟知している。”、『欧米休憩タイム』より)と皮肉らざるをえないほどもはや切っても切れない腐れ縁状態の日本の漫画界と映画界の桎梏をふと省みると、ここであえて古い話を持ち出してこだわってみたいのは、蜷川実花監督の『ヘルター・ヘルター』に続いて実写化のオファーが絶えない漫画家である岡崎京子がかつてジャン=リュック・ゴダールの映画にまつわって有名なフレーズを生み出したのにもかかわらず、未だに引用の元ネタが特定されていないという謎が立ちはだかっている件である。

 それはすなわち大澤聡・編『1990年論』で「ゴダールをファッションアイコンとして知ってしまった」世代の文筆家・五所純子が、90年代にファッション雑誌の「CUTiE」に載っていて名前を覚えたゴダールの映画からその言葉の典拠を探したけど見つからなかった体験を回想している、『pink』のあとがきで岡崎が綴っていたあのフレーズである。

「ところで「すべての仕事は売春である」とジャン=リュック・ゴダールが言ったという事実には確証がない。いかにもそのような台詞を言わされそうな『女と男のいる舗道』の売春婦と哲学者や、『彼女について私が知っている二、三の事柄』の主婦、『ブリティッシュ・サウンズ』のナレーションなど見返しても、そこにはない。ひょっとするとゴダールではなくブニュエルの『昼顔』かファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』、ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』だったら二〇一〇年代アイドルの剃髪の惨劇を予見していたではないかと思いながら探してみたが、もちろんあるわけがなかった。」(五所純子『「すべての仕事は売春である」に匹敵する一行を思いつかなかった』より)

 よって九州の片田舎のレンタルビデオショップには『気狂いピエロ』『勝手にしやがれ』しか置いていなかった時代にまで遡って「あの頃あたしは脱政治化された領土でしかゴダールを読み解くことができなかった。その事実にたいして一人のあたしはこう言う。女はファッション化でもしてやらなければ文化を摂取することができない無教養な生き物だとなめられていたのだ。もう一人のあたしはこう言う。女子どもの好きなファッションやコスメやスイーツを介することで教養への入口を用意してくれていたのですね。これは二枚舌だ。怒りが湧いてくる。」と約20年後に日本社会のセクシズムを斬る思考へと展開するほど、「ポスト・トゥルースをさきがけるといっては大袈裟に過ぎるが、高校生が無為な時間を慈しんで口にし合ったのが都市伝説であったように、「すべての仕事は売春である」という言葉だけが独り歩きして女たちの歴史を欠いた混沌を生みつづけている。「すべての仕事は売春である」は岡崎京子の言葉だ。それは頭脳への祝福とも精神への警句とも作用すべく仕掛けられた。なおかつ彼女はすでにその限界を見越したマンガを描いていた。」とエモーショナルに言わしめるほど典拠が行方不明のその「ゴダール体験」は、映画批評家ではなく1人の人気漫画家によってフランスのヌーヴェル・ヴァーグが最も生産的に誤解(誤配)された瞬間だったのかもしれない。

 そもそも昼間のOLの顔とは別に深夜にホテトル嬢のバイトをしているだけでは「スリルとサスペンス」が足りずに部屋でワニを飼っている主人公を描いた1989年の漫画『pink』のあとがきで、「“愛”と“資本主義”をめぐる冒険と日常のお話し」にゴダールを引用する手つきの原典はこうなっていた。

「これは東京というたいくつな街で生まれ育ち「普通に」こわれてしまった女のこ(ゼルダ・フィッツジェラルドのように?)の“愛”と“資本主義”をめぐる冒険と日常のお話しです。
「すべての仕事は売春である」とJ・L・Gも言っていますが、私もそう思います。然り。
それ、をそうと思ってる人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。
「すべての仕事は売春である」と。
そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。
“愛”は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。
それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして”資本主義”も。」(『pink』より)

 とはいえ、その一方でゴダールの映画を偶々見返していて気づいてしまったのは、おそらくその謎を解く鍵を握っているのは、岡崎京子が描いたアンナ・カリーナの似顔絵のエピソードが出てくる『ゴダールと女たち』を著した批評家の四方田犬彦である。そこで四方田は1982年のゴダールの映画『パッション』の登場人物が口にした「すべての仕事は愛」という会話から「フーリエの教説にも通じる労働=快楽説」を読み解いている。現在はDVD化されているので、『パッション』の劇中での映画監督とアマチュア女優たちが交わす台詞はこのように確認できる。

「一つ聞いても? 映画館やテレビで映画を観ても 工場の仕事は絶対映さない どうして?/撮影許可が取れないの/やっぱりね/何が?/ずっと深いところで 労働と快楽は同じものだと思う 動き方がセックスと同じ 速度は違うけど 同じ動き方よ」
「何が違うって? 労働と恋愛の違いを言ってみろ」
「仕事が好きだという気持ちは 愛から来るのか? 来るんじゃなくて 愛へ行くのよ 僕たちも愛へ行こう」(『パッション』より)

 つまり、映画の視聴に後から巻き戻し・一時停止する手段が無かったので、感想や評論を書くためには映画館で直にスクリーンを目撃した記憶力に頼るしかなかった時代の漫画に引用されている台詞が事後的にある程度変形・加工されて伝えられていくという事態は今となっては想像し難いのだが、漫画を描いている岡崎京子の頭の中で「労働と快楽は同じものだと思う/動き方がセックスと同じ」が「すべての仕事は売春である」に変換されたということだったのではないだろうか。ちなみにゴダールの『パッション』はその数年後の1995年にDVD以前のVHSの形態でソフト化されている。

 しかし、これらも事後的な推測にすぎない。

 翻って、そのような誤解を含んだ不確かな記憶の「可塑性」を許さなくなってきた今日の観客が警察(=鑑識)化しているという現象が進行している。いま新進気鋭の漫画家がそのような出典が不明瞭な外国映画からの引用をうっかり単行本に書き残しでもすれば、それぞれの専門ジャンルのデータベースと照合して元ネタを正確に特定するのが「愛と正義」だという態度を振りかざした匿名の鑑識班がネット上で組織されてあっという間に「炎上」するリスクを免れなくなってしまっているのだ。
 これは日々ブログやインスタグラムに載せる自撮り写真ですら加工されないままのことは稀になってデジタル画像の編集・修正技術が手軽になってきた(つまり情報環境において何が「自然」な表情なのかの基準が変わり、映像の「フェイク」の可能性が急速に広がった)ことと明らかに連動しているのだが、実際、スマートフォン等のモバイル機器で撮影した画像をSNSを介して「その時・その場」に限定されずに友人たちと共有したいという「シェア」の要望を許可するライブイベントや展覧会が増えているのが「ビジュアル・コミュニケーション」と呼ばれる2010年代のメディア環境なのだった。

 余談だが、アイドルの出演した音楽番組などは映像本編がリアルタイムの放送で観られなくても、その日のうちにツイッター等のSNSで流通するキャプチャー画像のダイジェストだけで疑似同期的に気が済んでしまうことが多々あるのが2017年の現実である。

【例:モーニング娘。'17とジャニーズのユニット・Sexy Zoneが「日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト2017」のコラボ企画『LOVEマシーン』を歌った11月28日のツイッター】

 その視聴体験の圧縮・節約の慣習に続いてさらに映像コンテンツを規定の収録時間よりも早送りで倍速再生する選択肢があらかじめ設定ボタンに組み込まれている環境に疑問(というか良心の咎め)を持たない人々も増えてきた今日この頃、「できるビジネスマンになるためには、やっぱジタンが大切」と吹聴する現代人の「レバレッジ」精神を戯画化した羽田圭介の小説『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』では、突然街に溢れた「ゾンビ化現象」を倍速で過去の映画から学習しようとする夫に対して理恵(桃咲カヲルの筆名で小説を書いている)がこう尋ねる場面がある。

「「浩人は、本当にこの映画が見たかったの?」
「なにおかしなこと言ってんの。ランニングゾンビについて学べたし、時短レバレッジも実践できたし。まあゆくゆくは、二時間の映画を一五分くらいで鑑賞できるように、レバレッジの達人にならなきゃいけないんだけど」
「……それって、見たくないってことではなくて? 突き詰めると、そもそも鑑賞しない、っていうところにいきついちゃうんじゃない?」
「それとは違うよ、レバレッジかけて楽しめてるんだからさ。それにしても、途中、話の展開でわからないところがあったな」
 ノートパソコンを開いた浩人は、今見終えたばかりの映画のあらすじについてネットで調べだした。
(……)
「あらすじも感想も、検索するに限る。時短にもなるし」
 ビールを飲みながらテレビを見ている理江の隣で浩人はその後も引き続き、出演した俳優たちが激太りしたり金銭問題で揉めたり離婚したりというゴシップを調べたり彼ら彼女らの親族関係等をウィキペディアで延々と辿ってゆく。そうしているうちに、映画の作り手たちの意向を無視し削った四五分も、あっという間に経過していた。」(羽田圭介『コンテクスト・オブ・ザ・デッド」)

 メジャーかマイナーかの規模の大小を問わず、各トライブ/コミュニティの「まとめ画像」がダイジェストで日々SNSに集約されていくサイクルは日常化しつつある。

 残念ながら詳しく検討する時間がなくなってしまったのだが、「映像」の捉え難さをパラパラ漫画的に分解する欲望を批評の分野で形式的に方法論化したのが平倉圭の『ゴダール的方法』だった。そこで平倉は視聴者の「裁判官」化を予告するようなヒッチコックの映画に関するゴダールの発言を取り上げている。

『映画が与えるのは証言なき証拠の内在性だけでしかない。
 ゴダールはインタヴュー「アルフレッド・ヒッチコックが死んだ」のなかで述べている。
 映像は裁判と密接な関係をもっている。というのも映像は証拠品だからだ。映画はそのつど、そのときおこっていることについての物的証拠を提供しているわけだ。[……]ぼくが思うに、かりに映画がどれもできのいいものであれば、裁判は今のようなやり方ではなされていないはずだ。現在の司法制度は完全にテクストによって支配されている。それに弁護士にも大いに罪がある。かれらは証拠物件を提出するために調査をおこなおうとするよりは、見事な弁論を振るいたがる始末だ。
 ここでゴダールは証言なき証拠の内在性としての映画について明瞭に語っている。そしてゴダールが『アワーミュージック』のレクチャーのなかで「見せて」いたのは、映像がまさにそのような外在的テクストによる同定行為からたえず逃げ出してしまうということである。言葉は映像を同定できない。映像はたえずその「似たもの」と結びついて取り違えられる。現実と虚構が通底する場所で、すべてを容易に見間違えてしまう「証人=目撃者」の無力はしかし、そこで不可能な「ミキシング」へと反転される。』(平倉圭『ゴダール的方法』)

 『ゴダール的方法』の序章「新たなる視聴」では、いくら解像度を上げても不確定性がつきまとう知覚の「誤認」ないし「溶解」の領域を扱った先行者としてロザリンド・クラウスの論文『見る衝動/見させるパルス』が挙げられているのだが、クラウスは「モダニズム芸術の視覚的空間の安定性を解体し、溶解させてしまう力」としてリズム、ビート、パルス(オン/オフ オンに/オフ オン/オフという一種の律動)の問題を取り出している。そこで具体的に分析対象になる一つの例が、晩年のピカソが過去の巨匠たちの絵を素描する手法で量産していた「パラパラマンガのようなスケッチブック」の機械的な反復に身をゆだねることで無数のヴァリエーションを生み出すビートのメカニズムなのだった。

「《草上の昼食》にもとづく二年半にわたる制作においてピカソが一杯にした、数々のスケッチブック。その各ページには日付と番号がこまかに記され、ページの順番が念入りに保たれている。これらのスケッチブックは、まさしくアニメーション台と同じように作られた。(……)むしろそれは、マンガの制作方法と結び付いている。実際のところ、ページを順番通りに次々とめくっていくと、人体の形が少しずつズレたり膨らんだりするため、ピカソのアイディアの発展を見守っているというよりも、身振り(ジェスチャー)の動きを観察しているような印象を受ける。まったく意外にも、パラパラマンガを目の当たりにしている感じなのである。」(『見る衝動/見させるパルス』)

 こういったゴダールやピカソの制作行為とは全然関係ない所で、インターネット上に流れるデジタルイメージを「ポスト・メディウム」的に扱う技術を手にした日本人がここまで「自警団」の使命を帯びて国会の中継やワイドショー等での事件の記者会見やアイドルの動画のキャプチャー静止画などを切り取ったものがブログやSNSに転載されていったものに写っている人物の無意識の「身振り(ジェスチャー)」のレベルまで詮索する勢いであることないことを解釈するコメントを付ける「画像分析」に血道を上げるようになるとは、予想もつかなかった現象ではないだろうか。

2. 『ONE PIECE』から見えてくる漫画⇄映画の欲望

 マンガの原作を実写映画化するだけでは飽き足らず、できあがった動くものを「見る」前に瞬間の止め絵にする欲望、追い討ちをかけるマンガ的認知の習慣。といったように概観できる「漫画原作の実写映画化」と「実写映画のパラパラ漫画化」の包囲網がいったい何を標的にしているのか、かつてシネフィルの聖典ことブレッソンの『シネマトグラフ覚書』を引用して「映画を通り抜けて その痕跡が残ってしまった者は もはや他の道に入ることはできない」(『映画史 1B』)と言ったゴダールの時代から「映画的」なものとして称揚されてきたリアルな身体的アクションの一つながりの運動性(「映画の痕跡」)に触れて傷つくのを畏れるかのようにして次々とキャラクター文化の回路に取り込まれていく現在の映像文化をめぐる状況において、ちょうどこのデリケートなゾーンに位置しているのが(少年ジャンプで連載中の同名の漫画作品と紛らわしいのだが)、「1.ワンシーン・ワンカット」「2.カメラワーク(ズームやパン、移動など)は一切無し」「3.アフレコ/編集もしない」というルールで矢口史靖+鈴木卓爾監督が撮影を行っていた『ONE PIECE』シリーズである。なぜならば、「超短編映画」というだけあって一つ一つを平均すると5〜6分の長さのため、ダイジェストで切り取って4コマ漫画的にあらすじを要約することができない1コマ映画=「ただの映像」の断片だからである。

 ここで一旦、その矢口+卓爾監督コンビが元々劇場映画で関わりのあった田中要次や森下能幸(北野武映画の冴えない青年役でおなじみ)や西田尚美、この企画が始まった当初はまだ長編映画には出ていなかった唯野未歩子、そして寺十悟が主宰するtsumazuki no ishiや大人計画といった身近な劇団に所属する癖のある俳優たちと1994年から2016年まで地道に自主制作の規模で撮り続けていた1コマ短編映画=『ONE PIECE』の全貌について、このたびDVD5枚組・総計6時間以上(+特典映像75分)に及ぶ映像作品集として世に出されたのを機に以下では全シリーズの63本の中からベスト10形式で選出したものをレビューしてみる試みを挟むので最後まで我慢して読んでください。
 特典映像のインタビューによると、鈴木卓爾と脚本を共作した矢口監督の長編デビュー作『裸足のピクニック』と2作目の『ひみつの花園』が完成した後、「商業映画の仕事が一区切りが付いてやることがなくなった暇な時期でもお金がかからない方法で映画が撮りたい」という欲求不満を解消するために、当時の1990年代半ばに一般家庭向けに製品化が進んでいたビデオカメラを使って独自に編み出したのがこれらの短編群だった。

(1) 『ケッパヤチガラサ(あたしで最後)?』(監督:鈴木卓爾、1998年)
 火星人の襲来により人類の90%が体を乗っ取られた世界というオーソン・ウェルズ的な状況を段ボールで締め切った密室に隠れている女の独り言とラジオから流れるアナウンスだけで物語る、『10クローバーフィールド・レーン』など日米のセカイ系想像力とも通じる超低予算の一人芝居SF。

(2) 『失恋沼』(監督:鈴木卓爾、2010年)
 傷心が原因で沼の底に棲むようになった兄を心配して毎日弁当を届けに来る妹の話というシュールな世界観。遠くにマンションが聳え立っている緑豊かな丘陵地帯の河縁にできた、水面が藻で埋め尽くされている沼のロケーションが素晴らしい。短編・長編を通して鈴木卓爾が時折劇中に忍ばせる、人間や物の怪や宇宙人がフラットに交錯して入れ替わる捻れたボーイミーツガール要素はかなり好き。

(3)『猫田さん』(監督:矢口史靖、1996年)
 すれ違いざまに人間(相沢さん)と姿が入れ替わってしまって言葉を喋るようになった途端に、いつも餌をあげている独り暮らしの男の生活に口出ししてくるお節介な近所の猫役の猫田直がハマり役。この作品をきっかけにして以前は「相川直」だった芸名を改名してしまったほど。

(4)『演出×出演』(監督:鈴木卓爾、1997年)
 脱力したノリのままワンカット中でシームレスに分身が「増殖」していくのも後の長編『ジョギング渡り鳥』へと連なっていく特徴である。東京デスロックの演劇「3人いる!」とも通じる撮る者と撮られる者の階層が反転するメタ構造が冴える。

(5)『自転車泥棒』(監督:矢口史靖、2001年)
 スーパーマーケットの駐輪場で盗まれた自転車を探していた女が自分の物だから返してくれと声をかけようとしているのだが、見知らぬ人物を相手に1人では不安だから手伝ってくれと携帯電話で男性(田中要次)を呼び出すシンプルな設定を導入にして、さりげなく得体の知れない不穏なドンデン返しに至るインパクトでは随一。

(6)『いま、迎えにいきます』(監督:矢口史靖、2010年)
 多摩川沿いらしきY字路の交通事故現場に通りかかった男の身に起きる、フェイク・ドキュメンタリー演出を応用した怪談劇。一般的には『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』といった青春群像コメディで知られる矢口史靖だが、他にも『心霊倶楽部』『暗室』『無題』などが強烈な印象に残る『ONE PIECE』シリーズの名作ではスタイリッシュな短編ホラーを試している。

(7)『LET'Sハルマゲ』(監督:鈴木卓爾、1995年)
 鈴木卓爾が怪優としての本領を発揮する自作自演作。縁側でお茶を飲みながら『ブラックジャック』に出てきた人間の言葉を理解するサボテンのエピソードについて喋っていた2人の女子が異次元の展開に巻きこまれる。監督の解説では食虫植物のイメージで「蟻地獄みたいな男」がやりたかったとのこと。

(8)『豚に真珠ハイパー』(監督:矢口史靖、2010年)
 故障した宇宙船の修理代を稼ぐために本物のプロキシマ・ケンタウリ星の道具をセールで売っていると主張する親子(妖しい白髪の白人の父親と日本人に見える娘)の一見ガラクタが積み上がっている路面店に散歩中に通りかかったカップルの時空間がねじ曲がる。背景に広がる河原の斜面に飛んできた鳩や野球のユニフォームを着た少年が見切れるのにも負けずにループするアナログなSF演技が味わい深い。

(9)『走れエロス』(監督:矢口史靖、1998年)
 人には言えない秘密を抱えて自転車で急いでいる途中に知り合いの同級生の一家が乗っている車と追突したシチュエーションなのだが、制服姿で持ち物が散乱している事故現場を真上からの固定視点で撮る画面作りが斬新。

(10)『遺言』(監督:矢口史靖、2014年)
 4人の姉兄妹と母親が長女のピアノの発表会に出かける直前に準備をしている途中の幸せな6人家族の日常のもとにある日届いた父・田中要次からの『インターステラー』的なノーカットの長回しで魅せる演技で出来あがったビデオレターの映像が全作中最も手が込んでいる。

 ワンシーン・ワンカット演出を試行錯誤した約20年分の連作を通して気づかされるのは、見えないはずの霊が写り込んでしまう映画のオカルト性の原理が炙り出されていくさまである。
 これは映像技術のデジタル化時代を迎えて小型軽量化・複数化したカメラによる同時撮影が可能になったことで、「フェイク・ドキュメンタリー」的な手法を使った作品群から世界的にインディペンデントな作家性が目立つようになってきているように、「真偽が不確かな心霊現象」が写っている記録映像のメディア論的特性を再利用したジャンルである「ホラー映画」と合流してPOV(一人称)視点による叙述トリックなどを開拓しつつある「古くて新しい」ファウンドフッテージ・フィルムと呼ばれる潮流とも並行している。

 そしていわゆる「1995年」から前世紀末にかけての震災・ノストラダムスの大予言的な人類の危機・新興宗教の教祖・ストーカー犯罪といった日本社会を揺るがしたニュースの時事性がシナリオに取り込まれていて、言うなれば、一回一回の短い撮影に虚構の「観客を騙す」トリックのアイデアを駆使して仕掛けられた「事件」としての驚きがある。
 特定映像に収録されている両監督のインタビューによると、とある夫婦が下着泥棒を捕まえるためにベランダにビデオカメラを設置したら偶然撮れてしまった映像がニュースで流れているのを見て、その面白さから思いついたという非物語的なノンフィクションの映像メディアからの由来もあるのだった。

 ここで、渡邉大輔が『1990年代論』の論考「「ポスト日本映画」の起源としての九〇年代」で、「それまでの「映画」のあり方がプリズムのように多様化・拡散化」した時期にミュージックビデオの演出から映画界に進出して支持を集めたものの次第に「マイナー」な位置に落ち着いていた岩井俊二のような90年代的映像作家の再評価が起きたのが2016年だとして、その後新海誠や山田尚子といった「岩井の映像美学からの影響を公言する後続世代の若手映画作家」が登場してきてメジャーな表舞台で相次いで『君の名は。』や『映画 聲の形』のようなアニメーション映画のヒット作を産む現象を「九〇年代という抑圧されたものの回帰」と呼んでいるのだが、「それ以前のアナログメディアの象徴秩序=「映画」(フィルム)がいまだ根強いリアリティを維持していたために、/興行や批評の現場で抑えつけられていた」多種多様な「映像」表現の原初的欲望が解放されて「日本映画においていわゆる「ポストメディウム/ポストシネマ的」な映画文化が本格的に台頭してきた」徴候的事態だとする転換期にちょうど90年代に連作が始まった『ONE PIECE 』が再DVD化されたタイミングは興味深い。

 そして「九〇年代=「ポスト日本映画」の視点からあらためて振りかえったとき、庵野や岩井に霊感を与えたこれらの先行世代の監督たちに共通していたのは、やはり実写=映画とは異なる、いうなれば「アニメ的」な感覚であり、もっといえば実写、アニメうんぬんといった個々の枠を飛び越える、まさに「ポストメディウム/ポストシネマ」の祖型的な感性であったといってよい。」という90年代的映像作家の「古典的な実写映画」に対するオルタナティヴ/ハイブリットな性質に引き付けてみると、吹石一恵と宮藤官九郎を主演にして漫画家として世に認められていなかった時期の水木しげるの半生を描いた『ゲゲゲの女房』といった自身の監督作以外に、俳優として関わった出演作においても例えば市川準監督の『トキワ荘の青春』では藤子不二雄A役を演じている。などなど、鈴木卓爾のフィルモグラフィーを通じて「漫画的なるもの」と「映画的なるもの」のボーダーで活動してきたことがわかる。

 最後に付け加えると、偶々ロケ撮影中に通りがかった自転車や散歩中の人間や小動物、自然現象の区別なく固定ショットで同時多発的な不測のノイズを招き入れてゆく画面設計がジャック・リヴェットやストローブ=ユイレの監督作を思わせもするのだが、そういったシネフィリー的な伝統に回収するよりは、渡邉が『イメージの進行形』で言うような劇場/映画館が情報技術によるコミュニケーションのフィードバックの波に晒されてその外側のネットワーク上で日々瞬間的に切り取られた断片が「いいね!」を付けられてはデータの渦の彼方へと埋もれていく「イメージの例外状況」に浸かった新たな観客層に投げ返した方がこの作品群にとって本望なのではないだろうかというのが結論である。

 ところで、矢口監督の近作で染谷将太が主演した2014年の『WOOD JOB』でも三重県の林業に従事する山男役を演じていた、1990年代末以降の日本映画の他にドラマやCMのどこかで筋肉質の脇役が異彩を放っているので見覚えがあるはずのBoBAこと田中要次が『ONE PIECE』の全63作品中のうち半数以上に出演しているのだが、特典映像の車で移動中に取材したインタビューでよくロケ地で使われた場所を通りかかった際に外の風景を振り返って「(よくここで撮った)、日本映画は多摩川から生まれる」という名言を残しているのだが、黒沢清が『21世紀の映画を語る』で「何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい/此岸と彼岸を表現するのに自然と選び取る場所」だと語っているように、まさに映画の外側から不吉な何かが侵入してくる場所だったわけである。(文字数:11233)

※2017年度の「ゲンロン批評再生塾」の映画批評の課題で、「観客の再発明」(講師:渡邉大輔)というテーマに応じて書いたものです。

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