日本語ラップ学会のお知らせ

 千葉県の市原湖畔美術館で開催中の『ラップ・ミュージアム』展の関連イベント、第1回日本語ラップ学会のお知らせをします。

日時・予約はこちら→ https://ssl.form-mailer.jp/fms/e074734f532870

 ちなみにこの登壇のオファーは批評再生塾の第6回の課題テーマ「『10年代の想像力』第一章冒頭を記述せよ」で提出したものを読んだイベント企画者の方から来たのですが、別名:プロレス化するポストインターネットカルチャーのこれは渋革まろんさんからのツイッター上でのコメントを踏まえて、客観的リアリズム(自然主義)から「いま・ここに現前する」体感的リアリティに一元化される演劇的想像力への移行は「100年単位の文化的な地殻変動」なのだという壮大な構想をブチ上げた『演劇化するセカイの想像力』と合わせて読むのがおすすめです。

 ・山下望「ガチとフェイクの皮膜論 -- アイドルでもヒップホップでもない『10年代の想像力』」 

渋革まろん「〈現実〉のもっと近くに―演劇化するセカイの想像力」

 引用すると、“「初音ミクの消失」は、「終わり」の先取りから初音ミクに仮想的な「死」を与え、「バーチャル」(役)と「リアル」(俳優)の区別が消失した臨界点で、リアリティのみを根拠にデータベース消費から自立した「カラダ」を存在させようとします。これは、極めて演劇的な戦略と想像力です。”  (上記リンクより)

 ただし、ここでの結論部分にある「データベース型消費社会の擬似同期的リアリティを実存化する=「物語」の「オリジナル/コピー」の境界線を無効化するデータベースの間で〈他者〉と出会う可能性」という処方箋は、いとうせいこうや近田春夫からキミドリ、ECD、イルリメ、口ロロ、といった80〜00年代までのクラシックから1個飛ばして2016年に発表されたtofubeats「shoppingmall」まで、日本語ラップ/ヒップホップの〈リアル〉の方が20年以上先を行っていると思う、という疑問の詳細についてはこれからラップ批評の範疇で考えていきたいと思います。

 というかそもそも論中で「リアルとバーチャルの区別が失効する演劇的リアリティへの一元化」の例として登場するプーチンとあずにゃんの壁画も、ヒップホップの四大要素の1/4ことグラフィティ・アーティストのlushの作品だった。


“何がリアル

何がリアルじゃ無いか

そんなこと誰にわかるというか

何がいらなくて何が欲しいか

自分でも把握できてないな

あと3つくらいは良い所が欲しいな

良い車よりクラシック作りたい

身近な人喜んだらいいな

適当なこと言う人しかいないな

何かあるようで何も無いな

ショッピングモールを歩いてみな

最近好きなアルバムあるかい?”

(「SHOPPINGMALL」)

キミドリ - 白いヤミの中

KOHH - 働かずに食う(I Don't Work)[IA Ver.]Official Video

KOHH - ”Business and Art” Official Video

KOHH - 飛行機

 つまりそこで「メディアテクノロジーの支援を受けて演劇的想像力の回帰を準備した」ものとして扱われているオタク文化=2007年生まれの初音ミクや、2010年代の「データベースに集積された情報の束に対する、個別バラバラなリアリティだけが〈現実〉の基準となる「演劇の時代」の申し子」として登場するSEALDsとも別の流れで情報社会/技術の神話に機敏に適応していたのがヒップホップ。ざっくり言って「Don't believe the hype」が出たのが、シェパード・フェアリーによるグラフィティ・アート「OBEY」の元ネタとしておなじみのSF映画『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督)と同じ1988年。その冷戦末期のパブリック・エネミーを経てビブラストーンのアルバム『ENTROPY PRODUCTIONS』が出たのが1991年……。

VIBRASTONE - ジェット・コースター

VIBRASTONE / 調子悪くてあたりまえ

 そして2007年の時点で「バーチャルとリアルのバランス/いつでも揺れるグラグラグラグラ」を問うていたのが、口ロロ&いとうせいこうの「おばけ次元」

 余談だが、演劇(平田オリザ原作の映画+舞台『幕が上がる』)とフェイクドキュメンタリー(白石晃士監督の『シロメ』)とプロレス(ももクロ×プロレス)と日本語ラップ(MUROが楽曲提供した「もっ黒ニナル果て」)、10年代に再浮上してきたこの4つのジャンルすべてと連携してきたアイドルユニットが、2010年5月に前山田健一が作詞・作曲のシングル「行くぜっ!怪盗少女」でメジャーデビューしたももいろクローバーZである。

  ついでに、それ以外にも「アイドルでもヒップホップでもない『10年代の想像力』」本文に入らなかった補足&註釈があるので列挙しておきます。

※ 他にもアイドル界への影響としては、活動初期から続く格闘技との関わり(コンサート演出を担当する佐々木敦規はもともと『K-1』の番組ディレクターだった)が結実した対談企画『ももクロ×プロレス』や、「戦うアスリート系」ユニットから派生したアップアップガールズ(プロレス)の結成などがある。

※ 演出家の多田淳之介が主宰の「東京デスロック」は、旗揚げメンバーの共通の趣味だったプロレスの技から取ってきたとインタビューで語っている。(「多田:「デスロック」という、「この技にかかると死んでも抜けられないぜ!」みたいなところからとっています。旗揚げ当時は自分で戯曲も書いていて、人が絶対に逃れられない「運命」や「死」というものをテーマにしていたのも由来です。」)

※ 「プロレスとTVによって育てられ、巨大化していったのが、「愛されキャラクター」としてのトランプ大統領だった、ということを、本稿の前編で僕は書いた。それが「トランプ節」と僕が呼ぶ、あの特徴的なパフォーマンスの型を作り上げたわけだ。/では、トランプ節の「魂」とはなにか?――といったところで、僕はここで、マンガを挙げたい。

アメコミ(アメリカン・コミックス)のなかにある価値観が、トランプと支持者をつないでいる……と書くと、まるで冗談みたいに見えることは僕も承知している。しかしこれは、冗談ではない(からこそ、悪夢なのだ)。

さて、いまもむかしも、スーパーヒーローの活躍を描くのがアメコミの本流だ。その基調となっている価値観は、プロレスのそれと酷似している。

善玉と悪役がプロレスにあるように、スーパーヒーロー・コミックスには、「悪漢(ヴィラン=Villain)」が不可欠だ。スーパーヒーローは、その類い稀な能力を生かして、「悪漢」の悪なる行為を止めて、弱き善人を助け、そこに「正義」を現出させる――およそこんな価値観だ。

これこそが、トランプ節の「魂」にあたる。このことについて説明しよう。」( 川崎大介「トランプとアメコミの世界観は、背筋が凍るほどよく似ている」より)

※ こういったプロレスのまっすぐ進まない試合の「装飾」を、勝負の効率性一辺倒ではない「贅沢」なものだと綴る千葉雅也の「[プロレス試論]力の放課後」は、『NEW WORLD 「新日本プロレスワールド」公式ブック』に掲載。

「対して、プロレスラーの不敵な睨みと笑みには、「贅沢」が含まれている。すなわち、プロレスの時空は効率的でありすぎることがないのだ。効率性一辺倒ではない。プロレスの魅力は、雑多な要素が「装飾的」な複合をなしていることである。(……)

 プロレスは、これからも、最短距離で勝つのではない贅沢なものでなければならない。プロレスの闘いとは世知辛さとの闘いなのであり、そこに倫理的な使命があるのだから。」 (千葉雅也「[プロレス試論]力の放課後」より)  

 ※ その由来も、アメリカに渡ってきた移民達が巡業するサーカス一座と未分化だった時期の19世紀末からある街角の残酷ショー(カーニバル・レスリング)なのではないかという陰謀史観ができあがってきたわけだが、ゆでたまごの漫画『キン肉マン』では主人公の超人一族はマスクの下の素顔を見られると死ななければならないという宿命を背負っていたのだった。

 『DEATH NOTE』においても、劇中で暗躍する主人公の高校生・夜神月が企む、死神のリュークから預かったデスノートの力を使った「悪の浄化」は表の秀才の顔とは別に、実社会から隔離された匿名的な存在「キラ」として潜伏する状態を担保できたがゆえに成り立っており、それを阻止しようとする対抗勢力に本名と素顔がバレるかどうかが、その二つが揃わないと死神の力が行使できないルール設定のサバイバル・ゲームの鍵になっていた。

※ アメコミのヒーローが覆面で「素性を隠す」必要があったのは、1930年代の大恐慌後の市民社会でまともに「活躍」できなかったユダヤ系移民がコミック原作+作画の産業に従事していたのが反映しているという歴史についてはWIRED.jp の「アメコミヒーローに見る「ユダヤ系」の影響と、コミックが移民たちに与えた力について」を参照。

※ 他に新日本プロレス観戦が趣味のラッパーとして知られるのはMoe and ghostsがいる。(「ユリイカ 特集*日本語ラップ」に掲載の座談会より)

Moe (……)『フリースタイルダンジョン』もバトルをしている人たちはものすごく格好いい、勇者たちだなと思うんです。だけど、私も含めてそれを見て入れ込んでいる人たちのことを顧みると、これだけ爆発するというのは、やっぱりいまの日本ってフラストレーションが溜まってるんやなと思いました。

菊地 日本の、戦後最初の国民的「スポーツ」は力道山のプロレスだった。みんなガチで「アメリカ人を殺せ」と思って声を限りに叫んでいたわけです。日本は敗戦という屈辱とトラウマなんか、とっくに消えたと思い込んでいる。でも、完全に、根っこまで含めて完全に消えたのは、実はこの二〇年ぐらいじゃないかとワタシは思っている。そして二〇年かけて、別次元の戦争に日本国民は負け続けている。太平洋戦争では五ー六年かかった屈辱と敗戦トラウマが、この二〇年で別化して溜まっていると思いますよね。

Moe 『フリースタイルダンジョン』がすごいなと思ったのは、YouTubeに全部アップされているから一回気になったらすぐにキャッチアップできる(現在は最新回のみ視聴可能)。ただ、それは出ている側からすると、いつまでもリアルタイムで殺され続けるわけですよね。自分が負けた試合で、あー、ぜんぜんライムできへんかった、実力出せへんかったという動画がずっと上げられ続けて、それにリアルタイムでコメントされ続ける。やっぱりなんとかのほうが格好いいとか、なんとかはよくないとか、延々言われ続けるのってめっちゃ怖い、だから余計、私は出られない(笑)。あの覚悟はすごいなと思います。でも、あんな怖いくらいのリアルを突きつけられないと観てるほうは信じられなくなってるんやなと。」([座談会]N/K a.k.a.菊地成孔+OMSB(SIMI LAB)+Moe(Moe and ghosts)、「ユリイカ」2016年6月号より)

 そして「ユリイカ」2016年の日本語ラップ特集への果てしなく1年遅れのレスポンスになってしまいましたが、有限の音と意味を組み合わせれば「誰でも踏める」押韻の技術を質的に分析するために、NORIKIYOとKダブシャインと般若とSEEDAの4人のラッパーがラップする言葉の運動のディテールだけを抽出してひたすら拡声器空間(MIC SPACE)に蹴り出されたテクスト/エクリチュールとして扱うという批評の方法論を打ち出した韻踏み夫の「ライマーズ・ディライト」はテマティスム的な分析手法は小説・映画批評よりまず詩(韻文)の方が先だったというルーツに戻った鮮烈なデビューだった。 

 マンガ研究者の岩下朋世による『あまちゃん』における能年玲奈の台詞(自己紹介芸)から始まるさやわか『キャラの思考法』へのアンサー的な論考「「リアル」になる」は「日本のポップカルチャーと相通じるキャラクターを演じる存在としてのラッパーの楽しみ方」という切り口が面白かった。

 あとニッキー・ミナージュやMARIA他のフィーメイルラップの多彩な身体性と日本のエンターテイメント産業で歌われる画一化したレプリカント的女性像とのギャップを論じた水越真紀「期待はずれの〜揉みくしゃにされたいデカイお尻になるまで」がラップにおける性表現という「妄想や自己言及、それ自体への罵倒や拒否感情だけでも十分な自己表現やメッセージ性を備えることが可能となる、とても豊かなテーマ」に向き合う稀少な議論を提出している。

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