時間を与えるもの(ツァイトゲーバー)

2012年9月6日(木)

 東京国立近代美術館で開催されている連続パフォーマンスイベント「14の夕べ」が無料だというので村川拓也の作品『ツァイトゲーバー』を観に行ってきたのですが簡単に感想を整理しておきたい。まず演出家によって説明されるのは観客参加型の演劇だということで、介護士役と彼に介護される役の2人の登場人物のうちの瞼の瞬き以外では意思疎通ができない全身不随の障碍者である「藤井さん」はそこで希望者を募って挙手した人が客席から舞台に上がってその役をやらされるという趣向になっていた。

 虚実の皮膜というけれど、介護労働の現場を主題にして2人の日常を再現するこの劇は明らかにドキュメンタリー的な手法が使われているのだが、演じている身体が<虚=フィクション>で演じられている「藤井さん」の身体が<実=リアル>なのか、は観る側が一概に決定できないようになっている。

 それはなぜかというと、通常の演劇を観に来た場合の「演じている/演じられている」の対に第3項としてある「演じさせられている観客」をステージの上に乗せてしまう、という操作が加えられているためだ。

 演劇によって生まれる、演劇の上演の現場で起きている関係性の抽象のためにこのメタな状況設定が選ばれているのかな?

 つまり、この舞台では介護士役を「演じている」俳優と「演じさせられている/演じられている」観客A=藤井さんが同居して彼らのあいだでコミュニケーションが試みられているわけだが、常に「演じられているリアル」と「演じさせられているリアル」が表裏一体になっているのを露わにし続ける仕掛けが、最初に説明されてはいたけど実際に劇中で反転が起きた結果がびっくり、以降、いわゆる一般的な演劇の「演じる(=虚構)/られている(=現実)」の対ではない3層にまたがった関係性が緻密にシームレスに掬い取られていく(2=3人の関係性が揺れ動く)ので、舞台の外の世界をも巻き込んでいく波及効果がある。

 ところで大事な点を忘れたのだが、休憩時間の場面で舞台袖で無言で1人座りこんで煙草を一服しながら「彼」を振り返る「工藤さん」役を演じる男性は俳優の仕事をやっていない時は普段から実際に介護士として働いている、という余計ややこしい作りになっているのだった。

 しかし「見る」行為がシンプルに剥き出しになって演出されていたこの舞台をよくよく振り返ってみると、無言でじっと動かず自宅の車椅子に座っている「藤井さん」と彼の一方向を見つめたままの瞬きに反応して甲斐甲斐しく話かけるヘルパー=俳優の姿は、そのまま演劇が行われている時間が終わるまでは劇場の客席に座って俳優の発する何らかのメッセージを黙々と眺めているしかない観客達の視線と合わせ鏡のようである。

 さらにもう一つ、舞台上で演じられる虚構世界を安定させない演出家の村川からの「指示」があって、「藤井さん」役の観客は上演中に4回「自分の願い」を台詞として発することが義務付けられていた。
 それにより、「藤井さん」が座るパイプ椅子以外は美術セットも何もない舞台で、「彼」の扱いに慣れた親しげな気安さと律儀な丁寧さが2人のあいだでその日・その時間までに築かれてきた生々しい関係性を醸し出しつつ、せわしなく動き回るヘルパー役の工藤さん=俳優の重労働を部屋の隅からコントロールする「藤井さん」の意志によってその空間が造形されていくので、素朴に本当に「藤井さん」がそこにいるみたいだとその2人のやり取りを観ているうちにイメージの輪郭が固まってきた瞬間に発せられる、「そこにいる」身体からは出てこないはずの台詞(今回の上演では「自由な時間が欲しい」)によって想像力が反転されて、そこにはいないけどどこかにはいる「藤井さん」の存在が際立ってくる、という効果がある。もちろん介護士は演技の役を外せば聞こえているはずのその台詞=願いに応答することはない。

 そしてこれもドキュメンタリー的な側面を異化したことによると思われるのだが、介護士の俳優と「藤井さん」はあいうえおの文字を50音順で相手に伝えて行って瞬きのオンオフを介して言いたいメッセージを一語ずつ並べる、という手段でしか言葉が伝えられないのだが、藤井さんが何をして欲しいのかを聞くために「何かある? じゃ、聞いてみますね。あ・か・さ・た・な?」と50音を一文字ずつ声でなぞって行って途中で予想できる単語でも決して省略しないで「言い終わる」まで確認する辿々しいコミュニケーションが淡々としたルーティンな労働風景の一環なのに深く感動的に見えてしまうのはなぜなのか。

 介護の仕事が始まって終わるある一日の交代までの時間で区切られた、そこで抽象された「意志疎通=会話」、昔の往年の柄谷行人用語でいうと他ならぬこの単独的な「交通」のテクスチャーはこの日の終演直後にふらふらと入った近代美術館から最寄りの水道橋の牛丼屋の店員が発する台詞がそれ以前の昨日までとはまるで違ったように聞こえてしまう、のが驚いたのだが観客に「その社会的身振りのどこまでが役割/演技でできているのか?」という問いを残す威力と効果のあるものだった。

『それに対して、商人は、そのような自然ではなく、人間を相手にし、言葉で誘惑し説得する。アランは商人に対して否定的であるが、私の考えでは、商人の比喩は、対話において見出される知に関して不可欠なのだ。重要なのは、商人が相手の合意なくしては何もできない(詐欺も合意を要する)し、何もしないということだ。商人は、共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手にし、且つ彼を排除するのではなく、彼の自由を受けいれることでしか彼を拘束できないという場所に立っている。哲学者は、商人を、真の価値を偽る者(ソフィスト)として非難してきたが、この非難は的はずれである。真の価値あるいは同一性を、共同体の外部で他者に出会う者が前提することなどできないからである。
 今日の科学哲学者たちは、科学が自然の真理を見出すという考えに反対し、真理が説得あるいは言語ゲームに属すると考えている。要するに、科学者も商人なのだ。しかし、哲学も、もともと共同体の中ではなく、諸言語が交錯する「世界」、つまり他者を説得するほかに強制しえないような場所に発生したはずである。
 
 (……)一般には、共同体の創世神話は、本来的な多数性・社会性を、自己差異化的な同一性のシステムのなかにおおいかくしている。むろん神話を批判しても仕方がない。批判さるべきなのは、社会科学者が、小さな家族から大きな共同体への発展、さらにそこから交易がはじまり貨幣が形成されたなどという神話的思考を疑わないことである。
 たとえば、マルクスも、共同体と共同体の間で交換がはじまるといっている。そして、この「交換の歴史的な拡がりと深化」の中で、貨幣が必然的にーー「フランス語版」では自然発生的にーー形成される(『資本論』)。だが、共同体が先ずあって、交換が始まったのだろうか。旧石器時代と名づけられる時代の痕跡は、それがきわめて広範囲にわたることを示している。それは石器そのものが交易の対象であったことを意味する。つまり、交換は、諸共同体が形成される以前からあったのである。共同体は、このような交通空間から自閉することによって形成されたが、交通空間はそのことで消滅したりはしない。それは、いわば各共同体の“外部”(隙間)において存続したのである。』(柄谷行人「探究Ⅱ」より) 

 結局のところ、『ツァイトゲーバー』で起きていたマルチレイヤーなリアルの可視化を切り取ると、俳優が演技する身体のリアル、そこで演じられている虚構=物語の登場人物のリアル、その舞台に巻き込まれる観客(兼俳優)の日常のリアル、が折り重ねられて縫い合わさっていく、ということか。

【追記】

・その後に書かれた『ツァイトゲーバー』に関してのより演劇論に内在した批評文としては、「ペネトラ」の山崎健太による「ルビンの壷、あるいは演劇 村川拓也論」がある。 http://yamakenta.hatenablog.com/entry/2014/09/30/162331

・【artscape 2013年03月01日号(artscapeレビュー)】村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚 http://artscape.jp/report/review/10078617_1735.html

・Murakawa Takuya: 『ツァイトゲーバー』劇評 http://murakawatakuya.blogspot.jp/2011/12/blog-post_25.html

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