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これまでのアラザレディオ (と『花と雨』の映画化について)

 2019年5月6日に文学フリマ東京で刊行した批評誌『アラザル vol.12』巻末のあとがき部分で“およそ10年間の沈黙を破って「DJ_やめました」のサウンドクラウドを始めました。ミックステープ録音中。”と予告して以来、はや10ヶ月かけて断続的にリリースしてきたストリーミング形態でのミックステープ連作=ARAZARADIOが全6回まで増えていたのでこの辺りで一旦まとめておきます。

 ところでなぜ批評誌アラザルで日本語ラップを取り上げる傍で実際にDJ機材を使ってミックステープを録音しようと思ったのかを遡ると、中身がよく聴かれないまま打ち捨てられた録音複製物=CDの中身を聴く鍛錬はオールドスクールなヒップホップの誕生を再演する。そもそも毎週末のパーティで刹那的に消費されて聴き捨てられていた産業ポップス(ソウルやディスコのシングル盤)の藻屑からより体と言葉が動かされてしまうサンプリング対象を掘り当てる所から全地球を揺るがすダンスと詩作のムーブメントを生み出したというのがブロンクス発のオールドスクール・ヒップホップがやっていたことであり、その録音物の再発明=ブレイク・ビーツが誕生する出来事の瞬間はいつどこの再生装置であっても終わりはないはずだというのがDJ_やめましたのコンセプトです。
 このような「デジタルデータ時代にオールドスクール・ヒップホップの誕生に遡行する」という壮大な考えは、「文藝」2018年夏季号に掲載された磯部涼による追悼文【註1】や、「ミュージック・マガジン」2018年4月号(特集 =追悼 ECD)の荏開津広によるテキスト【註2】でもそれぞれ綴られていますが、ラッパーのECDが遺したものに基づいています。

“レコードという商品に対して、リスナーはあくまでも受け身であった。せいぜいできるのは批評ぐらいのものだった。蓄音機が発明されたその時から、レコードとレコードを聞く者の主従関係は変わらないまま時は過ぎていった。そして70年代半ば、それまでの主従関係を根底からくつがえす大革命が起きる。
 それがヒップホップである。DJはレコードの中の任意の(例えば)8小節だけを繰り返し再生する権利を獲得した。それは当然、その楽曲の制作者の意図と反する行為である。しかし、それこそがヒップホップなのだ。つまりヒップホップは、それまでのレコードという存在の意味を否定しながら、しかしレコードなくしては存在しえないアート・フォームなのだった。レコードによって生み出される新しいレコード、それがヒップホップのレコードである。
 だが、そのレコードに記録されているのは、ヒップホップ全体から見れば、ほんの氷山の一角でしかない。
 その昔のブロック・パーティ、そして今も日々繰り広げられるフリースタイル・バトル、そんなヒップホップの本質的な部分は、けっしてレコードに記録されることはない(ごく一部の例外を除いて)。その氷山の水面下で起こっていることについては、海をへだてた日本に住む僕たちに口をはさむ余地はない。
 では、そんな部外者の僕たちにはなにができるのか? どうせならアメリカ人がやろうともしないことで恩返しをしようじゃないか、それこそが本書の存在意義である。”(1996年のミュージック・マガジン増刊『ザ・パーフェクト・ビーツ』のECDによる序文「はじめに」より)

 「やりきれないことばっかりだから レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコード レコードを聴いている 今日も」(ECD「DIRECT DRIVE」)。是非爆音で聴いてください! 

 ※リンクした各音声ファイル共有サービスの違いはsoundcloudがWAVファイル(無圧縮音質)、mixcloudがm4aファイル(iTunes Plus音質)です。

【1】ARAZARADIO 2019.09.01 : Introduction to Ultimate J-POP Breaks&Beats Vol.1

DJ_やめました PRESENTS 『SUMMER CUTS 2018』
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【2】ARAZARADIO 2019.11.05 : Beyond the Valley of Japanese IDOL Sounds [part1]

『DJ_やめましたの闇深市怖杉区泥沼町ブルース(desperate ver.)』
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【3】ARAZARADIO 2019.11.02 : Beyond the Valley of Japanese IDOL Sounds [part2]

『killer tune kills DJ_やめました』
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【4】ARAZARADIO 2019.11.12 : Introduction to Ultimate J-POP Breaks&Beats Vol.2

『タピオカを撃つ用意(天運我に有り) Tapioca Bullet』
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【5】ARAZARADIO 2019.01.25:The Sounds Called Abstract (Prelude)

『The Sounds Called Abstract』 Compiled by DJ_やめました
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【6】ARAZARADIO 2020.02.22:'Til the Sunday Morning Break 120minutes Mix

『絶対的にHIP HOPなら、DJ_やめました。』
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 さて2019年〜2020年初頭を振り返ったついでにここから先は余白を使って上記に収録されなかったものをレビューします。

◼️2019年11月15日(金)
 批評家のさやわかと兼ビートメイカーの吉田雅史がみんなが聞き覚えのあるヒット曲のトラックを壇上で打ち込み直して分解しながら現行音楽の流れを解説するイベント『ポップミュージックのレシピ』が行われた五反田ゲンロンカフェの物販で入手した8th wonderの2/3、Fake? n' MA$A$HI の『ForMula』は、アナログ盤に針を落とした時の寄せては返すチリチリしたレコードノイズのループをアクセントにした煙状の揺らぎの雰囲気が一周回って新しく聴こえるジャジーヒップホップに回帰するのが早すぎた趣きの2018年のアルバム。前半は“(それは忘れた頃)誤配される郵便/焦げ臭い黙読のリズム/図書館の住人/12インチの書物の囚人/I feel the vibe in the bibliophile state of mind”というようにリリック中に東浩紀へのオマージュがある「Experi-mental」がMA$A$HI流ブーンバップが全開で良かった。
 エレクトロニックな2ステップのビートの上でラップする「Yoganic」などアルバムの後半では90年代東海岸への憧憬から一転してイギリス〜フランスのクラブミュージックに接近。

 続いてMA$A$HI=吉田雅史の過去作を見つけたので聴いてみた8th Wonderの2枚組アルバム『ヴァルハラ』は、共著『ラップは何を映しているのか』など色々な所でザ・ブルーハーブから受けた影響を公言している通りに『アンダーグラウンドVSアマチュア』をより幻惑的な散文詩にした印象のエレクトロニカとメタルのミクスチャー・ヒップホップ。
 しかしBOSS THE MCが宣言する「北から頂く」じゃなくて「ケルベロスからの手紙」というように彼らがどこから来て何を反撃するのか判然としないアブストラクトな難解さを孕んでいる。吸って吐く一往復のターンのあいだで等間隔のビートの升目に字余り気味にマシーン的高速ラップを詰め込むことで内奥の深淵を覗かせるフロウ。
 MA$A$HIとKSKとFake?の3MCがヴァースの切れ目で深呼吸するブレス音の切羽詰まった感じは最もカルト組織的風貌の悪名を轟かせていた時期のMSCも彷彿とさせるのだが、なるべく隙間のない譜割りが威嚇的になる韻の踏み方は「バトルに勝てる仕様」として00年代に隆盛したスタイルを留めている。
 そしてリリックの内容を追ってみると、Nasが『illmatic』で確立したような、多彩な隠喩と修辞を駆使して銃とドラッグ密売にしか生きる術がない過酷なコンクリートジャングルの瞑想に惹き込むリアリズムの土台となる路上の地面が逆さまにひっくり返ってしまう、異世界を彷徨う軍隊行進にクルーの境遇を仮託する幻影にこそ切実さが宿る足場=地元の不確かさ(すなわち平成日本のレペゼンし難さ)のギャップが日本語ラップとしては特異な変わり種。
 ホームタウンが魔獣の跋扈するサバイバル戦記に反転するのは直接的に北欧神話やサタニズムを出典にしたゴス・メタルの流れというよりも、虚淵玄・脚本の『魔法少女まどか☆マギカ』やNetflix配給のレトロ怪奇ドラマ『ストレンジャー・シングス』など2010年代におけるダークファンタジーの隆盛に先駆けている。
 2009年にリリースされていたこのアルバムの中で唯一具象的な空間を写しているのが、「デス ゴス スラッシュ ブラック ゴア コア ノーボーダー 永久を体現するフロアーに響くコーダ ドサリと音をたてて崩れ落ちる今日が/名もない感情が爆発したとき エッジの誕生 ポストパンクの乱舞を 誰かがメタルと呼んだ ファルスのパルスの伴奏 ジャンルのがらんどうから生まれた 鋼鉄の処女とユダの僧侶が最初のウォーロック」とMA$A$HIがヘヴィーメタルのライブ現場でのモッシュピット賛歌を綴るdisk2の6曲目「人が人を流れるとき」。

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◼️2020年2月14日(金)
 個人的にリバイバルが起きている真っ最中の『花と雨』関連でI-DeAビーツのアルバム『Sweet Hell』を聴いていたら、feat.D.D.S & BESの「Walk Remix」〜feat.BES「Sweet Hell」がスクリュー加工したレコードのサンプルとレイドバックしたラップのヨレがなぜここまで完璧に噛み合っているのかと驚くほどオリジナルフロウを成しているので久々にBESのラップで震撼しました。

◼️2020年1月26日(日)
 ラップのリリシズムをここまで凝縮して炸裂させられる者はいなかったと誰もが称賛する傑作アルバムの制作過程のほぼ実話をアレンジして土屋貴史監督が映画化した『花と雨』をアップリンク吉祥寺で観た。
 まず鮮烈なのは青春マリファナバッドトリップ映画としての啓発的イメージが赤と青の画面の対比で彩られているのだが(たとえ個人で密かに利用する分を栽培する才能に恵まれていたとしても売るのも買うのも“ダメ、ゼッタイ。”という公共広告的な建前に寄せてある)、リスクの高いストリートでの密売業の厳しさを教えてくれる悪い組織の大人たちの存在感が濃厚に迫ってくるのとは対照的に影が薄く描かれる裕福で何不自由ない中流家庭の生活を送る両親や、「俺はdealじゃなくてラップしているぜ」と届かせるための「綴りきれない思いを綴る」彼岸過ぎまでのラップのスタイルを掴んで独り立ちする転機となった(日本に帰ってきて疎外感を覚える境遇を話し合える唯一の相談相手だった)姉との関係よりも、ラッパーの道を諦めかけている主人公の吉田(SEEDA)と幼なじみのトラックメイカー・アイダ(I-DeA)がステージ裏や録音スタジオで付かず離れずの因縁の痴話喧嘩を繰り広げるのが最大のドラマという『Boyz N The Hood』な地元の幼馴染み的関係性を基軸にした映画でした。
 トラックメイカーとラッパーの憎愛が縺れた結果の壁ドン描写がいつ始まるのかと思わず身構えたのは別として、まだ見出されていない才能を秘めている彼のラップを一番理解しているのに、自分の作ったトラックでは正しく世に出して輝かせることができないというもどかしさと葛藤が痛切。
 それにしても海外育ちの帰国子女がいきなり親の都合による転入で放り込まれると日本社会の息苦しい窮屈さになじめなくて病む話は無限のバリエーションがあるので一ジャンルだなと。
 ニコラス・ウィンディング・レフンの『プッシャー』っぽい所や言われてみるとバリー・ジェンキンス監督『ムーンライト』の映像表現からの影響も伺えるんだけどアルバム3曲目「ill wheels(feat.BES)」と5曲目「不定職者」の曲間のスキットが外を歩く会話の場面に取り入れられているのが巧いと思った。映画によるサンプリング。 
 主演に起用された笠松将は人前でマイクを回す稼業がラッパーなのに寡黙で人付き合いが悪い、なおかつ周りにいくら期待されていても作品を出そうとしない焦燥するキャラクターを舞台となる2006年の東京から遠く隔てられつつ13年後に演じ直す俳優としての立場で独自に解釈して映画版のSEEDA像を作り上げている。いわゆる伝記映画みたいに本人に似せようとはしていない顰め面が印象に残る。
 あと日本語ラップマニアのグッと来る所としては、スタジオにたむろして互いに腕を競うライバルの新人MCとして登場するBESの声がスクリーンで流れたり、高岡蒼佑が『花と雨』をプロデュースしたBACH-LOGIC役、サイプレス上野も通っていた神奈川大学をモデルにした講義室でヒップホップ音楽を取り上げていたら「リアルじゃねぇ」と学生に猛反発されるアメリカ文化論の教授役を演じているのが松尾貴史!
 そして映画を観終わった後にアルバムを聴き直してみると、楽曲が映し出す風景が一変しているのは“初めて外からネオンを見た時  この街の異様さに気付いた時 乱雑に並ぶコンクリート住居  Tokyo City in Dreams 俺は空虚 街の価値と照らし合わす自身”というラインが巧妙に脚本に変換されている「Daydreaming」と、サッカーをする子供たちに混じろうとしてもアジア人の見た目だけで差別を受ける描写から始まる冒頭でのロンドン時代の回想から紙とペンに向かい合う獄中までが散りばめられている「Live and Learn」ではないか。

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◼️2020年3月6日(金)
 言い忘れてたけど某ミックステープの内容には最終回から5年以上経ってもまだ書籍化されていない「現代詩手帖」の連載×2=『絶対的にHIP HOPであらねばならない』と『パロール・ポエティーク』が志ある編集者(版元)の手で単行本に纏まって欲しいという懇願が含まれています。

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◼️2018年7月28日(土)
 ……と言いつつ2年前の夏に巻き戻っているのは、ハロプロの新ユニット・つばきファクトリーのニューシングルが出たら発売日に買うけど1枚ずつしか買わない主義者の務めで早速タワーレコードに行ったら「人生は甘くないから」でNORIKIYO &STICKYとフィーチャリングしているBESのアルバム『CONVECTION』も同日リリースだったから。
 “我々は街で罪を贖う 教会で罪は贖えない それ以外はまやかしだ”という台詞が出てくるのはマーティン・スコセッシの映画『ミーン・ストリート』ですが、7曲目の「Takeoff」が“悪魔と握手もうしないように/塀の中でひとり考えた”BESにしか書けない剥き出しのリリックを振り絞った懺悔と告戒ソングだった。

【註1】
 他方で、音楽は、唯一、ECDにひとりになる時間を与えてくれるものだった。〇八年には結婚し、二女に恵まれた彼は多忙を極めた。『TEN YEARS AFTER』に収録された楽曲「Alone Again」では、仕事に向かう際、バッグにCDウォークマンとCDをパンパンに詰め込んで出掛ける理由を、通勤/帰宅時間だけが自由時間だから、「ドアトゥドアだけがひとりだから」とラップしている。ただ、その生活から逃げようとも思わない。何故なら、アルコール依存症だった頃には戻りたくないから、「放り出したらまたひとりだから」。あるいは、ECDは往々にして政治的なアーティストだと定義されるが、「Straight outta 138」(田我流 feat.ECD、一二年)や「The Bridge(反レイシズムRemix)」(ECDILLREME、一三年)といった楽曲を例外として、実は基本的に、音楽に政治を持ち込まなかった。ただ、彼が日本で最も社会運動にコミットしたラッパーであることは間違いない。つまり、ECDにとって音楽はほんのひと時でも家庭や社会の抑圧から解放してくれる、そして、再びそこで生きていくための糧を与えてくれるものだったのだろう。
 ECDは、晩年、『BIG YOUTH』収録曲「ロンリーガール」のリメイク、「新約ディアロンリーガール」(加藤ミリヤ、一七年)に参加して話題になった。しかし、最後の代表曲と言っていいのは「君といつまでも(together forever mix)」(ECD×DJ Mitsu The Beats、一七年)だ。この加山雄三の同名曲のカヴァーは、言わば音楽へ捧げるラヴ・ソングで、当初、ECDにしては捻りのないものに感じられたが、ラッパーというよりは音楽好きとしての遺言だと考えると平易な言葉使いを選んだ意味も分かる。まるで走馬灯のように、引っ込み思案だった少年時代、盆踊り大会で気持ちを解放されたことをきっかけに音楽に魅了された在りし日を回想した男はこうラップを続ける。……
(磯部涼『レコードを聴いていた、あの日も』より)
【註2】
 しかし、十分な成功を収めた“さんピンCAMP”を可能にした体力をもったカッティング・エッジとの契約のなかで制作したアルバム『MELTING POT』(99年)でECDは事実上ラップを止めてしまう。
 このことを自著『いるべき場所』に彼はこう書いている--「僕はブロックパーティー時代のヒップホップが残した遺産の大きさを思い知った。ビースティーやラン-DMCがその遺産の恩恵にあずかることは許されても自分はその圏外にいると考えた」。そして、こう続ける--「自分にとっても(中略)ヒップホップは新しい発明でなければならないはずだと考えた」。
 1990年代半ばには、ブロンクスから世界中に離散して変化し、商業的にも拡大していくヒップホップをどう定義するのかは既に大きな問題であった。現代の子供たちも2PACやビギー・スモールズたちが登場し話題をさらっていた時代--その時期に謂れはじめたのがオールド・スクール、ニュー・スクール、もしくはトゥルー・スクールといった言葉だ。
 ヒップホップを、巨大なブラック・ミュージックの伝統の線上に沿ってジャズやブルース、ソウル、ファンクなどの後からやってきた“芸能”の一種として捉えるのは間違いではない。しかしながら、同時にその見方はヒップホップがブロンクスというスラムの「沈滞した、活気のなさ」(『アメリカ大都市の死と生』、ジェイン・ジェイコブス、1961年)を音楽によって解体することにより、社会から見捨てられ限定された空間の外側に出ることを可能とし生まれてきたという過程を蔑ろにしかねない。
 アーティスト富樫明生が起死回生を賭けてダンス映画『ハートブレイカー』のサウンドトラックのために創造したキャラクター=m.c.A・Tは、その誕生の所以からしてECDのとっていた立場と抵触する。“Jスクール・ラップ”という言葉は、富樫明生ではなくそのキャラクターが提唱したもので、90年代的な楽観的グローバリズムの影響下に当然のように登場した音楽の商品化のためのカテゴライズとタグ付けだ。これは実際には10年ほど経過してからだが、自分のアルバムのアートワークを政治・思想・芸術運動シチュアショニズムのギー・ドゥボールの言葉の落書きで飾るECDと、m.c.A・Tでは根本的に立場が違う。聞いて育った“甘酸っぱいポップス”を自分の音楽的な原点のひとつとして認めながら、いや、だからこそ、ECDはその生涯を費やして音楽は単なる商品ではないと言い続けた人間ではないだろうか。
(荏開津広『“音楽のことしか考えてない”ーーECDが表現したもの”』より)

※ちなみに紛らわしいですが増刊号《ARAZARADIO》には本誌の予告編の位置付けであるフリーペーパー版が存在していて、現在「2018年11月25日号」と「2019年11月24日号」の2種がここからダウンロードできます。

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