見出し画像

Nxde⇆Allergy

 このnoteは、(G)I-DLEの『Nxde』と『Allergy』についての備忘録です。

 ですが、まず、私はあまり(G)I-DLEというグループについて詳しくはありません。

 タイトル曲くらいは聴いたことがあります。その程度です。ただ、まったくこのグループに詳しくない人間が聴いても、『Nxde』はとても素晴らしい曲でした。去年私が耳にしたK-popの中で、もっとも特筆すべき曲だと感じています。

 で、Nxdeについてちょっと書いてみようかなあ、でもアイドゥルについてもマリリンモンローについても全然詳しくないしな……とためらっていた執筆を今になってしてみようという気になったのは、新曲『Allergy』が出たからです。

 一見Nxdeと相反するこの曲をアイドゥルが出したという事実に、最初驚きました。けれど考えれば考えるほどよくできていて、やっぱりこれは備忘録を残しておきたい! という気持ちになり今筆を取っています。

 あくまでこれは私の備忘録です。つまり完全に私個人の不完全な意見であり、これが正解だと言うつもりは毛頭ありません。ただこう感じた人間もいる、という程度に受け止めていただければ幸いです。

歌詞和訳参考↓


Nxde

 まずNxdeについて私が感じたことをお話しさせてください。

 歌詞の内容は、「見られる客体」としての女性像を否定し、ありのままの自分であること促しています。

꼴이 볼품없대도 망가진다 해도
다신 사랑받지 못한대도
Yes, I’m a nude
見た目がみすぼらしくても めちゃくちゃになってしまったとしても
二度と愛されなくても
そう、私はありのまま

 そして、「見られる客体」としての女性像を皮肉に表現するために、MVではいくつかのモチーフが使われています。

マリリン・モンロー

 もっともわかりやすいものはマリリン・モンロー。彼女はセックスシンボルとして大衆に消費された女性です。彼女の役割はまさに「見られる」ことでした。

 しかしマリリン・モンローはただ見られる客体でしかなかったのかと言われれば、そんなはずはありません。彼女は主体性をもった一人の女性です。リーダーのソヨンは「金髪で美人のおバカという大衆が作り上げたマリリンのイメージがあるけれど、その裏には知的で強い女性がいたことを改めて訴えたかった」とコメントしたそうです。

キャバレー

 キャバレーのモチーフも、モンローと同じような役割を果たしています。MVの中でメンバーたちはムーラン・ルージュのような舞台で、ショーガールの衣装を着て踊ります。

 ムーラン・ルージュ、すなわちキャバレーとはダンスホールを併設した酒場のことですが、そこで上演されるショーはいかがわしいものを含んでいました。カンカンはその代表的な例です。女性たちはスカートを捲り上げ、その中を見せながら踊ります。

トゥールーズ=ロートレックの描いたカンカン

 すなわちキャバレーも、「男性によって性的な視線で見られる」ことを仕事とする女性を表していると考えることができます。

フラッパー

 しかしここで注目したいのは、メンバーたちのヘアスタイルです。彼女たちのヘアスタイルは、1920年代アメリカの「フラッパー」と呼ばれる女性たちを模しているように見えます。

『グレート・ギャツビー』よりデイジー・ブキャナン

 フラッパーとは一言で言うと「跳ねっ返り」のことで、それまでの伝統的な社会規範に反抗した女性たちを指します。1920年代といえば第一次世界大戦によってあらゆる価値観が破壊されたと同時に、大量生産による繁栄がもたらされた時代です。この世相はJazz age、あるいはRoaring Twentiesとも呼ばれます(フランスではレザネ・フォールと呼ばれ、ココ・シャネルはその中心的人物でした)。この狂騒の20年代において既存の男性中心的な価値観に否を突きつけ、自立心を持った女性たち。それがフラッパーです。

 舞台や衣装はキャバレーを模しているのに、ヘアスタイルはフラッパーのように見える。これはマリリン・モンローのモチーフと同じように、「見られる仕事をしていても、馬鹿な女だと思われようと、男性の思い通りにはならない」ことの比喩かもしれません。

蛇足:ゼルダ・セイヤー

 脇道に逸れますが、もうすこしこの「フラッパー」について踏み込んだ話をしてみたいと思います。

 先ほど引用した写真はスコット・フィッツジェラルド原作の『グレート・ギャツビー』のヒロイン、デイジー・ブキャナンです。このヒロインの有名な台詞に「女の子はきれいなお馬鹿さんが一番」という趣旨のものがあります。と言っても、これを字義通りに受け止めるわけにはいきません。これはもともとは作者の妻、ゼルダが出産後自らの娘に言った言葉です。

 ゼルダはフラッパーの代名詞として有名な奔放な女性でした。そして知的。彼女はいくつかの短編小説を残しています。しかしその独立心とプライドは彼女を苦しめました。「女はきれいなお馬鹿がいい」という言葉は、賢かったゆえに苦しんだゼルダだからこその言葉です。つまり「お馬鹿がいい」と言いつつ、その本心には知性を持った女性としてのプライドがあるのだと思います。

 ソヨンはマリリン・モンローについて「お馬鹿な大衆のイメージがあるけれど知性のある強い女性だった」と述べましたが、ゼルダは「知的な自らと、男性の求める馬鹿な女性とのギャップの間で苦しんだ」人だったのかもしれません。

 女の子はきれいなお馬鹿さんが一番。それが男に求められているから。けれど残念ながら私はかしこいんだ──ゼルダの本心がこうであれば、これはNxdeのメッセージと似通っているように思えませんか?(詳しくは書きませんが、一番の歌詞は特に……)

 さすがにこの曲でゼルダが意識されているとは思いませんが、Nxdeのテーマと非常に重なるところのあるエピソードだと感じたので紹介させていただきました。備忘録だからね。寄り道もするよ。

女神たち

 本題に戻ります。MVに見られるモチーフについて説明していたところでした。

 マリリン・モンローやキャバレーとはすこし趣向は変わりますが、ヌードの女神たちの彫刻も効果的な役割を果たしています。長らくキリスト教世界では女性のヌードを描くことをタブーとしてきました。しかしどうしてもヌードをお部屋に飾りたい男性権力者たちの間で、「神話を描いたヌードはOK」という滑稽なお約束が生まれます。

 西洋絵画でみなさんがぱっと思いつくヌードといえば、サイゼリヤの壁画でもおなじみボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》ではないでしょうか。ヴィーナスは古代ローマの女神で、当然神話の登場人物です(もしかしたらヌードと言われてゴヤの《裸のマハ》を思い浮かべる方もいるかもしれませんが、これはまさしくタブーを破って西洋で初めて実在の女性の陰毛を描いた絵画です)。

 ここから、MVに登場する古代ギリシャの彫刻たちは、男性的な欲望にさらされ服を脱がされてきた女神たちを表現しているのではないかと考えることができます。

バンクシー

 最後に、切り裂かれるヌード画。これはバンクシーが、自らの作品がオークションで落札されたと同時にその作品を額縁に仕込んだシュレッダーで切り裂いた事件のオマージュです。バンクシーはアートが資本主義と消費社会に取り込まれることに大きな憤りを感じており、その表明として自らの作品に値段が付いた途端それを切り裂いたのです。

 アイドゥルは、資本主義のなかで消費されるアイドルとしての自分たちにバンクシーの事件を重ねたのかもしれません。「私たちはあなたに消費されない」そんなメッセージが見て取れるような気がします。


 全体を通して、NxdeとそのMVは女性が男性から消費されてきたこと、男性から「お馬鹿でかわいらしくてセクシーな女性」という偶像を押し付けられてきたことを指摘し、そこからの脱却を目指す作品だと言えます。

아리따운 나의 누드
아름다운 나의 누드
I'm born nude
艶やかな私のヌード
美しい私のヌード
私はヌードで生まれた

 ここでは、「たとえ見た目がみすぼらしくても、私のヌード(ありのまま)は美しい」と歌われます。強い自己肯定の歌です。


Allergy

 これが、Allergyでどのように変化するか。

 MVがわかりやすいです。MVの中で女性は、自らに強いコンプレックスを抱き最後には整形をします。これはどうにも、Nxdeで示された「ありのまま」と相反する行為のように思います。

 歌詞も徹底的に自己を否定する内容が続きます。

Why ain't I pretty? Why ain't I lovely?
Why ain't I sexy? Why am I me?
どうして私は可愛くないの
どうして私は愛らしくないの
どうして私はセクシーじゃないの
どうして私は私なの

 タイトルのAllergyが「私は鏡アレルギー」という文脈で使われているのも象徴的です。鏡とはまさしく自らを客体化し、「見る」ための道具です。ここでは、Nxdeで退けたはずの「見られる客体」という視点が復活しています。さらに「I'm a hater of Instagram, hater of TikTok」という歌詞に出てくるインスタグラム、TikTokは「見られる」ことを意識するSNSです。

 おもしろいと私が感じるのは、「나만 없는 Chanel(私だけ持ってないシャネル)」というフレーズ。シャネルの創始者ココ・シャネルは、Nxdeの章で説明したフラッパー的な女性です。アメリカのフラッパーがゼルダなら、フランスのフラッパーがシャネルと言っていいかもしれません(もっともフランスではフラッパーという言葉はないのですが)。

 そもそもシャネルは、女性の独立を促した女性です。彼女の作ったドレスは女性をコルセットから解放し、彼女の作ったスーツは女性の社会進出を促しました。

 そう考えると、「シャネルを持っていない」は「ブランド物を持っていない」という表層の意味のほかに、「私は男性中心的な世界から解放されていない」という意味にも聞こえます。かなり恣意的な解釈ですが、備忘録なので……。

 MVでも「かっこいい男性と付き合えることが女のステータス」というように見受けられる表現があり、『Tomboy』などの過去作品に反する描写のように思えます。

나도 want to dance Hype Boy
But 화면 속엔 like TOMBOY
私もHype Boyを踊りたい
でも画面の中にはまるでTOMBOY

 この歌詞がもっと直接的にTomboyを否定しています。Tomboyでは「Do you want a blond barbie doll? It's not here, I'm not a doll(ブロンドのバービー人形を求めてんの? ここにはいないよ、私は人形じゃない)」と歌われ、誰の思い通りにもならないことが示されました。それを否定するとなると「ブロンドのバービー人形」になりたいと言うのでしょうか。


 なぜNxdeで否定した「見られる客体」という視点を持ち込み、「ありのままの私は美しい」という自己肯定とは正反対の自己否定を歌ったのか。

 まず頭に置いておきたいのは、これが先行公開曲であるという事実。これから発表されるタイトル曲で、Allergyの考え方が一気に退けられる可能性はあると思います。

 もうひとつ注目したいのは、MVで使われている携帯電話が古い機種のものという点です。Allergyで歌われる内容は、今のアイドゥルの本心ではないのかもしれません。TwtterではMVにピンクが多用されていることを指摘して、これはソヨンのプデュ時代の考えなのではないかと考察している方がいました。

 さまざまな可能性があるにしろ、私はNxdeのあとにこの曲が出されたことをとても面白いと思います。

 Nxdeで歌われた覚悟は強く理想的です。しかし「誰にも愛されなくともいい」という覚悟を、すべてのひとができるでしょうか。本心では誰もが「愛されたい」「愛してほしい」と感じているのだと思います。「ありのままでいたい」と決意しながら、同時に「私は可愛くない」「可愛くなって愛されたい」と願うことは誰にだってあるはずです。

 人間の心は一直線には進みません。AllergyのあとにNxdeが来れば、美しい成長の物語だったかもしれません。けれどそうではない。Allergyはある意味で、Nxdeの反動なのではないかと思います。

 NxdeとAllergyからは、女の子の揺れ動く心が垣間見えます。言いようによっては、Allergyで歌われる本心こそ剥き出しの、「ありのまま」の心なのかもしれません。AllergyがTomboyとNxdeのあとに出された曲だという事実が、この曲に奥行きを与えているような気がします。


 というわけでなんか色々言ったけど、Queencardで何が起こるかわかりません。楽しみだな~!! というかんじのnoteでした。おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?