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「人を信じる」とは「その人を信じると決める」こと

書くつもりがなかったけど、2本目いくぞ
バイト中に考えたことがある



バイトの同僚はみんな親切で、とてもありがたい
店長はつい最近までスタッフをしていた女性だ

今日は店長にレジの閉め方を教わった
甘いわけではないのだが、とても親切で優しくて感動してしまった

で、その店長に対峙した自分は、なぜかとても不安になっていたんだよね
その理由がわからなかった

思い返すと、そこまで親切でも優しくもない人との方が楽に関われることがある
これは不自然だ

なぜかを考え、「人を信じるのをやめてしまったからではないか」と思った

そこまで優しくも親しくもない人には、そもそも「信じる」という選択肢が生じない
だが、いい人が相手だと「この人を信じるべきか?」という迷いが生じる

自分は小さい頃から親を信じてきて、大人になってから「自分の意思が尊重されていなかった」ということに気づいた
これが大きな「裏切られた体験」になっており、それ以降人を深く信じることがなくなったように思う



「『Love』は動詞だ」という言葉がある
人を愛するという行為は、受動的なものではなく能動的なものだ、という意味だ

自分はこれが腑に落ちたんだけど「信じる」という行為も同じかもしれない
信じるというのは、「勝手に信じてしまう」ものではなく、「信じるものを選ぶ」というという能動的な行為なのかもしれない

たとえば、自分は科学的な正しさを信じているけど、それは研究に基づいて書かれた論文が査読を受け、世に出てからも常に批判に晒されているからだ
それほどの検証を受けても揺らがない知識は、信じてもいいだろうと考えている

「人を信じる」というのも、最終的には「自分がその人を信じると決める」というのが決め手になるのかもな



ある人を信じると決めるには、「万が一裏切られても回復できる」という確信が必要だ
今の自分は、心の中の親友の力を借りて、その確信が持てると思う

親は信じて裏切られたけど、毎回人に裏切られるとは限らない

店長のことは信じていいと思う
今回の話を踏まえつつ、人を信じる練習をしてみよう



じゃまたね
読んでくれてありがとう



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