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いちにちの始まり

今朝の起き抜け。今日という1日に直面する気力がないように感じた。

そのときにふいっと、アレクサンダー・テクニークの先生、トミーさんから教わった、「起き抜けにまっすぐ”いつもの自分の人生/生活のストーリー”に入っていくんでなく、一瞬でいいから、こうして命を受けて今ここにいることを思ってみて」というのが思い出されてきた。

今日1日に直面する気力が出なかったのは、今日1日がこんな1日になるだろとわたしに告げる「いつもの人生/生活のストーリー」があるから。夢ではまったく違う世界であれこれしていたところから、朝目覚めて、この「いつものストーリー」に参加し始めるわけだけど、わたしの最近の「いつものストーリー」にはしんどさが伴っていて。それも明らかな要因がこれとわかるわけでもない、対策をくっきり立てられるわけでもない、わかりにくいしんどさで。

トミーさんの本の訳書を出させてもらったときに訳した文の一部を、昨日たまたま久しぶりに目にしたのも思い出されてきた。

 私たちは欲求によって動機づけられています。欲求がなかったら、煩悩のないお釈迦さまのようになるでしょう。でも地球での暮らしでは欲求が一切ない状態にはなれません。大事なのは、欲求に支配されないでいること。
 一瞬の間(ま)をとって、欲求――たとえば今手にしているお茶を飲みたいという欲求――を本当に体験してみるなら、欲求をただ「満たそう」としているときよりも深い体験を得るでしょう。

トミー・トンプソン著『存在に触れる』より

「いつものストーリー」にいきなり参加し始めることをちょっと保留して、今ここにあるもの、物理的なものから、自分のこころの中に立ち昇ってくる気持ちまで、いろいろをただ体験しつづけてみた。ただ今ここで息しているひとつの生命体として。

そうやってしばらくいたら、お腹の下のほうがふっと緩んだ。そんなところの筋肉がおのずと緩む瞬間を体感したこと、思い出せる範囲の過去にはなかった。たびたび湧き上がってくる「死にたい」という気持ちが、本当は「生きたい」だったんだ、と、わりと具体的にわかった。静かに、驚いた。「死にたい」ときはいつも最大瞬間風速でその想いが吹き荒れるから、その後ろになにがあるかなんてわかりようも見えようもなかった。

それから少ししてあごと唇まわりの筋肉もふっと勝手に緩んだ。

わーーー、と低い声が口から漏れ出て、伸びをした。

わたしの意識に「死にたい」と感じさせてまで「生きたい」と願っているものは、下腹部に居たんだろか。

「死にたい」のうしろにみつけた「生きたい」は、もっとそれが十全に生きることを望んでいるみたいだった。ないことにされているのが辛いみたいだった。わたしはほんとうはもっと活き活き生きたい、とそれは言っていた。

起きておふとんに座って、自意識のほうのわたしは、しばらくぽかんとしていた。

それから、ご飯皿の前に座る猫のように、テーブルについて、相方から朝ごはんのパンとにんじんジュースをもらって、1日を始めた。

1日。いちにち。一に地。


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