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小説|扉の向こう

 部屋から出てみれば、冷たい風が強く吹きつけてきた。思わず目を細めて、扉を閉めてしまう。こんなに風が強くて寒いのなら、今日はどこにも出かけずに家の中に籠っていたい。どうせ学校に行ったところで退屈な講義が延々と続くだけだ。将来の役に立つかどうかわからないような専門知識をたくさん詰め込まれて、時間とお金をつぎ込んでよくわからない肩書きを手に入れる。そんな、つまらないことをするのならば、いっそのこと自分だけで何か新しいことをしたほうが何十倍も楽しそうだった。ほかの人間と一緒に行動して同化するよりかはいいだろう。自分という個がはっきりと確立するのだ。それほど素晴らしいことはない。
 私は肩にかけていたバッグを床に下ろして、玄関のカギを閉めた。今日はもう外には出ないだろう。間接的にでも、外の様子を知ればいい。私の目を通さなくても、知ることができるのだから。
「そんなことでいいの?」
 ふと、耳の奥から低い声が響いてきた。腹の奥に響く、少し風邪っぽい声。私の記憶には該当する声の主はいなかった。知り合いにもネットにも、テレビの向こうにもない。初めて聞く声だった。
「それはおかしい。僕は今までずっと君と一緒にいたし、君と何度もお話をしたんだ。それを忘れたとは言わせないよ」
 強い口調になる彼の声は、私の耳を鋭くひっかいていく。どこにいるのかはわからないけれど、耳障りであることには変わらなかった。
「何が言いたいの?」
 私は目の前の空気に言葉を投げつける。しかしそこには誰もいない。
「その通りさ。きみは扉の前にいるのに、そこから動こうとしないんだもの。その扉の向こうに何があるかもすべて知っているのに、鍵も手の中に握りしめているのに、それを使おうとしないんだ。そんなバカみたいなことをしていていいのかい、と言いたかったんだよ」
 ため息交じりの彼の声が、今度は玄関一帯に響く。いつの間に移動したのだろう。頭の奥にいた彼はどこへ行ってしまったのだろうか。私はぐるりとあたりを見回してみるけれど、一人暮らし用の小さなスペースしかなかった。人が二人も並べないような狭い場所だ。頭の中にいることができるくらいだから、どこにでも居られるのだろうけれど。
 けれど、私には彼の言っていることが分からなかった。扉の前に立っているのはあっている。外が寒いということも知っている。鍵は、持ってはいるけれど、これは外側から施錠するための鍵だ。内側からは使えない。
 それとも彼は、学校に行かないことに対して、私の意見を聞いているのだろうか。自分たちの義務を放棄してまですることがあるのかどうかと、そういっているのだろうか。
「違うよ」
 彼はつぶやく。
「それじゃあどういうことなの? 私は頭が悪いから変に婉曲されても伝わらないわよ」
 寒い隙間風が入り込んでくる玄関から遠ざかるべく、床に転がった鞄を手に持って廊下を進んだ。彼の声は聞こえなかったが、消えたわけではなさそうだった。次の言葉を考えているように思える。脳味噌が足りない私のためにわかりやすい言葉を考えてくれているのかと思うと、嬉しいく思うのと同時になんだか悔しかった。自分でもわかっていることだが、他人にそうだと行動に示されたら途端に現実味を帯びて私の心を握りつぶそうと流れ込んでくる。胸の奥をすりつぶすような歯から逃げるように、私はリビングに入った。
「やぁ」
 のんきな声で彼は挨拶をする。ジーパンに無地の黒いシャツ。冴えない格好をして、ベッドに腰掛けている。
「なんだ、そんなところにいたの」
「どこにいるんだと思った?」
「頭の中とか」
「あはは! まぁ、当たらずとも遠からずだね。確かにそこにはいたけど、今ここにいる僕はそれとは別物だ。同じだけれどね」
 奇妙な言葉を残して彼は脚を組む。
「さて、と。僕が言いたいことがまったく伝わらなかったみたいでとても残念なんだけど、しょうがないと言えばしょうがないかな。分からないものは分からないし、それを無理やりにでも押し付けられたら嫌になっちゃうもんね。わかってるよ。だから教えてあげる。
 君は他者と同化するのが嫌いといったね。大学という場所に行くことにも退屈している。将来について漠然とした不安や疑念を抱いていて、足元が暗くなっちゃってるんだ。そのまま前に進んでいってはよくわからない誰かになってしまうかもしれないしね。だから君はほかの人とは違うことをやって、特別であろうとする。相対的に自分というものを規定しているから、一般人の対偶を取れば自分自身につながると思っているのだろう。それは間違いではないが、正しい答えともいえない。そんなことをせずとも君は前に進めるのだから」
 彼は長そでのシャツを肘までまくり、大きく手を広げる。
「君はそんなことをしなくても特別だ。少なくとも一般人というくくりには収まらないだろうよ。なぜって、自分の力で物事を決められるのだから。それは人間としてずいぶんと進歩していることになる。病人だろうが子供だろうが大人だろうが、そんなものは関係ない。人間という一つの種族に焦点を置いた時に、自分の意志で進む道を決め、そして考えることのできる人間はそうそういないんだよ。皆、何かと他者に頼ろうとする。自分の意志というものは徐々に薄れていって、いつの間にか自分というものがなくなっていくんだ。それに気づいていないんだよ! だから彼らは一般人として同化してしまう。それに対して違和感を感じていないからね。
 でも君はどうだろうか。自分はそうはなりたくはないと、考え方こそ捻くれているけれど、自分の力で溢れかえる一般人の波の中で止まっているんだ。そして、どうすればいいかを考えている。それだけでもきみは十分すごいというのに、新しいことをしようだなんて考えているんだ。君は本当に人間なのか、と問いたいところだよ。人間なんて、そんなに強い生き物じゃないからね!」
 大きな声で笑い、何がそこまで面白いのかはわからなかったけれど、私もつられて笑ってしまった。乾いた笑い声が部屋に響く。空っぽの頭の中にも侵入してきた。
「でも、きみにも欠点はあったんだね。すべてを知っていて、それを今にでも行動に起こせるというのに何もしないんだ。自分はほかの人間と一緒にはなりたくはないと思っているのに、自分自身が変わりたいとは思っていない。それでは何も起こりはしないよ。現状維持がやっとだ。まぁ、それだけでも君というものは消えないが、それではあまりにももったいない。君には出来るんだから。直前で足を止めてないで、進んでみなよ」
 ほら、と彼は指をさす。本棚の向かい側にある真っ白な壁、そこには一つの見慣れない扉があった。一人暮らしの小さな部屋に、それも玄関に通ずる場所ではないところに扉があるだなんて、不自然極まりなかった。何よりその色が桃色なのだ。普通の扉なはずがない。
「鍵は君が持っている。この扉の意味も知っている。その先に広がる景色も、自分がどうなるかも。怖がらないで、愉しめばいい。そうすれば、きみというものはさらに高い次元へとシフトできるはずだ」
 そういって彼は立ち上がった。反対側の扉をくぐり、玄関へと向かってしまう。私が覗いた時には、誰もいなかった。
 私は右手を開く。
 そこには小さな金色の鍵が収まっていた。何に使うのか、私は確かに知っている。そしてそのあと起こるであろうことも、何となく予想はついている。
 けれど、自分が壊れてしまうかもしれないのだ。そうしたら、同化よりもさらに悪いことになるだろう。
 安定を求めて退屈になるか、崩壊を抱きながら前進するか。
 それを決めるのはほかならぬ私だ。彼は扉を開けることはできないだろう。
 そう考えたら、手の中に鍵が軽く感じられた。
 何かあったらその時だ。
 壊れたらまた次の時やり直せばいい。
 目の前がいつにもまして輝いて見えた。

【情報】
2012.11.02 19:54 作成
2023.12.11 22:18 修正

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