見出し画像

07 愛しのラバル(前編)

 ラバル地区に潜り込んで一月が過ぎようとする。
 僕自身は居住地に関しては特に好みはない。特に今のように旅人としての流浪の生活であればどこでも結構楽しめるものだ。清潔でよくデザインされたホテルの上層階から街を眺めるのも、もちろん嫌いではない。しかし人はそうした高い目線や遠い目線でばかり捉えていると、どうも抽象的な思考に偏ってしまう。
 上から眺めるきらびやかな街とは違って、地面に這いつくばるような視点で捉えた街。その地上の目線で捉えた風景には、人間がその生活の中で放つ様々な匂いと音が混じり合っている。強烈な生活臭は、周りを文化的なもので武装している人間の本質を暴露するような批判力を持つ。それはきれいごとではなく、生々しいリアルな物質感を伴って僕たちに迫ってくるのだ。今住んでいるラバルは、そんな生活臭がする場所だ。そして文化疲れした今の僕にはとても魅力的な場所として目に飛び込んでくる。
 文化だ芸術だと言って誤魔化してみたところで、我々は所詮動物である。
結局我々の生活とは、動物と同じように寝て起きて食べて排泄することの連続である。他の生き物の命をうばって自らの命とし、その残りカスは体内を通って様々な分泌物となって出てくる。いくら獣とは違うフリをしていても、肉体を伴っている人間の本質は変わらない。

 文化とは動物から距離を取ろうとする人間のもがきの結果だと僕は考えている。それを突きつけられたのは南アジアに訪れた時だった。現地の芸術家の友人たちが手でカレーを食べる姿に最初は嫌悪感を覚えた。何とも野蛮で不潔な印象を受けたのだ。
 しかし慣れればこの方がよほど合理的だということがだんだん分かってきた。わざわざ面倒なスプーンやフォークを使う強烈な必然性は特にない。手で十分こと足りるし、この方が美味しいようにも思えてきたのだ。
 ではなぜこうした道具を使うのか。その理由があるとすれば、それは獣とは違うことの証が欲しいだけなのかもしれない。手で食べるのは獣じみていて、スプーンやフォークを使って食べることで自分の獣性から距離を取る。それが進むと今度は食べるものに応じて食器を変えて、盛り付けも美しくすることでさらに距離を取る。そして所作やルールも整えられ、テーブルマナーを守って優雅に食べる型ができてくる。こうやってだんだん様式化が進んで行く。
 自分が獣ではないことを必死で証明しようとする営みのプロセス。文化というものは所詮その程度のものなのではないか。ふとそう感じた時に自分が抱いていた嫌悪感はなくなった。その嫌悪感は特定の文化的な価値観の刷り込みから来ていたことに気づいたからだ。

 その特定の価値観の極が、欧州を中心とする様式化された文化だ。それはそれで人間の膨大な妄想が生んだ結果として興味深いものだと思っている。芸術も歴史的に貴族の中で培われたものが歴史の中で様式化し、それが文化の中心を担っていく。その様式は下々の市民に影響を及ぼしながら徐々に薄く、庶民文化の中に浸透し共有されていくのだ。そうやって貴族や芸術家からこぼれてくる文化的な雅な香りをありがたがる価値観が僕らにはどうも刷り込まれている。
 しかし一方で、そうした雅な文化なるものに時々白々しさを感じることがある。ラバルのようないわばスラム的な場所を僕が好むのは、そういう虚飾がはがれた生の風景が見えるからなのかもしれない。その風景は欧州のものというよりも、中近東や南アジア、アフリカの都市に近い印象を受ける。実際にラバル地区の風景はバルセロナの他の場所とは違って異様な雰囲気を放っている。なぜならばここは移民街だからである。
 僕がラバルに住むことになったのは偶然だ。しかしその特異な風景から、このラバル地区がバルセロナの他のどの場所とも違う匂いを僕は嗅ぎつけた。ここが一体どういう街なのかに急に関心が出てきた。

2017.04.29


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?