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5-2モノの進化

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」02
 
 では人類は退化しているのだろうか。進化と退化の基準ははっきりとは定義できないが、私たち人類が地球において他の動物とは異なる戦略を取ったということは確実だ。それは身体を進化させてまなざしの高さを物理的に持ち上げるという方法ではなかった。直立の状態まで頭を持ち上げ、頭の高さをこれ以上あげることが出来なくなった私たちは、ついに頭の中を進化させたのだ。
 頭の中の想像力を使って、実際の頭よりもさらに高いところにまなざしを設定する。つまりより抽象的な思考をし、俯瞰的に物事を眺めるまなざしを肉体の外に置くことによって、私たちは他の生物とは違った方向へと進化を進めたのだ。
 頭が進化して自分と自然をより俯瞰的な視点場から眺めるようになったときに何ができるようになるのか。その一つの表現がの創造である。これは生命の歴史の中でもかなり大きな意味を持っていると言える。モノの創造によって私たちの身体を進化させることなく自然環境の中での生存の確立を上げていくのだ。
 人間の進化は動物の進化とはまるで異なり、環境に適応させて身体を変化させるのではない。寒いところで生存に適しているのは、分厚い毛皮を持った生き物かもしれないが、人間は衣服を着ることで体温を調節することができる。爪や牙を持った虎には、素手では勝てないが、槍や棍棒を手にすることで互角に渡り合うことができるかもしれない。そうやってモノを生み出すということで、身体を外へと拡張させていって進化するという戦略を人間が取ったのだ。
 もちろんネアンデルタール人も道具を使っていた。今でも自然界を見渡してみると、猿でも道具を使うしビーバーや鳥だって巣作りのために道具をつかって建設をするのだ。しかし、私たち人間とそうした類人猿や動物との間には決定的な違いがある。
 それは私たちが言語という道具を生み出したということがその一つの大きな要因となっていることは多くの研究者が指摘している。ゴリラやチンパンジーやイルカなども、鳴き声などを通したシンボリック・コミュニケーションを行うことができる。しかし人間が生み出した言語というのは、その場所に指し示されるものがないような抽象的なものも表現出来るのだ。つまり目の前に見えていないようなものに対して、我々は頭の中でまなざしを向け、それについて互いにコミュニケーションすることができるようになったのだ。
 言語が生まれることによって、人類の進化は遺伝子を変化させることではなくなった。物を生み出すことで、環境への適用を果たし、さらには環境まで改変するようになる。特に約1万年前に始まったと言われる農業は環境をどんどん改変していくようになった。建物をつくり、集落をつくり、都市をつくり自然から人間の領域を切り離して文明が発達していく。私たちの今の文明はすべて農業による定住生活の延長にある。
 人がモノや科学技術、そしてサービスや社会の仕組みを進化させることで生き残る方向へ進んだが、それが決定的に加速したのは近代の産業革命以降だ。今の私たちの現代文明の基礎的なものはこの近代以降の20世紀に全て用意されたものだと言える。今の21世紀もそれが下敷きになってこれまで進んできた。
 しかし、今ここで少し立ち止まって考えねばならない時期に来ているように思うのだ。果たして、私たちはこれからこの方向で文明を進めていくことで生存することはできるのだろうか。産業社会と呼ばれる状態はモノを中心とはするが、物だけの問題ではない。モノが技術やシステムやサービスというものに置き換わったとしても、産業社会の本質は同じでこの文明そのものが構造的に問題を抱えているのだ。
 確かに、私たちは物によって生活を豊かで便利にすることに成功した。今でも物や仕組みやサービスが必要であることは間違いない。しかし、それはこれ以上加速することが必要なのだろうか。テレビを3センチ薄くすることは、人を本当に豊かにするのだろうか。添加物まみれにすることで豆腐の保存を3ヶ月先まで伸ばすことは私たちに必要なのだろうか。


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