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「時間の経過と意識の変容」(2020年10月)

●10月2日/2nd Oct
後期の講義がオンラインになり、時間が割と出来るので溜め込んでいた専門書を手当たり次第に読み漁る日々。
ここのところ経済学を中心に人文社会系を読んでいたが、一通り読んで飽きてきたので、土壌生態学や医学、理論物理学など理系の方も節操なく読む。
一方で来週、表面化学の専門家に話を聞きにいく予定があったことを思い出し、慌ててその方の論文を読まねばと今朝から読み始める。
食塩結晶表面の防湿や形態制御の原子機構に関して、一連の研究をされておられるようだが、急に話題がナノレベルになるので、意識のモードがなかなか切り替わらない。トライポロジーや表面化学など全く知らなかった分野なので興味深いが。

●10月3日/3rd Oct
政治と学識の関係について改めて考えさせられる。国や自治体を運営していくためには膨大な範囲の物事を決定していかねばならない。不勉強な政治家が全ての領域をカバーしているはずがないので、当然学識の客観的意見を元に判断を下さねばならない。だが、そこで政治判断にとって都合の良い学識だけを位置付けようとする力が働くと、その社会は歪みがどんどん出てくる。科学に政治が学ばねばならないのに、政治が科学を従えようとするのは本末転倒だろう。
一方で学識が本当に客観的に状況を捉えられているかどうかも昨今は怪しい。自らの研究を政治的に位置付けようとして動く者も少なからず見受けられる。都合の良いデータを並べ、都合の良い問題を捏造し、都合の良い処方箋を掲げることで政治に取り入って生まれた政策や産業は山ほどある。地球規模で大騒ぎしながら産業化していったのに、何も解決していない例はいくつか思い当たるだろう。そもそも解決すべき問題はそこにはないのだから当たり前だ。
いずれにせよ、どちらも結局は大きな力を利用して、社会のためと美辞麗句を並べながら自分の利を得ようとしているに過ぎない。我々が無意識に自分のしていることを正当化する力というのは、行動や意識を根底から導いている。それは無意識な故に気付きにくいため、正当化しているうちに本気で自分が社会のために何かをしていると勘違いしてしまう罠がある。今一度しっかりと己の中を見つめ直すことの重要性を改めて思う。

●10月4日/4th Oct
半断食期間が明けて朝のコーヒーを頂く。今回は舌の感覚も特別に変わりもなく、食欲もさほど刺激されないが、久しぶりのカフェインはやはり嬉しい。スペインに住んでいた頃にすっかりと濃い目のエスプレッソが習慣になってしまったが、神経を休める期間を定期的に設けた方が良いのだと。

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●10月5日/5th Oct
何気なく交わした、たった一言の中に、その人がこれまで何を考えてどう生きてきたのかが全て見えてしまうことがある。

●10月6日/6th Oct
これから東京へ。マスクはなるべくしたくはないが仕方あるまい。

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●10月7日/7th Oct
日立へ。
ここのところ調査に来れてなかったが、久しぶりに聖地の調査。

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日立の御岩神社へ。
常陸國風土記にも記載されている古くからの神社。遥拝所から奥宮までは500mほどの山道の参道を登っていかねばならない。
数年前からフィールドワークの際に、聖地のジェンダーにも注意を払っているが、ここは非常に女性的な印象を受ける。途中で何段階か空気の変わり目があり、何重かに包まれた中で奥に入っていく感覚を得る。
麓の遥拝所ではコロナ禍の中でも人が参拝しているが、手水鉢などの使い方に神社側の配慮と工夫が見られる。

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御岩山を下山して酒列磯前神社へ。
こちらは海の神社で、大洗磯前神社と対になっているが、参道のタブノキの列植が特徴的なランドスケープを作っている。
本殿の参拝にはコロナ対策として2mのディスタンスが設定されている。
方位を測ると真東に向かって拝む形なので、太陽信仰の名残かと思ったが、主祭神が少彦名命、配祀神が大己貴命の二神となっているので奇妙に感じた。
対の大洗磯前神社ではこの主祭神と配祀神の関係が逆転する。

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もう一方の大洗磯前神社。
こちらの主祭神は大己貴命 、配祀神は少彦名命 となっている。
『日本文徳天皇実録』によると、斉衡3年(856年)に常陸国鹿島郡の大洗磯前に神が現れたとされるが、その降り立った岩が鳥居出前の岩。
おそらく海の向こうから渡ってきた水平降臨として考える方が妥当ではないかと。酒列磯前神社の本殿も東を背にしていたのは、おそらく海の方向に拝む形になるためだと推測する。

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●10月8日/8th Oct
現在設計中の作品にも関連するので、中央大学の名誉教授に話を聞くために土浦へ。ご専門の表面化学の論文を10本ほど読んでからお話お伺いしたので理解は早かった。
一方でやはり日常のスケールで起こっていることと、マイクロスコープの中での現象とでは、条件の設定が違うので、一概には何とも言えないことも分かる。
ただ、使用素材の可能性が広がったのでそれはすぐにでも実験して、予想通りの結果が導けるかは検証してみたいところ。
デザインサイエンスを標榜するには、こうした物理化学の専門的なことを深く知らなくても、色んな領域のことを少しずつ知っていることが必要だ。相手の言語に揃えれば対話が可能になる。
土浦駅で印象的だったのは駅前の電線に異常なほどのムクドリが夜になると群れて止まること。この現象は日本各地で見られるが、ここほちょっと恐怖を覚えるほどだった。まるでヒッチコックの「鳥」のような風景。

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●10月10日/10th Oct
大量の本を積み上げて読破するよりも、目を瞑って一日中、自分の身心を観察する方が学びが多いのは不思議だが揺るぎない事実だ。
知識をいくら身につけても智恵に至らないのは、前提となる見方が間違っているからだろう。心を育ててから頭を鍛えるという順番が大事なのだが、今の教育システムには心を育てる局面がない。その方法を知らない以前に、そもそも心を鍛える重要性に気付いてないからだ。

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●10月11日/11th Oct
伝えたいメッセージに対して、まだまだ自分が追いついていないと感じる故に、ひとまず筆を置いて少し様子を見ようかと。
おそらく普通に考えれば、一つ一つは充分に問いに満ちているのだが、やはり他者の理解と共感に頼ってしまっているので、今ひとつ確信が持てずにいる。誰にも頼らずに、己の心の弱さをまずは克服せねばならない。
このまま答えを出せなければ何十万字積み重ねようとも御蔵入りになるが、それはそれで仕方がない。誰に求められているわけでもないのだから。ふと閃いた時にまた書き始めれば良いのだろう。

●10月14日/14th Oct
早くもというか、やはりと言うかハラリが消費され始めているなと。仕方ないのだろうが、売れてしまうとああなるのだな。

●何やら怪しげな化学実験に見えるか。何をしているかはまだ言えないが、うまくいけばそのうちにどこかで公開することになるはず

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●10月15日/15th Oct
何かを主張するにはその何かを"信じ込む"ことが必要になる。だが「信じ込むことをやめなさい」という主張をしようとする場合、それが難しくなる。自分が何かを信じて主張することがパラドックスになるからだ。そうなると何も言えなくなる。
そうした相対主義を乗り越えた果てに何かの答えに辿り着くのは容易ではない。だがそれを突破する道はやはり「信じる」のではなく「知る」ことでしかない。
私たちは何かを知っているようで、実は何も知らない。知らないからこそ「信じる」ということが必要になるのだ。本当にそのことを知っているのであれば、信じる必要はない。
では一体「知る」ということは何を意味するのか。そこが肝要なのだが、それは元来言葉で理解できるものではないのだ。それを言葉として表現せねばならないので、そう簡単に答えなど出せないのだよ。
まぁ、そんなことを主張しようと言うものだから、編集者は困るだろうなと。そう簡単に分かりやすい企画書など書けないわな。

●『「トランプ大統領の登場は、ヨーロッパの形而上学の崩壊の結果である」と。さらにそれは「ニーチェ哲学の帰結である。」』
という佐伯先生の視点は非常に面白いし、うなずける。真理など追い求めず、事実よりも価値を重んじる民主主義政治の本質がフェイクであることを暴いたという点からトランプを評価しているのは僕自身も共感するところ。
ただ一方で、その分析をする際に、トランプがどういう世界観と問題意識を持っているのかという補助線を引く上で欠けている情報があることは否めない。虚実・清濁合わせた裏側のパラメーターをもう少し入れないと読み誤ることがある。

●10月17日/17th Oct
ちょうど今書いている本に、時間論の章が一つあることもあり、クリストファー・ノーランの新作「TENET」を見てくる。ノーランは2000年の映画「メメント」の頃からずっと注目はしているが、時間と意識をテーマにした作品が多い。観賞後の感想としては、今回だけではメッセージの核心が伝わっていないので、おそらく続編を作ることを前提にした脚本だなと。
1999年にウォシャウスキー兄弟が作った「マトリックス」では、続編なしでも明確なメッセージが差し込まれていたので、その後の哲学的議論の補助線としても、技術の先取りメタファーとしても優れていた。だが「TENET」は時間の逆行に関する理論物理学の知見があちこちに垣間見えるが、エッセンスに留まっていて明確にメッセージとして発信されていないので、別の意図を感じる。
だからノーランが今回の作品を作った意図が、キューブリックが「アイズワイドシャット」を作った動機の方へ分類されるとは感じなかった。だとすると、ノーラン自身がどうこうというよりも、ハリウッドがそれを発信し始めたことの意味を考えねばならない。
時間というものの取り扱い、もっと言うとエントロピーの制御技術について、次はこの方向性で行くよという暗示が仕込まれていると見るべきだろう。そういう意味では、今そのあたり学生と一緒に分析しているところだが、2011年にソダーバーグが「コンテイジョン」を作った意図と似たものがあるだろう。ハリウッドの資金源がどこかということが多分に関係してくる。
映像的にはノーランらしく、CGを多用せず現場で撮る迫力は素晴らしい。逆回しの映像の手法は僕も自分の映像「Seeing differently 」の中で使ったが、TENETでは順回しとの合わせ技で見せていて、あのスケールはさすがにハリウッド資本でないと出来ないなと。だがやはり惜しいのは逆行のタイムスケールが順行と同じ刻み方であることが伝わりにくかったのが難点。編集を整理すればもう少しわかりやすく出来たかもしれないとか。
アクションシーンの編集は相変わらずノーランな感じで、カット割り過ぎで臨場感が目減りした感じはあったが、まぁ個人的にはそれなりに楽しめたかな。一方で芝居と人物描写に関しては、いくつか違和感あるところもある。
それぞれの人物の行動の動機がもう少し透けて見えると人間ドラマとしてもう少し魅力的になったかなと感じる。デンゼル・ワシントンの息子は芝居タイプではないと思うのであんなもんだろうけど。
でも、その中でやはり一際光っていたのがベテランのディンプル・カパディア。もう芝居というより存在感。あのキャスティングはやられたなと。やっぱり役の魅力というより、役者が持つ魅力ってどういう生き方してきたかだよなと改めて思った。カメラの前に立つだけで成立する人って居るし、自分もそうであれば嬉しい。

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●「言いたい」ことは山ほどあるが、「言える」ことはそんなに多くはない。だけど概ね腹が決まってきたので、言っても大丈夫なこととそうでないことを精査していく。何かを伝えるためには頭と心と腹が揃うことが大事だ。
頭だけで伝えられたものは何のリアリティもないし、心だけ先走っても整理されていなければ伝わらない。そして腹が座っていたとしても、その内容がエゴイスティックならば迫力はあっても意味がない。
自分の身体を使って声を使って表現するなら、三つの一致はコントロールしやすいが、文字や空間や物体という別のものに代弁させねばならない時には、どうしてもズレが出やすくなる。だから自分はやはり文字よりも直接会って話する方が向いてるのかもしれないとつくづく思う。
やはりライブ配信やYouTubeで語りかける方が伝わるのかも。

●10月18日/18th Oct
一度ならず二度目の死と三度目の儀式に違和感を禁じ得ない三十五年目の空。

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●10月20日/20st Oct
ドイツを中心に欧州では、冷静な見方のもと具体的に行動として出て来ている。半年前に僕自身も論考を書いたが、日本でこの見方をする人は冷静ではなく奇異な行動だと演出され、常識から外れていると受け止められる。相当根深いので、ちょっと次を考えないと。

●10月21日/21st Oct
試しに貼った一つ前の投稿のリンクは多くの人のタイムラインに上がって来にくいらしい。面白いぐらいあからさまに、広めていい情報とダメな情報が選別されているのだな。

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桜蔭中学入学試験の模擬試験の国語で拙著「まなざしのデザイン」を取り上げていただいたようだ。
中学の入試問題ということは、小学生が読むのかと驚くが、それ以上に試験問題のハイレベルさにさらに驚く。
これ、著者の僕でも答えるの難しいぐらいだぞ。すげぇな小学生...

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●10月25日/25th Oct
ここのところ執筆のためにインプットとアウトプットを同時にしていて頭がパンクしそうだが、陽光の下で過ごすのが気持ちの良い季節にほんの少し救われる。
かつて医学を志そうとしていた僕は、高校生の頃にジェームズ・ラブロック博士のガイア仮説に出会ってから、より広い「環境の医学」へと進む道を選んだ。そのラブロックが100歳を迎える頃に書いた「ノヴァセン」でラブロック自身が見方を変化させていることと、僕自身がラブロックを見るまなざしも変わったことを確認する。
百歳においてなお自らの考えを更新し続ける態度に勇気をもらうとともに、かつてほど共感できなくなった自分も見つける。ラブロックも変わり、僕も変わった。今の僕は生命ということに対して明確な補助線がある。
何か一つのこと納得して力強く言い切るというのは、相当な勇気が必要だ。だが僕たちはすぐに判断を下さねばならない日々の生活で、簡単に何かを結論づけてしまう。結論づけた方が楽だし、そうでないと物事を前には進められないからだ。
だが、ほとんどの場合は僕らは充分な材料を持っていない中で何かを判断している。そのことに気づいてしまうと、頭だけで何かを判断しようとしたときに迷いが生じるのだ。それは人類全体というスケールで起こっている迷いでもある。
その時に立ち返らないといけないのは、僕たちの生命としての感覚を頼りにすることだ。頭は間違えるが、生命感覚は生き延びようとする方向に関しては概ね間違えない。問題は僕たちのその感覚が現代ではかなり狂ってしまっていること。そして生命が元々持っている感覚が「苦」しかないことを、僕たちが理解していないことなのだろう。
もし自分が高校生の頃から少しは考えが進んでいることがあるとすれば、この数十年でそのことに確信が持てるようになってきたことぐらいか。

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久しぶりにバルセロナのコリーナとスカイプで話をする。彼女はスペイン在住のルーマニアのジャーナリストなので、東欧と西欧の両方の様子を把握している。
バルセロナに住んでいた頃に彼女とはフラットをシェアしていた仲で兄弟のような関係。何が真実かよく分からないような情報が飛び交う中では、信頼できる人の視点が頼りになる。
こちらからも日本の状況を伝えて色々と話し込むが、バルセロナも思った以上に深刻な状況のようだ。多角的に見ないと何が起こっているのかよく分からないので、いいディスカッションが出来た。
しかし、彼女は博士号取得のためにスペイン語よりも英語使う機会が多いようで、レベルアップしていたのに対して、僕は久しぶりだったので英語が思ったように出てこないことに軽いショック。
最近は海外に出て行けないのだが、やっぱり定期的に英語で情報交換せねばなと反省。

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●10月26日/26th Oct
今朝、研究室に来ると、書物が二冊届いていた。
封を開けるとお二人の先生からそれぞれご著書をご謹呈頂いたようで、心から嬉しく感じる。文系領域と理系領域からそれぞれ同じ日に届いたことと、どちらも京都大学にゆかりがあることにも何かのご縁を感じる。
一冊目は文化人類学者の飯島秀治先生が編著された「自前の思想」。先日アフガニスタンで逝去された中村哲さんや、アイヌ調査の本多勝一氏、水俣の石牟田道子氏から梅棹忠雄先生や宮本常一先生まで名だたるフィールドワーカーについての論考だ。
学術的にも、ひとりの人間の人生としても非常に学びが多いと思うので、しっかり拝読させて頂いて、僕の見よう見まねのフィールドワークに喝を入れねばと。飯島先生ともまたディスカッションしたい。
もう一冊は京都大学の基礎物理学研究所の村瀬雅俊先生の編著「未来創生学の展望」。共著者には元京都大学学長の山極壽一先生のお名前もある。
昨年僕も登壇した基礎物理学研究所のシンポジウムでディスカッションされていた内容も踏まえた、学際的な内容になっている。
自己と非自己の循環、無と無限と宇宙の創生から遺伝子まで、全領域に渡る壮大な内容。僕自身の標榜する生命表象学とかなり近い内容なのでしっかりと勉強させて頂こうと。
朝からとても嬉しい気分になり、今日一日頑張る活力を頂いた。先生方に心より深く感謝。

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●10月30日/30th Oct
本日は堺市文化芸術審議会の本年度三回目。第二期計画の審議に入り、アーツカウンシルも具体的な検討事項に。文化政策を進める側のレベルアップをはかる仕組みを導入すべきだと前々から審議会では吠えているが、今期はそれを是非考慮して欲しい。 
文化政策がなぜ必要なのか。芸術をなぜ広める必要があるのか。人にとって芸術がどのような意味があるのか。そんな芸術文化の必要性や意味について、提供側が本当に腑に落ちて理解しているのかが問われる。
「芸術の楽しさを知ってもらいたい」「子供の教育に芸術を」「芸術で社会課題の解決を」というもっともらしいフレーズを並べるのは大人の都合だ。だが子供はもっと本質的な問いを突きつけてくる。
昨日の新聞に12歳の中学生が「音楽を職業にしている人は多くないのに、なぜ音楽の授業を受けなければならないのか」という疑問を投げかける内容があった。それを紹介しつつ、この素朴だが本質的な問いに芸術団体や文化政策の推進者の中で納得の行く答えを用意出来る人はどれぐらいいるのでしょうかと問いかけたが、全員が沈黙しておられた。
本当に教育と思索が必要なのは"芸術を提供したい"などと考えている大人の方ではないか。自分は分かっていると思い込み、相手を変えようとするのは謙虚さに欠けるだろうし、ことさら文化にまつわることに関しては深い理解がないと本質的な事業が難しい。

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●10月28日/28th Oct
これまでの世界は、愚かだが頭の回転が速い人が物事を動かしてきた。だが今は単に愚かなだけになってしまった。以前のようには騙せなくなってきたことに気づいてないからだ。勘の鋭い人たちが以前から感じていた違和感の正体。それが次々と明るみに出ていて、今でも一部とはいえ気付いている人は増えた。気付いてないのは頭の回転は速いが勘の鈍い人ばかり。
賢い人が社会的影響力を持てない構造が続いていることもあるが、そもそも品格を備えた本当に賢い人は気付いてもベラベラと発信したりしない。愚かな人の声しか耳を傾けない社会では声が届かないからだ。それでも分かる人にだけでも語りかけてくれるので、徐々に気づき始めている人は確実に増えている。
頭の回転が速いことと勘が鋭いことは違う。勘が鋭いことは賢いことの前提だが、賢さには徳が備わっている。それと同じように、美しくても品格のないこともあるし、可愛くても魅力がないこともある。人間の能力や魅力は一面的ではないのだ。
能力や魅力は人によって感じ方が違う面もあるが、一方でやはりある共通した条件が備わっているとも言える。とはいえ単なる業の違いに過ぎないので、だからどうと言うこともなく、生きている間に精進すればいい。少なくとも愚かではいないようにしたいものだ。

●10月29日/29th Oct
「知っていたならどうしてその時に教えてくれなかったのか」と後から言われるかも知れないが、こちらにいくら伝える気があっても耳を傾ける気がないなら伝えようもない。
多くの人はその時に"自分が聞きたいこと"を聞きたいのであって、"本当のこと"を知りたいとは思わないものだ。そして人というのは素直ではないので、本当のことを聞いても自分が信じているものと違うと受け入れられない。そんな状態で何を伝えろというのだろうか。にこやかに沈黙するしかないだろうよ。

●10月31日/31th Oct
秋晴れの素晴らしい日。今宵の満月から数日間は寺にこもって瞑想に耽けることにする。
この間に世間ではいくつかの重要な投票がある。下る頃にはひとまずの結果は出ているが、そう簡単にはおさまらないだろう。今の世界は文明に近い距離ほど智恵が失われている。
せねばならないことは沢山あるが、こんな時期だからこそ情報に溺れずに、しっかりと内面を観る時間が僕には必要だ。

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