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「なぜ今の世界になったか」(2019年6月)

●6月1日/1st,June
アシヤアートプロジェクトでご一緒している岡登志子(Toshiko Oka)さんのKOBE ART AWARD大賞と神戸市文化賞の両方の受賞記念公演「緑のテーブル2017」を観に行く。
神戸クリエイティブセンターKIITOは2017年12月に自分の講演で訪れて以来。昼間に来るのは初めてだ。
一時期、集中的にコンテンポラリーダンスを観ていたり、関わっていたりした時期があったが、最近はご無沙汰していたので、久し振りにダンス・演劇領域の方々との再会も懐かしむ。
「緑のテーブル」自体は1932年のクルト・ヨース振付作品だが、そこからインスパイアされて岡さんが振付た本作が今回は再演されるという形のようだ。
1932年とは状況が異なるが、やはり今でも変わらない反戦のメッセージから始まり、様々な社会問題への視線が込められた演出で、色々と考えさせられる。世界が危うくなってきている今の時代と重ね合わさる部分や、動きの中に込められた期せずして抱いてしまう政治的なメッセージ。ある状況で必死に生きる中で抱える矛盾。そんな曖昧で多様な意味が問いかけられる秀逸な演出に大満足。素晴らしかった。
舞踏家の大野慶人さんも出演されており、終了後の交流会の場で、父である故大野一雄さんの人形を用いたパフォーマンスも披露して頂いた。
公演の中身とは関係がないが、座った席の隣には小学3年ぐらいの男の子が居て、公演の途中でウトウトし始めた。眠くなり船を漕ぎだしたのだが、その動きがまるで岡さんの動きに呼応するかのように大きく小さく揺れるのが、ダンサーの身体性にも増して非常にリアルだった。
演劇だと内面とセリフとの結びつきが中心だが、ダンスの場合は心の動きと身体の動きとの結びつきに、リアリティがあるかどうかに着目して僕はいつも見るようにしている。訓練されたダンサーの動きは観ていて気持ちが良いが、一方で訓練されていない子供のリアルな動きとのコントラストが観れるとは思わず、そういう今でも興味深い時間だった。

●6月2日/2nd,June
この週末はパフォーミングアーツ系に触れる時間が多い。梅田芸術劇場ドラマシティで本日から6日まで上演される小川絵梨子さん演出の三人芝居「WILD」を観てきた。
主演がジャニーズの中島裕翔くんなので観客は若い女性がほとんどだったが、中島くんを翻弄する相手役のエージェントを女優の太田緑ロランスさんが演じている。
ロランスさんは、僕がファウストを演じた舞台でマルガレーテ役で共演したことがあり、その後も親交を深める役者仲間の一人。2月の橋爪功さんの舞台は行けなかったが、彼女もあちこちで活躍していて嬉しい限り。
芝居の内容は2013年にロシアに亡命した元アメリカ国家安全保障局のエドワード・スノーデンとウィキリークスのジュリアン・アサンジをモチーフにしたストーリー。元はマイク・バートレットの社会派戯曲で、その翻訳の戯曲として上演されたようだ。
テンポよく進んでいく密室の会話劇で、内容も情報化社会の中での民主主義のあり方、監視社会と機密情報、人間を情報ではなく信頼することが可能か、など多重の問いが含まれる。
難しい社会問題を扱う内容だが、ジャニーズファンの若い女性がこうした問題を考えるきっかけになるかもしれないと、少し可能性を感じた。
楽屋でロランスさんに久しぶりに会って、この公演のタイミングでエクアドル大使館にいたアサンジが英国当局に捕まったことにタイムリーさを感じると話し合う。
僕が不思議とロランスさんやサヘルさんなど、日本以外にもアイデンティティを持つ俳優とご一緒することが多いのは、自分も同じように外国人のルーツだからかもしれない。しかし我々のようなダブルナショナルアイデンティティの演じ手が果たせる役割の一つとして、こうした国際的な問題を提示できる身体を媒体として持っていることだと思う。
最近芝居はとんとご無沙汰しているけど、いつか自分が映画か舞台を演出する時は、そういうことをテーマにしようと思う。

●6月3日/3rd,June
最近の朝の日課が新聞記事を読んで分類することになってきた。地球全体で起こっていることの概要と流れを一部でもつかみたいので、一応すべての記事を読んで十程度のカテゴリーに分類してファイリングしている。ネットで読むよりも、物質としての紙で読む方が好きだ。
世界の動きを包括的に把握するのに最も便利なのは、経済と投資を見ることだ。技術、政治、開発や軍事のようなものであっても、すべての問題は最終的にお金に関係しているからだ。
僕が今の大学の経済学研究科に来て、最も大きな収穫は、これまで苦手だったこの経済の視点を得たことかもしれない。
Recently my routine work in morning is becoming reading and categorizing articles of newspaper. Because I want to catch the outline of the Earth, I am reading all articles of newspaper and put them into 10 files of big different categories. I prefer to read physical paper than electrical article.
The best way to understand the movement of the world is to watch economy and investment. All issues like technology, politics, development and even if military, relate money in the end.
It have been the best benefit for me that I got the perspective of economics when I came this economic department in the university.

●6月6日/6th,June
「誰が国を統治すべきかや、どんな外交政策を採用するべきかや、どういった経済的措置を取るべきかを知りたいとき、私たちは聖典に答えを探し求めない。ローマ教皇の命令に従うことも、ノーベル賞受賞者を集めてその意見に従うこともない。ほとんどの国では民主的な選挙を行ない、人々の当該の問題についての考えを問う。有権者がいちばんよく知っており、個々の人間の自由な選択が究極の政治的権威であると、私たちは信じている。」
(「ホモデウス」/ユヴァル・ノア・ハラリ)
もちろんハラリはこれを皮肉として述べているのだが、民主主義の枠の中で考えて生きている限りは、上の説明には何も矛盾が無さそうに思える。我々のまなざしの根底にある人間至上主義のフォーマットに気付かなければ、きっと疑問は抱かないだろう。このフォーマットは数世紀かけて巧みに私たちの無意識に刷り込まれていて、あらゆる分野の下敷きになっている。
この下敷きがある以上は、世界は大勢が下した判断の方向に進んでいく。たとえそれが誤りであったとしても、止めることが出来ない。あるいは「大勢」というクラスターが成り立たなくなると、いよいよ引き裂かれるのだろうか。日々のニュースにそんなことを強く意識させられる。

●6月8日/8th,June
本日は経済学研究科の社会人大学院の講義。「地域デザイン論」というタイトルだが、もっと枠組みを拡げて”人はどこから来て、どこへ向かうのか?”を考える内容を7年ぐらい話し続けている。
なぜ今の世界はこんな風景になったのか、これから私たちはどこへ向かうのかを、「風景と想像力」、「移動とモビリティ」、「芸術とデザイン」という3つの補助線を頼りに、人類の起源から、今の文明までを12回ぐらいで話す。
本日はあまり時間がないのでかいつまみながら、前半は大学院とは何を学ばねばならないのかをINTRODUCTIONとして話して、後半はORIGINEと題して、人類や文明の起源について話す。
1トピックで大体4つの話をするが、ORIGINEでは「移動する人類と風景」「シャーマニズムのまなざし」「聖地のデザイン」「環境創造の起源」の4つ。主に人類学や宗教学に寄せた話をする。
経済学研究科の思考は、短期的な時間軸になりがち。特に今のような情報化と流動化の社会では、投資して3分後のリターンを考えてしまう狭い視野になる。
だからこそ特に大学院のような場所では、日々の判断や目的を一旦留保して、高所、大所から長尺でモノを見る必要がある。
今の我々が信じている価値観など、たかだかこの150年ぐらいのことで、それ以前は全く違う価値観があった。
FXとか、利回りとか、投資効率とか、活性化とかのモードで考えていると、出てこないような問いや解答を考える時間を提供できれば幸い。
需要があるかどうかは分からないけど、この講義は今年、外向けのセミナーとして定期的にどこかの都市でやっても良いなと考えている。

●6月8日/8th,June
若い学生を見ていると心配になる。新聞やニュースの情報が世界の全てではない。その情報の裏側を読み解く頭脳を鍛えねばならないのに、情動的に分かりやすいことだけに反応する態度になりがちだ。正義感が強く、弱者を助けたいという心根があればあるほど、頭が明晰でなければ道を間違えてしまう罠にハマる。
心根が良いことは人として生きていく上で最も重要なことだし、そうでなければ意味がない。しかしその上で、複雑に悪意が仕掛けられ巧みに隠されている時代に必要なのは、本当の意味で賢く物事を見抜く力だ。
心根が良いだけでは、ダマされる側に回るだけでなく、場合によっては知らない間にダマす側に加担していることにも気づけない。
拙著の第3章、マジシャンが我々のまなざしをデザインする方法のあたりでも少しだけ触れたが、不自然なことは一見、自然なように見えるし、悪意は善意を装って仕掛けられるし、危険なことは安全なフリをして近づいてくる。
弱者救済を装ったサブプライムローンが裏では金融商品に化けてボロ儲けしていたことなど氷山の一角で、今の経済や政治の仕組みそのものが、見えにくいように複雑に仕組まれている。そしてその原動力に我々の善意が巧みに利用され、もっともらしく正当化される構造が少なからずある。もちろん、そこに明確な悪意などなく、誰にも仕組まれていなくても、結果として全員で陥っていくことも多い。
社会はどんどん複雑になり、情報が断片的にしか見えなくなると、人は全体像を把握することを諦めてしまう。そうすると、即物的な利益や感情的な情報が判断の中心や基準になり、ますます裏側を読もうとしなくなる。
一見とても優しく、正当性があり、自然なように見えるものこそ、本当は目を見開いてまなざしを向けねばならない。だが感情の罠にハマると、ミイラ取りはすぐにミイラになる。
仕掛けてくる連中は、とても頭のいい連中なので、我々の感情を操ることなど容易くやってのける。だから我々の方が頭良く裏側に潜む意図やカラクリを見抜かねばならない。そのためにはまず自分がワナに陥っているかもしれないと謙虚に真摯に認めることから始まる。
まなざしのデザインとか言いながら、あちこちで話すのは、そのことを見抜くための前提条件を作るためだ。講演でわざと感情を煽るパフォーマンスをするのは、まずはどんな人でも聞ける体制を作るためだが、どうもそこだけを表面的に捉えて終わる人は最後まで本を読まない傾向がある。
むしろ僕のことなど知らずに、本から入ってしっかり読んだ人の方が、感情に引っかからない分、理解や思考が深いようだ。そういう人の方が的確な書評を書いてくれることが多い。
若い学生を嘆いたが、まだ素直に話を聞ける分、可能性はある。素直ささえあれば、頭脳は鍛えていけるからだ。ただ頭脳が向上すると、今度は心根が悪くなる方向へ進むワナに気をつけねばならないが...。
しかし学生よりも危ないのは、自分は大丈夫だと思っている”経験豊富”で”モノを知っている“大人たちの方だ。逆さまになった社会で自分のモノの見方を信じて疑わない態度を続けると、今度はそれを正当化する方向に世界を見るようになる。それを外す方がやっかいだ。

●6月11日/11th,June
米中貿易戦争とAIに世界が翻弄される中、気候変動問題が置き去りにされるか、新たな商売のネタとして定着しつつある。昨今のESG投資やイノベーションも含めて、この30年ほどで確立した「環境より商売」あるいは「問題をビジネスに」というアティテュードの帰結としては当然か。
『1992年、リオの地球サミットで署名された国連気候変動枠組条約にも、「気候変動に対処するためにとられる措置は、国際貿易に対する...制限の隠れみのとなるべきではない」と明記されてる。オーストラリアの政治学者ロビン・エッカースレイはこのことを「気候レジームと貿易レジームの関係の形を決めた決定的瞬間」だったと表現する。なぜなら、「気候レジームの当事者たちは...国際貿易のルールを修正して気候を守るのに必要な諸条件に合致させるのではなく...自由化されて貿易と拡大しつづけるグローバル経済を、貿易を制限する気候変動対策から守ることを保証したからである。』(「これがすべてを変える」ナオミ・クライン)

●6月12日/12th,June
全ての苦しみ(問題)がシステムやテクノロジーで解決出来るというまなざしの元、我々はこれまで「進歩」や「発展」と呼ばれる道を辿ってきたかも知れない。
しかし、そもそも人は苦しみの本質を理解していないので、未だにそのまなざしに導かれる社会はますますおかしな方向に向かっている。
苦しみとは、その正体を理解して手放すものであり、別の苦しみで置き換えて一時的に解放されても、根元は解決はしない。
We may have followed a path called "progress" or "development ", with the view that all suffering can be solved with systems and technologies.
However, since people do not understand the nature of suffering in the first place, today's society is increasingly still going in a dangerous direction as it looks.
Suffering is to understand and let go of its true process , and replacing it with another suffering for temporary freedom can not solve it deeply.

●6月15日/15th,June
昨日から、熊野、吉野、高野山の聖地三密のランドスケープの調査に来ている。今回は僕の風水の先生である建国大学の金基徳教授と一緒に調査に入り三つの聖地を風水から分析する。
これまでは理論として研究室でディスカッションしていたのみだったが、今回からはフィールドワーク。昨日からは熊野那智大社に上がり現場にて地形の読み解きをする。
那智のあとは午前中に熊野速玉大社、神倉神社へ訪れ、午後からは本宮町は移動して大斎原と熊野本宮を分析した。熊野は大雨だったが、実は聖地を読み解くのは天候が悪い方が良い。
古典的な風水羅盤だけでなく、GPSなども使いながら地形、山勢、方位などから分析。主山、前山、左右の地形から陰陽のバランスを読み解くが、最も重要なのは中庸つまりニュートラルポイントがどこかを同定することだ。これが分かれば、元々の聖地がどこだったのかがピンポイントで分かるので、聖地の発展とデザインのプロセスが読み解けるはずだ。
そうやって色々と分析しているとかなり面白いことが分かってきた。宗教学で言われているような話とはまた違う視点からの分析なので、これまでまるで注目していなかったような要素が気になり始める。夜には吉野に入り、明日は吉野の調査を行う。

●6月16日/16th,June
熊野本宮から吉野へ移動。金峯山寺の朝の勤行からスタート。大峯修験は密教をベースにした読経だが、途中で祝詞のような節になるのが興味深い。法話で聞いた蔵王権現の話などを金基徳先生に説明する。
金峯神社からスタートして、吉野水分神社、如意輪寺、金峯山寺とそれぞれ風水の観点から地勢を見ていく。
熊野の神社から共通して見えてくるのは、回ったメジャーな寺社は概して右側の地勢に比べて左側の地勢が弱いこと。
観光地としては成功しているが、高僧など学識の高い人物が概して出にくいという指摘には考えさせられる。
興味深かったのは、修験道の寺社の立地について、ことごとくニュートラルポイントをわざと外して、不安定な所に置かれていること。わざと厳しい状況に追い込むことで生命力を高めようとする修験道の性格を考えると、理にかなった立地選定。
修験道のそんな性格の事は一言も事前に伝えてはいないが、風水的にその結論が導き出されたことに、逆に役小角の能力を感じる。
地形の読み方は相対的なので、フィールドワークが非常に重要だと改めて認識する。風水羅盤の理論的な所は概ね理解したが、使いこなすにはまだ訓練が必要。
ラストの明日の高野山で少し訓練したい。
夜には、周易の理論で、生年月日から風水的に自分の性格と運勢を弾いてもらったが、的確すぎる結果に恐れおののく。前々から万物の法則を最も正確に捉えた理論は易ではないかと思っていたが、これほどまでとは。

●6月22日/22nd,June
本日は経済学研究科の社会人大学院の講義。風景進化論の第2回と第3回。前回は「ORIGINE」ということで、人類はどこからやってきたのかを考えた。
今日の前半の「PERSPECTIVE」では、気候風土がいかにして我々のまなざしを作ってきたのかを、和辻哲郎の「風土」を補助線に話す。その中で、和辻があまり言及していない海洋民族について、フラーの観点から色々と話す。
昨日は植島啓司先生と話をしていたこともあり、日本人のルーツが太平洋起源にある可能性についても触れた。
水曜日の日経に、国立博物館が、台湾から与那国島まで丸木舟で航海する検証を今月末に行う記事があったので、それも紹介しつつ、太平洋からマダガスカルまで広がるオーストロネシア語圏と、出台湾説などについても考えてみる。
加えて聖地巡礼の話、庭のコスモロジーの事例をあげながら中世頃までの世界では、人々が持っていたまなざしをが気候風土にかなり依存していることを確認する。
後半の「LANDSCAPE」では、14世紀ルネサンスと15世紀からの大航海時代が、17世紀以降の近代的認識をいかに準備したのかを解説。絵画の主題が、神や人間から自然へ移ったのが17世紀。これまで美の対象として見向きもしなかった自然に対して、まなざしが向けられたのは、自然を客体化して「風景」として観るまなざしが生まれたと言える。
デカルトの言う主格二元論的な認識がこのころ生まれたことを意味するが、それが科学革命だけでなく我々の中に客観という認識を産んだことを確認する。
同時にこの17世紀に、銀行券が現れて金融が本格化していったことも、その認識と無縁ではないことを「脱出のまなざし」という観点から説明する。
客観的に自然を眺める構図から生まれたピクチャレスクやサブライムという概念が、実は今の”インスタ映え”という現象にまで連続していることを論じてみた。
この講義は内容がかなり多岐に渡り、また凝縮しているので、聴いている方はついてくるのが大変かと思う。しかし歴史というのは同じパターンが繰り返されるということを知ってもらうためには、通史を縦に鷲掴みしてもらう必要がある。

●6月25日/25th,June
学部の傾向なのか、今時の傾向なのか、何度聞いてもゼミ生たちから、やりたいこととか、知りたいことが出てこない。
よし分かった。特定の何かに関心ないなら、どんな対象でもマネジメント出来るようになることを目指しなさい。そのためには広く世界の物事を知って、今は答えのない問題に対して、自ら問いを立てて目標を設定できる能力が必要。そうでないとあっという間にAIに仕事奪われるよとハッパをかける。
関心の種を育てるために先週のゼミで日経新聞を配り、その中から自分が気になる記事をピックアップしてもらった。
その記事を発表してもらい、選んできた記事に応じて学生一人一人に違う宿題を「問い」の形で出した。
「ポピュリズムとはどういう現象で、それが投票や政治とどう関係するのか?」
「昨今の世界の情報や技術革新で、物流システムがどのように変わろうとしているのか?」
「サイバーセキュリティについて世界で今、何が議論され、どこまで整備が進んでいるのか?」
「顔認証システムはどういう技術に依拠し、どこまで社会に実装され、どんな可能性と問題をはらんでいるのか?」
「事件における刑罰はどのようなプロセスで決まり、刑を免れる例外はなぜ起こるのか?」
「独立したがる国がどれくらい各地にあり、なぜ望むのか、そしてなぜ当局は独立させたくないのか?」
「再生エネルギーと地産地消と経済との関係は今、どんな議論がなされているのか?」
「発展途上国でのインフラ整備はどのような現状になっていて、これからどうなっていくのか?」
真面目に取り組むのは良いところなので、それぞれに応じた問いを与えると、ようやく少しずつ好奇心が開いてきたようだ。うまく育てていきたい。

●6月27日/27th,June
福島猪苗代のはじまりの美術館さんで7月7日まで行われている展覧会、「あしたときのうのまんなかで」の作家紹介をしていただきました。
ハナムラは「半透明の福島」という新作で参加しております。会期終了までのラストスパートですが、谷川俊太郎さんやクワクボリョウタさんはじめ、素晴らしい作家の皆さんの作品が展示されておりますので、是非足をお運びくださいませ。
【まんなか展】出展作家紹介⑧ ハナムラ チカヒロ
 出展作家紹介 8人目はハナムラ チカヒロさんです。
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ハナムラ チカヒロ
HANAMURA Chikahiro
1976年大阪府生まれ・兵庫県在住
《Translucent Fukushima/半透明の福島》 2019年 ミクストメディア
 ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ/TranScape」という独自の理論や領域横断的な科学研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュース、世界各地の聖地のランドスケープのフィールドワーク、市街地の集団パフォーマンスなど領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。主な展覧会に「地球の告白」(2018/千葉市美術館/千葉)、受賞歴に「霧はれて光きたる春」にて日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞。主な著書に『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法」(2017年、NTT出版)。
 
みなさんが展示室を進むに連れ、白い「何か」が視界に入ってきたのではないでしょうか。「半透明の福島」と名付けられたこの作品は、この空間全体が作品で、さらに、このはじまりの美術館のためだけに作られた作品です。
この作品は、あなたが作者のハナムラの言葉を聞き、あなたが育った場所にピンを刺し、そしてその白い世界に迷い込むことからはじまります。霧のような、モヤのような。見えそうで、見えない世界。この先、人や物にぶつからないように、ゆっくりじっくり、どうぞお気をつけてお進みください。さらにこの半透明の世界をすすむと、「なにか」があります。そこから先はどうぞお一人で。まずは一つ目のヘッドホンを手に取り、作者の言葉を聞いてみましょう。 
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企画展「あした と きのう の まんなかで」7月7日まで開催!
http://hajimari-ac.com/enjoy/exhibition/mannaka.php
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撮影:はま田 あつ美(Rim-Rim)

●6月29日/29th,June
能勢伊勢雄さんのお話を聞きに岡山へ。本日は福島から医師でトラウマやエピジェネティクスのご研究をされておられる中山孔壹先生もお越しになられ、ディスカッションも大いに弾む。中山先生は那須の「山のシューレ」で僕の登壇した年の翌年あたりに能勢さんと安田登先生と鼎談された方。以前より僕のこともご存知のようで、拙著「まなざしのデザイン」も読みましたとのご挨拶のご連絡をたまたま本日頂いたところだった。その直後にまさかお会い出来るとは思いもせず、偶然の邂逅に驚く。
今日は骨学を中心にゲーテ形態学とダンスとの関係を紐解いて頂いた。人間の骨がなぜあのような形をしているのか。頭蓋骨の中と全身の骨はどのように相似形になっているのか。人体の可動部分と不動部分がクラドニ図形とどのような関係になっているのか。こういった骨学と形態から見た人体の構造を解説いただく。
そういう文脈を踏まえて、手の自由度を中心としたモダンダンスがどのように成立してきたのかを、ロイ・フラーの「蛇の踊り」からイザドラ・ダンカン、オスカー・シュレンマー、クルト・ヨース、マーサ・グラハム、マーク・カニングハム、ピナ・バウシュそしてダムタイプまで、武蔵美のパフォーマンス映像アーカイブから確認する。丁度先日、アシヤアートプロジェクトでご一緒している岡登志子さんが演じられたクルト・ヨース「緑のテーブル」を拝見した所なので、一層理解が深まる。
再び解剖学の話に戻り、胎児の内耳にある時期に関節が形成されることの意味を読み解いたり、三木成夫の話などにも触れ、最後は土方巽の舞踏とは一体何であったのかで締めくくられた。
いつものように膨大な情報量と非常に刺激的な話で頭の整理が大変だったが、形態場の話との関係についていくつか質問させてもらった。
能勢さんから毎回本当に多くの大切なことを教わる。しかしそれをちゃんと自分の腑に落とし消化するには、まだまだ自分は未熟で、アップデートせねばならない。近代で一度リセットされてしまった膨大な知の体系をどのようにして現代的な言葉で語り直せるのかは大きな課題だが、僕も微力ながらこうして教わったことを、少しでも自分の言葉で語れるようになりたいと想う。心より感謝

●6月30日/30th,June
京都伝統文化の森推進協議会の「森とアートとモノづくり」のシンポジウム終了。
鎌田東二先生のコーディネートの元で、第1部の発表を受けて、僕自身はコメンテーターとして登壇。今回は自分のプレゼンなし、パソコンなしの徒手空拳なので、観客の皆さんは僕がどういう立場で何を話すのかはご存知ない。
鎌田先生らしく、事前の打ち合わせはゼロでいきなりコメントを求めるスタイルだが、僕にとっては反射神経鍛える良い場。何も準備せずにその場で出てきたことだけを使ってコメントする。
冒頭の吉岡先生の哲学から「森とアート」を読み解く話は非常に面白く拝聴した。アートとはいかなるものであるのかをカントから引っ張り、森とはどういうものなのかをハイデガーから持ってくるのに刺激を受ける。
僕では舌足らずだがシンプルにまとめると、アートとは有用性を外に持たず美そのものを目指す「目的なき合目的性」を持ち、森とは迷うことを前提とした「到達不能性」の象徴であるという意見。僕自身も自著で一部展開している内容なので、完全に同意する。
一方で、こうした観念的な話に観客が置き去りにされているだろう感と、その次に登壇した家具作家や藍染作家の話が余りに具体的な取り組みだったので、そのギャップが大きい。
おそらく鎌田先生が僕に期待しているのはその乖離を埋める役割だろうと思ったので、第2部の僕のコメントの中で少していねい目に観念と具体例の両者の橋渡しをしていく。
その上で僕自身が今日、自らのメッセージとして差し込みたかったのは、森と人との間に必然性をもった現代的な新しいライフスタイルを持ち込まないと、きっと森と人との関係はうまくいかないだろうということ。
こうした議論は、やもすれば森をノスタルジーで捉えるか、あるいは森を資源活用という観点だけから見てしまいがちだ。だから逆に人が森に何を与えることが出来るのか、という反対からまなざしを向けることが重要だ。それを怠ると根本的な間違いを犯すかもしれない。
“森は人に恵みを与えてくれるが、人は森に恵みを与えているのだろうか”。僕らは森の恵みに甘んじて生きるだけでなく、森にどういう恩返しが出来るのかという観点がなければ、単なる搾取の場になる。
かつては自然の生態系の中に人の営みの生態系が組み込まれていたが、それが断ち切れた現代社会で、そうした森と人とがフェアになる「共生のまなざし」を持ち込まないとうまくいかない。
では具体的に何が必要なのかについて、「感謝」と「魔力」という二つの視点から整理して投げかけておいた。その視点に基づき産業や芸術が森の生態系にどのように組み込まれるのか。そうした問いを投げたが、聴衆の皆さんのメモの取り方を見ていると、ある一定、響いていることを感じた。
登壇者から京都伝統文化の森の外部アドバイザーになって欲しいと壇上で言われて焦ったが、資本主義の誘惑と戦う覚悟があるのならば、僕のようなアウトサイダーにも何かアドバイス出来ることがあるかもしれない。
いつものごとく鎌田先生の法螺貝で幕が終了し、京都を後にする。
本当は今日の吉岡先生の「森の到達不能性」について、個人的には掘り下げたかったが、別の機会だな。



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