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「争わない生き方」(2021年3月)

●3月1日/1st Mar
朝の別府。人口11万人で年間800万人の観光客を支えてきたが、この状況下では経営が厳しい。話を聞くとこのホテルも土日祝しか営業していないそうだ。別府の場合は、この10年ほどの観光バブルに乗ったというわけではないので、少々事情は違うのだと思う。
アートプロジェクトの調査で一箇所だけ寄って、別府を後に宇佐の方へ移動する。

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●3月1日/1st Mar 02
朝の別府。人口11万調査2日目は、昨日に一つだけ確認できてなかった「梅田哲也in別府」の作品からスタート。別府の温泉街の鉄輪地区にあるこの作品だけが、唯一モノを使ったインスタレーションになっている。
この映像の最後に出てくるが、宙に浮く卵は、吹き出す蒸気をうまく使って現象を見せている秀逸な作品だと感じる。この後から、本格的に国東の聖地の調査に向かう。
20210301
09:30
Kannawa
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●3月1日/1st Mar 03
別府から宇佐へ移動する途中で、佐田に立ち寄り、気になっていた巨石を調査する。佐田京石と呼ばれる環状列石で、明らかに石の配列にある方向性がある。この映像を撮影した数分後に列石の流れの先に、あるものを発見する。
何やら岩にはペトログラフが彫られていたらしく、弥生文化の遺構ではないかと。この巨石を麓に抱くのも米神山であり、これらもかつては「こしき石」と呼ばれていたらしく、米と関係するのは間違いなさそうだ。
米神山にもこの後、登ってみたが、頂上にも小さい環状列石を発見した。そこで一匹の蛾と出会う。映像の冒頭にも鳥の警告があったが、聖地の周辺は他の生命とのコミュニケーションが活発になる。
20210301
11:30
Beppu
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●3月1日/1st Mar 04
米神山に登る。佐田京石から登れば70分の登山道になるので、反対側の徳瀬入口から登るが、道が全くない山道を登ることに。
和歌山のホコジマという誰も知らない聖地に訪れた時以来の急斜面。あの時も裏側から登ってしまったが、そんな時は普通ではない風景に出会うことが多い。
グループページにアップしている映像の方では、登るプロセスをもう少し細かくメモしているが、だんだんへばってきている。もう歳か。
20210301
12:25
Sada/Komekamiyama 
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●3月1日/1st Mar 05
米神山の山頂のストーンサークルで、一匹の蛾と会話してみる。吹き抜ける風が心地よい。聖地では一回限りしか起こらないことに意味がある。この日この時間にここでしか出会えない生命との邂逅から学ぶことは大きい。
そして苦労して山を登るプロセスを経て、ようやく聖地の意味が理解できることがある。意識の変容と聖性というのはセットで、その変容のプロセスを飛ばしても意味がないのではないか。
20210301
13:15
Sada/Komekamiyama 
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●3月2日/2nd Mar
調査3日目は、午前に熊野磨崖仏を確認して、午後は今回の調査のメインとなる猪群山頂の環状列石を観に行く。結局2日間で4つの山に登ることになった。
電波環境が良くないので、グループページにもアップ出来ていないが、山頂のストーンサークルはこれまでの日本の聖地調査の中でも別格だった。
この映像の時はまだ麓なので、上がどうなっているかは知らない。看板にあるようにこの場所とゾロアスター教との関係を指摘する研究者がいるということにも驚くが、原始的な信仰や祭祀の形態があるのは間違いない。
結局2時間ぐらいかけて色々と歩き回り調査して、イギリスのストーンヘンジと近しい特徴を発見したりする。方位の確認などをする。
聖地調査の醍醐味は、写真や映像、文献では伝わらない身体情報にある。今回は場自体が明らかに違う空気があり、いくつかの岩では感覚の変容も感じた。ここはまた来ねばならない場所になりそうだ。
20210302
11:55
Inomuresan 
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●3月2日/2nd Mar 02
国東の聖地のフィールドワークを終えて戻る。コロナ禍でずっと調査を控えていたので、今回の調査旅行は結構色々と詰め込んだが、その分、収穫は大きかった。特にストーンサークルのランドスケープは、これまでの聖地調査が要約されていたようだった。写真だけでも場の力を感じられるかもしれない。
結局二日間で四峰登り、足が筋肉痛と関節の疲労でずっと笑っている状態なので、明日からの日常には響きそうだ。だが、本当は自然の中に身を投じて身体を使うこちらの方が健全であり、頭ばかり使う都市の中の日常の方がおかしな状況になっているのではないか。
調査前に「戦争」についての論考をシェアしたが、都市に戻ると情報戦争にまた引き戻される。今や戦争は情報の中であり、情報が戦争を引き起こしている。我々は、情報に怯え、情報に喜び、情報に救いを求める。だが、その情報は本当に大切な情報なのだろうか。そこに智恵があるのだろうか。
聖地では全く違う情報が入ってくる。それは生命についての情報であり、自己についての情報だ。それを受け取るためには、日常の情報を一度抜かないといけない。我々の頭の中はいつも余計な情報で満たされている。それを禊ぐために、巡礼があるとさえ言えるだろう。情報を禊がねば智恵はやってこない。
聖地、文明、情報、自己、そして戦争。これらの話は無関係ではなく本当は連続している。それが全く無関係に見えるのは、我々の方に関係づける視点がないからだ。だから、多くの人は聖地の投稿には反応するが、戦争の投稿には反応しない。心地よさそうな情報に反応するが、ネガティブな情報は無かったことにする。その方が安全だからだ。
我々は見たい情報を見たいように取り込むことで、自分で自分を騙している。そして都合よく見せたい情報を、まるで相手が見たい情報であるかのように演出するのが、今の情報文明だ。自らが見たいものだけを見る世界の反対側に聖地は位置する。自分の見たくなかった自分と向き合う場所なのだ。
ポジティブな情報は、望んでいるが故に騙されていることにも気づかない。その積み重ねが今の文明を生み出している。だが、そのごく当たり前だと思っていて疑いもしないようなささいな日常が、自然法則から見るといかに狂っているのか。その判断が出来なくなっている我々の感覚を聖地は相対化する。
我々の日常は情報に翻弄されている。だが、情報が大切なのではなく、何をどのような情報とするのかという見方が大切だ。日常の外側から情報を見つめねばならない。それに気づくと、情報から自由になれるのだと思う。
だから、しつこいようだがもう一度、戦争についての論考をシェアしておきたい。最後まで読んでもらえると分かるが、これは「戦争」についての論考ではなく、「平和」についての論考なのだ。真の平和について考える人が増えることを願って聖地から祈りを捧げる。響けば是非シェアされたし。
https://wirelesswire.jp/2021/02/78903/
戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち(後編)陰謀論の陰で陰謀は進む

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●3月4日/4th Mar 
旅から戻って研究室の整理。歳のせいで目が疲れやすく、外部モニターを導入することにした。そのためレイアウトを変更したが、かなり効率よく仕事出来そうな感じになった。講義がないこの期間に20年ぐらいの資料整理を進めたい。
資料の整理は思考の整理でもある。包括的に生命表象を捉えるために、自然科学、社会科学、人間科学をテーマごとに120の細目で整理するファイルシステムにしている。フラーのクロノファイルを参考にして包括的に把握する。
僕の場合は、学生時代からの自分の思考メモやスケッチもほぼ全て残している。それらをいよいよ整理する段階かもしれない。フィールドワークに行く回数が減る分、ラボワークを充実させればと。

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●3月7日/7th Mar
なぜか最近気になっている二人、勝新太郎とマイケル・ジャクソンの共通性について、グルジェフの理論を補助線に密かに考察している。他にしないといけないことだらけなので、そんなことしている余裕はないのは分かっているが、二人の考察していると、そもそもしないといけないことって何よ?って気分になってくる。

●3月8日/8th Mar
「戦争は、私たちの内側からやってくる。私たちに必要なのは、外にバリアを築くことではない。心の内側からやってくる脅威に対してバリアを築くことである。気を抜けばすぐに戦争状態になる私たちの心に常にまなざしを向けて、見張っておかなければならない。外部の条件によって得られる平和ではなく、自分自身で内側に平和を生み出せるようになること。どんな状況であっても、その時、その場で安全に穏やかでいられること。それはとても難しいが、本当の意味で私たちの心の中が平和であるからこそ、私たちは戦争を放棄することができるのである。」
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戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち(後編)陰謀論の陰で陰謀は進む

●3月9日/9th Mar
この週末は少し訳あって、大阪の民泊とゲストハウスについて調べていた。条例で特化民泊して大阪は、日本で最も民泊数が多く1万件を越えていたが、この一年で廃止届を出した民泊が3000件を越え、その約半数が実際に廃止している。
大阪メトロも20億で購入した民泊用の建物を売却しているが、状況は厳しいのだろう。インバウンドが98.3%も下がっているのだから当然と言えば当然だが。それでもまだ9500件程度は大阪に民泊として登録している場所があるようで、飽和状態になっている。

●3月9日/9th Mar 02
全く同じ言葉を呟いたとしても、話している人物がどういう存在なのかによって、まるで意味が変わってしまう。
それまで何を軸にどんな生き方をしてきて、言葉を放つ時にどういうマインドとハートを持っていて、どういう身体の状態なのか。それら全てが言葉の意味を決める。
それによって、一言一句同じ言葉であったとしても、全く正反対の意味を持つこともある。だから言葉だけを取り上げても意味はないのだ。

●3月9日/9th Mar 03
全く同じ言葉を呟いたとし最後の部分が言いたくて、その前を長く書いたのだが、多くの人はそこまで辿りつかず、途中で嫌になって読むのをやめる。今の時代、長い文章を読む胆力がもうないのだろうか。若い人は特にそうかもしれない。彼ら彼女らがこれから最も当事者になるかもしれないのに、協力してくれる人が少なく、届かないのが歯痒い。
ただ、単純に平和論を唱えるならば、最後の部分だけで良いのだろう。だけど、戦争を表面的に捉えている人の善意や正義感の方が危ない。だから敢えて聴きたくないようなことを書いたつもりだ。それでも、ここまで書いたとしても、やはり人は見たいようにしか見ないものだと理解している。しつこく呼びかけても、この世界では一向に届かないことは理解しつつも、どんどん危険になっている状況に、何かできることはないかと考えている。
イマジンを歌って問題が解決するならいいが、この世界は多くの善良な人々が考えているほど単純ではない。今取り組んでいる局所的な問題解決の前に、見つめるべきことがあるはずだが、人はやはり目の前のことで精一杯だ。しかしそれこそが実は最も盲点になっているかもしれない。何も見ようとせずに、薄っぺらい平和論に絡め取られる人が増えるほど、世界は危険になることは、聴きたくなくても知っておくべきだと思う。その上で、もう一度イマジンを歌えばいいのだ。

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戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち(後編)陰謀論の陰で陰謀は進む

●3月10日/10th Mar
誰かと競争することの苦手意識は小さなころからずっと持っている。自分はまだ、比較的何でも器用にこなしてきた方なので、それなりに成果は出せたのだが、そもそも勝ち負けがつくことや、優劣が決められること自体が苦痛で仕方がなかった。それは今でも変わらないので、競争ごとには出来るだけ巻き込まれないようにしている。
だから、競争を求められる社会は大変生き苦しいのだが、今の社会がどうにもやり切れないのは、競争が優しさや包摂でコーティングされていることだ。あからさまな敵意や競争心は表向きには批判される社会だ。そこでは、敵意を剥き出さず、弱さに寄り添うように搾取を正当化する方法、ジェントルに優しく相手を沈める方法が先鋭化される。その結果、最も優しそうに見える者が、最も利を得る構図が生まれている。
その構図は見事に盲点になっていて、周りは無論、利を得ている当人も良いことをしていると思いこんでいるので、気づくことはない。無自覚な者は時に、自覚的な者よりも根深い問題を引き起こすことがある。このコロナ騒動を経て、以前に比べて、そんなことを理解し始めた人が増えていることを願うのみ。

●3月12日/12th Mar
久しぶりに大学の恩師と会って少し話した。もう御歳70歳になられようとしているが、未だに頭がシャープでバイタリティに溢れ、まだ新たに活動されようとしておられる。思えば自分は今の70代ぐらいの方々から最も多くを学んでいるような気がする。
今、この20年ぐらいの資料の整理をしながら、自分の活動の反芻と総括になっているが、人生は大体20年ぐらいの区切りで方向性を見定めるのが丁度良いかもしれない。シュタイナーのように7年区切りで考えれば21年か。
物心ついてから25歳ぐらいまでの20年で一つの区切り、社会に出てから45歳ぐらいまでで前半の区切り。65歳の定年時期にあたるぐらいで後半の区切り。そして85歳前後の終盤で一つの区切りと、長く生きても4回総括したら人生は終わる。
人の一生などあっという間であり、積み残したことは次の生へと持ち越される。次の生を迎えたくない自分としては、生きている間に本当になすべきことに後半はフォーカスしていくべきだが。

●3月12日/12th Mar 02
もう何度もシェアしているが、後々色んなことが問題になってくると思うので、後悔する前に老婆心ながらしつこくシェアする。前編、後編の両方を全部読めば分かると思うが、我々が考えているほど状況は安全ではないのだと。我々がまなざしを向けるもの、その向け方は、意識していないと巧みに外からデザインされてしまう。この一年、我々は一体何を見せられているのか。
こうした文章を書くことは、個人的には様々なリスクを犯している。それでも敢えて言葉にしているのは、意識が薄い人が多い現状が危ないと思っているからだ。情報ではなく見方を知る人が増えればと願っているが、自分でシェアするには限界がある。いくつかの特定のキーワードはもはやアルゴリズムが弾いてしまう。
声高に叫ぶ必要はないが、大勢が考え始めれば安全性は高まると思う。だからもしお読みになり、感じるところある方は、「コメント欄のリンク」を是非シェアするご協力お願いします。自分なりの言葉を添えて頂ければ、より伝わるのではないかと思います。
「おそらくこれからの戦争は、ますます目に見えないものになっていくだろう。戦争は、殺傷兵器の撃ち合いから、サイバー戦や平時の情報操作へと移行しており、次に向かう先は私たちの身体そのものである。それは、分かりやすい形の戦争として展開されることはなく、私たちの日常生活に便利な形で入り込んでくる。既に、私たちが普通に使用するものや身に付けるものの中に、ひっそりと戦争の道具が潜んでいる可能性がある。
スマホのようなデバイス、SNSサービス、顔認証アプリなどを通じて、私たちの個人情報は見えない形で管理されている。土地や企業の買収、民営化されるインフラなどは、合法的な形で他国が入り込む入り口となる。映像やゲーム、芸能や文化などのコンテンツの形を借りた一見安全そうに見える方法でも、私たちのまなざしは特定の方向へ導かれている可能性が否めない。
よりダイレクトには、食品や医薬品の形で私たちの身体へ入り込む。もう随分と前から問題になっている、食品に混入している、あるいは添加されているさまざまな化学物質の危険性だけではない。医療産業はサイバー産業と組み合わせられ、私たちの身体情報を数値化しビッグデータとして蓄積しているが、それらも戦争の道具になりうる。既にヘルスケア・アプリのような形で、私たちの健康の管理権は徐々に移行されつつある。それをより進めるならば、皮膚の下から私たちをモニタリングし、何か問題があれば外部から直接管理するという流れになるだろう。」
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戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち
前編 味方もまた嘘をつく
後編 陰謀論の陰で陰謀は進む

●3月15日/15th Mar
最終ゼミ
この土曜日はハナムラゼミの学生と最後のゼミ。学生たちはすでに卒業論文を書き終えたので、卒論指導ではない。人生において大事なことを伝えたいと思い、学校の枠組みとは別で、山小屋で一泊しながら夜通し話をする。
一緒に料理を作り、寝泊まりしながらのゼミだが、学生たちからプレゼントとメッセージを頂いた。こっそりと用意してくれたサプライズなので、全く想定していなかった。こんなことはこれまでなく、嬉しすぎて普段ないはしゃぎ様だったようだ。
彼ら彼女らはマネジメント学類の枠組みで教える、僕にとっての最初で最後の学部生たちだ。専門性の追求よりも、必要な柔軟な思考力と分析力、論理的な組立能力を培いどんな対象でもマネジメントできる方法をこれまでは伝えてきた。
だが、この最終ゼミでは自己についての哲学の必要性を話す。彼ら彼女らは、来月からはもう会社に入り、社会の中で働いていく。時代はどんどん厳しくなり、これまでにないストレスを覚えるだろう。そんな中で、大切なことを見失わないために、自らのアイデンティティにおけるメタノイアが必要になる。
結局、何人かの学生とは朝の6時まで話をしたが、これまでの自己に対する捉え方、これからの向き合い方について腑に落ち始めたような感じが見受けられた。
大人であっても、アイデンティティを拗らせている人は山ほどいる。自分が今、どういう状態なのかを見つめれるようになることが、本当の意味で最も役に立つ。一生付き合っていかないといけないのは、友達や家族ではなく、自分自身だ。
しっかり自分を見つめて穏やかに生きて欲しい。それと同時に、誰かを助けようとする心を育てて欲しい。暖炉の火を眺めながら、そんなことをぽつりぽつりと話した。かつてアトリエでしていた私塾のように話した時間を思い出す。またいつか、どこかで会いましょう。

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 ●3月16日/16th Mar
学生との最終ゼミを終えて、そのまま岡山へ。岡山で30回続けられてきた文化芸術交流実験室に参加する。今回は岡山カルチャークロニクルとして、岡山の文化芸術のアーカイブの参考ということで、能勢伊勢雄さんによる「遊図」のレクチャー。
僕も思考の整理や生命表象学の表現にダイアグラム(概念図)をよく使うので、かねてより能勢さんの遊図の話を聞きたいと思っていた。コロナ前は月に一度は能勢伊勢雄さんに会いに岡山に来ていたので、久しぶりにお会いしたかった。
レクチャーは、てっきり遊図のメソッドの話だけかと思うと、ロジェ・カイヨワの話から始まり、冒頭から面食らう。そこからヴァールブルグのムネ・モシュネの話へと展開して、無関係に見える図象の間に立ち現れる「幽霊」の話へと。
これらを踏まえた上で、ようやく遊図へと差し掛かろうという時に、主催者からタイムアップで能勢さんの話が寸止めとなったのがとても残念。やはり能勢さんの話は、一回の講演で4時間ぐらいの時間を確保せねばならないと思う。
一つの主題に対して、その100倍ぐらいの背景があり、それらを連続的かつ包括的に語らねば、真の意味が分からないことがあるからだ。手っ取り早く何かのメソッドを身につけることが重視されがちな世相の中では、広く深く物事を捉えることは敬遠されてしまうのが残念だ。
その後、NPOアートファームの大森さんと、山陽新聞の岡田さんから岡山のアートシーンの歩みについて短い話がそれぞれあり、コーヒーブレイクを挟んでいよいよ遊図のワークショップ。
松岡正剛の編集工学のメソッドを一部取り入れながら、新書を読み解く。付箋を使って軸に沿って要素だけ抜き出して、類型化するが、ハナムラが持ってきたのは「秘密結社の日本史」というマニアックな本。
ワークショップの途中で、能勢さんに僕のシートが見つかってしまい、読み上げられて会場が騒然となってしまった。神風連や秩父困民党、玄洋社や黒竜会、ヤクザや天津教やゾルゲ諜報団、連合赤軍から楯の会まで付箋に書き出されていたので、そりゃ無理もない。ヤバい人だと思われたかもな...と、本のチョイスに内心やや後悔する。
終了後、フェノミナの皆さんや、お知り合いになったアーティストの金さんなどと一緒にいつものカフェ「シナジー」で、いつものごとく夜半までディスカッション。
講演で能勢さんが触れられていた、類似した形象が持つ類似した性質について、僕からはフレイザーの共感呪術の話で返したり、ヴァールブルグの「幽霊」に対して、アレグザンダーの「無名の質」で返したりと、楽しい時間。
特に芸術の持つ幽霊性については、自分の中で非常に気になっている。これまで自分は、自分の表現も含めて芸術表現を論理的に解体することで、より多くの人々が入口に立てる状況を作ろうとしてきた部分がある。
一方で、そうやって表現を捨象して意味に還元してしまうと、芸術の幽霊性が剥奪されてしまうという問題が残されている。それについては、自分の作品も含めてひとまず保留していたが、やはりその幽霊の部分を、そろそろしっかりと語る必要があるのかもしれないと改めて思う。
まなざしのデザインの文脈で語ってきた自分の表現に対して、幽霊性の文脈で語り直すようなアプローチを考えても良いのだが、それは聞き手を選ぶだろう。だから、おそらく自分で語るよりも、誰かにインタビューされて引き出された方が良いのだろうけど、生憎そういう人は現れないので、やはり自分で書くしかないのだろうか。
能勢さんのいる場で話すときは、一個人の作家としての自分の表現を、素直に朴訥に語ることが出来ているような気がする。そういう時は自分が何かを語り出すのではなく、自分が何かに語らされているのだと思う。そんな場に心より感謝。

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 ●3月18日/18th Mar
過去20年の資料整理を項目ごとにする日々。改めて見ると活動範囲が広すぎて整理に苦労するが、芝居関係だけでも膨大な量に。あちこちに散らばっていた、これまで出演したり関係した映画や舞台の台本だけでこんなに分厚くなってしまった。懐かしい台本も見つかる。ボロボロになるまで読み込んでたんだな。

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●3月19日/19th Mar
「経済のグローバリゼーション」「政治的民主主義」「国家主義」という三つの概念は互いに相容れず、常にこのうちの二つだけしか共存できない。
これはグローバリゼーショントリレンマと呼ばれる枠組みで、ハーバード大の経済学者ダニ・ロドリック教授は2010年代初めごろ、ナショナリズムとグローバリゼーションとの関係をこの枠組みで捉えた。
これはつまり、二つの要素の関係を良いものにしようとする場合に、かならずもう一つの要素が邪魔をする方向に働くという理屈だ。
例えば、民主主義と国家主義を両立させようとするとグローバリゼーションが邪魔をする。だが、民主主義とグローバリゼーションを両立させようとすると、国家主義は邪魔なものになる。国家主義とグローバリゼーションが両立する時には、民主主義は弱められてしまう。
コロナ後に世界がどの二つを選択するのかは分からないが、グローバリゼーションと国家主義という相反するように見える二つの両立が選択される時に、民主主義が弱められる方向に動くことは大いにあり得るだろう。

●3月20日/20th Mar
創造はよく自由と並べられるが、実は不自由とセットであることは意識されにくい。思い通りにいかず、不自由があるから何かを創造しようとするのであり、本当に自由であれば創造する必要性もモチベーションもなくなる。
人のみならずあらゆる生命は不自由である。苦しみがあるので、そこから逃れようとして何かを「創造してしまう」のであり、それは決して自由だから創造しているわけではない。
そのあたりが、デザインやイノベーション周りで語られる創造性の議論ですっぽりと見落とされているポイントではないかと。創造を良いこととしか捉えていないのだろう。

●3月22日/22th Mar
データ整理していたら懐かしい映像が出てきた。コソボの女優Maki(Makfire Miftari)さんと二人でしてみたエチュードの映像。何も決めずに即興で芝居してみたけど、かつての恋人との久々の再会で気まずい雰囲気という感じには仕上がったか。

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●3月23日/23th Mar
人間の尺度でモノを考えた時には決して理解できない真理があるのだな、ということが腑に落ちた夢を見た。我々が頭の中で想像することなど、所詮はこれまでの経験の範疇でしかない。経験していないことの方がこの宇宙には多いのに、全てを理解した気になるのは愚かなことなのだろう。
一年前に「ヒューマンスケールを超えて」という本を上梓したが、人間の偉大さではなく卑小さの方を見つめると謙虚にもなれるのではないか。

●3月25日/25th Mar
昨日は大阪府立大学の卒業式。マネジメント学類で教える最初で最後のハナムラゼミの学位記授与は屋外で行った。
一人一人の学生の名前を読み上げて学位記を渡し、僕からは一輪の花と贈答品、そしてこれまでの思い出の写真を入れてデザインした卒業論文の要旨集を渡す。
学生一人一人からは、これまでの学生生活と今後の抱負についてのスピーチを頂いた。概ね二年間、外書ゼミ参加の学生は二年半、僕とディスカッションを続けたが、飛躍的に成長した姿を喜ばしく感じる。
感極まって泣きだす学生もいたが、みんなしっかりと自分の言葉で考えを立派に表現できるようになった。学部の学生を直接育てるということはこれまで無かったが、親子ほど年の離れた学生の教育は希望に満ちている。
芝生の上で僕からの最後の言葉を贈る。生きるということは基本的には苦に満ちていることを理解すること。だからこそ自分の幸せだけでなく、社会の誰かを幸せにするように努めること。そして、いつか幸せになるのではなく、常に幸せであるようにいること。そして何か困ったことがあれば必ず相談に来るようにと、最後に伝えた。
学生からすると怖い先生だったようだが、このゼミで良かったと言ってもらえて、ほっとした。至らない先生だったかも知れないが、またみんなとどこかで会えることを楽しみにしている。

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●3月26日/26th Mar
あるアイドルのPVの監督の話を頂いて、めっちゃ面白い脚本書いたのだけど、スケジュール都合で今回は流れた。密室での男女の会話劇で5分ぐらいの尺。別でも使えるアイデアなので、今回は残念だが暖めておくことにする。
脚本のこともあり、改めてフロイト先生を読み返していたが、ブッダの考察が腑に落ちた今、改めて読むと、色々と違う角度からの発見が多い。

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●3月28日/28th Mar
3月で神戸デザインクリエイティブセンターのセンター長を下りられる芹沢さんの話を聞きに神戸のKIITOへ。先日、別府で偶然お会いしたこともあるが、今回は翻訳を手がけられたフラーの「宇宙船地球号操縦マニュアル」の話なので、必ず聞いておかねばならないと思い前々から予定していた。
開始前に廊下で芹沢さんも立ち話をしながら、今こそフラーの包括的な視点が求められる時代はないのではないかと共に確認する。僕自身も2018年に「地球の告白」という作品を千葉市美術館で制作させていただき、そこでもフラーの概念を召喚したが、2020年の混乱を経てますます専門分化した視座からは地球の問題に対応できない感が強まっている。
来年から新体制で始まる新大学でも、僕個人としてはデザインサイエンスを補助線にしていきたいと考えていたが、今日のフラーの話に勝手ながら芹沢さんからエールを頂いた気がした。ボロボロになるまで読み込んだ本ではあるが、今度は僕も伝えていく立場かつ実践していくフェーズに入るのだろうと予感する。

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●3月30日/30th Mar
一年前、世間より一足先に警告を発した時には、まだ誰もそんなこと言っていなかったが、その頃に比べて随分と冷静な人は増えたとは思う。
その反面、おそらく自分のことだとは思っていないのが大半だと思うが、良識あるとされてきた人々は、未だに反転したまなざしを持てない感じが否めない。
後々、なぜあのときにはっきり言ってくれなかったのか、と噛み付いてくるならまだ見込みはあるが、気付かずフェードアウトしていくのがほとんどではないか。
それに、そのときにはっきりと言葉にしていても、それに反応しなかったり、したり顔で受け流したので、それ以上は話してもタイミングではないのかと、判断せざるを得なかった。
直接指摘して傷つけたり、恥をかかせることは本意ではないので、仄かしたり、遠回しに伝えてはいるが、頭が良いとされる人を愚かにしてしまう1番の原因はプライドなのだと改めて感じる。

●3月31日/31th Mar
ゼノンの飛矢静止のパラドックスが、仏教を経たことで腑に落ちたような気がする。結局、時間や運動という概念は、知性と論理では認識できないものなのだ。我々の知覚が変わらないと、理解できないことがあり、それを頭で理解しようとするので、単に論理をこねくり回しているようにしか見えなくなるのかもしれない。


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