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「失う覚悟と失われる世界」(2021年7月)

●7月2日/2nd Jul
本日の講義は、MODERNIZATIONとDESIGNの話題。「風景進化論」も折り返し、後半からは近代化以降の話になる。今日の冒頭の雑談は、中国共産党100周年についての質問があったので、中国の見方をいくつか話した。
中国とは一枚岩ではなく、最低限二つの文化クラスターから捉えねばならない話、アメリカ経済との依存関係の話、アジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立と中国元がSDR入りした2015年以降、世界での位置付けが変化した話、などなど。連邦準備銀行や現代貨幣理論にまで話を拡げ、今後の世界経済がどうなるのかを少し紐解いていると、雑談だけで30分経過する。こちらの方が面白いという雰囲気を振り切り、講義に入る。
前半のMODERNIZATIONは、何が近代化を生んだのか、その結果、我々はどういう価値観を持つことになったのかを話す。いきなり近代化が起こったわけではなく、それに先駆けて認識の変化があったことを、博物学の成立あたりから見ていく。
主体と客体を分けて見るまなざしが徐々に培われたことで、世界を合理化する方向性が強まる。それは規格化、分類化、標準化など、後の産業革命の下準備をした。産業化が急激に起こる19世紀中頃に隆盛した万博が、文明の共有と、その進歩を測る場として重要な意味を帯びてくることを確認する。
次に鉄道という交通革命が、いかに破壊力を持っていたのかを見ていく。歴史の長い間支配的だった人間の歩行、馬による移動と比べると、鉄道は画期的な発明だった。当時の市民社会の台頭と労働様式の変化が進んできたところに、鉄道による交通革命が起こり、観光化という新しい現象を生んだことも見ていく。
最後に、通信の発展がいかに距離という概念を変えたのかを追いかける。人類はずっと距離を超えたコミュニケーションを目指して、トーキングドラムや狼煙、伝書鳩や腕木通信などを発明してきた。だが、複雑なコミュニケーションや、情報の伝播速度は交通に依存していた。それがモースの電信機、ベルの電話、マルコーニの無線によって距離がどんどん失われていく。
20世紀に入り、フェッセンデンのラジオ放送、ベアードのテレビ伝送実験などを経て、マスコミュニケーションになり、あっという間に現在のSNSに至るように双方向の通信が当たり前になる。そのことが我々の認識を空間よりも時間へと傾かせる要因の一つになっていることを指摘した。
後半のDESIGNでは、元々、図案を作るぐらいの意味しかなかったデザインという言葉が、いかに社会的な思想になっていたのかの変遷をたどる。万博と写真がデザインの生みの親になった話を皮切りに、産業革命当時のイギリスでモノの質に対する危機意識が高まったことを見る。その中でラスキンやモリスが起こしたデザインリフォーム運動が、その後のデザインという思想の礎となることを見ていく。
その後、パリ万博を機に一気に世界に広まったアール・ヌーヴォーがインターナショナルスタイルの先駆けになったことも紹介する。だが両者とも機械化時代の要請に応えられず衰退し、その間ドイツでは大量生産に適した形が模索される経緯も確認する。
それと共に、キュビズムの流れを同時に見て、抽象化、単純化する形態の模索が、機械化と当てはまった話の中で、なぜピカソがあのような絵を描くのかも少しだけ解説する。キュビズム近辺の芸術の流れは本当はたっぷり時間を取りたいが、この講義の趣旨ではないので軽く触れて、装飾や様式から機能や構造・構成へと、デザインの視点が移っていくことを見ていく。そんな中で、バウハウス始めモダンデザインの理論が建築を中心に組み立てられたことの影響を追いかけて、講義を終える。
この19世紀末から20世紀初頭の動きというのは、今の社会情勢と重なる部分が多く、同じような動きが見られる。歴史は韻を踏むので、単なる過去の話として終わらせず、なぜそのようや運動や動きがあったのか、それはどういう価値観に基づくのかを確かめることで、今生きた智恵になることの大事さを伝えた。
(写真は今作っている模型の樹木たち。ランドスケープデザインは規格化に馴染まない素材が多いので、近代化が少し遅れた。)

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●7月6日/6th Jul
21世紀に入ってからの社会や技術は、20世紀の頃とは全く異なるステージに入っている。それを20世紀の概念で理解しようとするので間違えてしまうのだろう。今の状況は旧世紀の言葉や分類ではうまく説明できないのだが、その言語で解釈するので、どうも議論が噛み合わない。
一方で、人間のマインドの根底にあるものは、何千年も変わらない。多くの哲学者たちがとっくに語り尽くしている言語は、今でも人間を解釈するのに有効だ。
危惧するのは、今世紀の社会と技術の状況が、多くの人間のマインドそのものを大きく変えてしまう可能性があることだ。そうなると人間の定義を変更せねばならないことになるだろう。

●7月8日/8th Jul
朝から京都。来週の京都での講演のための打ち合わせと機材チェック。父親の実家が京都の四条大宮のあたりだったので所縁の地でもある。
これまでも京都の大学でも教えていたし、知り合いも京都に沢山いるのだが、実は一度も住んだことがなく訪れるばかり。観光化が落ち着いた今となっては、いつか住んでみたい街の一つ。

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●7月9日/9th Jul
本日の風景進化論は都市化と景観の話題。なぜ、今の世界はこんな姿をしているのか。その疑問に対して、特に今日の話題は直接的に応える形になる。前回のDESIGN の最後が少し舌足らずだったので、雑談はそのおさらいからスタート。
装飾や伝統的洋式を否定したモダンデザインが、拠り所にしたのは機能的形態であり、その一つにキュビズムが持つ形態の単純化と抽象化に焦点が当てられたことを見ていく。ピカソの話をしたついでに少々脱線して、なぜ多くの人にとって現代アートがあんなに理解しにくいのかを解説する。感じるままに見ていると現代アートがつまらなくなるのは当然で、どうすれば理解できるのかの7つのポイントを伝える。ある程度遅れてくる学生を待って今日の本題に入る。
前半のURBANIZATION は、都市計画がなぜ生まれたのかの話題から。19世紀の中頃まではヨーロッパの都市は危険で問題だらけの場所だった。産業革命によって労働者と工場で過密化した都市の解決のための公衆衛生法から都市計画が始まり、ゾーニングや公園というシステムへと繋がっていくのを確認する。
同時に、都市から脱出して郊外に理想都市を計画する動きも平行して見ていく。オーエンやフーリエの空想的社会主義、ガルニエの工業都市、ハワードの田園都市などから、一気にニュータウンのフォーマットが形成されて世界中に拡がる様子を追いかける。
その一方で、都市改造によってどんどん眺めの意味が喪失していくことへの抵抗として、1890年頃から起こった都市美運動についても見ていく。コロンビア博覧会の頃にダニエル・バーナムはじめ新古典主義様式の建築が一世を風靡したが、その後モダニズム建築からの批判の中で衰退していく経緯を見る。
伝統的様式へ回帰するのではなく、近代主義を進めることで、インターナショナルスタイルとして乗り越えようとするモダニズム建築家たちのチャレンジを追いかける。その結果、世界中でどこにでも同じような形態のビルが生み出されるに至ったことを確認して前半を終える。
後半のSCENARYでは、1880年のマンハッタンのスカイラインがこの140年でいかに変容したのかを見ることからスタート。その背後には、オーティスによるエレベーターの発明のような技術革新や、建築の構造の進歩などがあるのを見ていく。
都市の眺めは中世な頃までは、気候風土の影響が大きく、近世に入る頃には様式の影響が大きかった。しかし近代では建設技術が絶大な影響力を持つ。それに加えて現代では資本であることも付け加えた。 
マシンエイジにおける近代的生活を支えるには、建築も機械のように構想されるべきだという理想への気運が高まる。そんな中でコルビュジェのドミノシステムやモデュロールが生み出されていく経緯を追いかける。
都市の眺めから失われた意味を回復するために、オスカー・ニーマイヤーや丹下健三、メタボリズムに至るまで建築家たちの涙ぐましい努力も辿る。ただ、1970年代頃から都市デザインから次々と身を引く建築家達の動きに、作り手が与える都市の意味には限界があることも確認する。
そんな中で客観的に眺めを測る指標として台頭してきた景観工学の価値観を見ていく。美醜ではなく快適性を問題にし、それを計測して施策として展開することで何とか眺めの意味を回復させようという努力が行われる。
リンチの都市のイメージなども確認しながら、共同性が失われつつある現代において、場所の意味の共有がいかに困難かを考える。意味を扱うことを回避した景観の概念では、表層的な外形保存になりがちであるという矛盾をはらむ問題も指摘しておく。
この19世紀末から20世紀にかけて起こったモダニズムとそれへの抵抗の構図は、まさに今の人工知能やビッグテックと我々との関係と重なる。既に失われている人々の共同性を、新たに捏造するために、恐怖が利用され始めている。歴史は韻を踏むとすれば、次に何が来るのかは自ずと見えてくることを考察して終える。これは次の本のテーマでもあるのだが、時間オーバーで話せず。やはり3時間では足りない。

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●7月10日/10th Jul
本日は半年に一度の博論の合同ゼミの発表会。7名の博士後期課程の社会人大学院生から順次発表がある。今の研究科の枠組みでの指導は本年が最後だが、毎回思うのは研究テーマの多様性。
動的な景観の価値変容に関する研究、地域付加価値から捉える経済効果の分析手法の研究、中国の火鍋チェーン店に見る新たな接客文化に関する研究、奈良町における老舗と町屋と地域再生に関する研究、ラグジュアリーホテルのeWOM対策の研究、現代の宿坊の成立と地域社会との関係性についての研究、正力松太郎とメディアイベントに関する研究などなど。
毎回そうだが、発表資料を初見で捉えて、その場で有益なアドバイスを返していかねばならない。テーマもバラバラなので大変ではあるが、見るポイントを心得ていると、ディスカッションすべき点を提示できる。
博論ぐらいになると、論文の作法や規定演技を理解していることを前提に議論を進める。その上で、独自性や社会的意義などについてチェックする必要がある。観光研究においては、既に2年前とは課題が大きく変わっているものが多い。社会が急変する中で研究の意義を考えるためには、自ずと普遍的な問いが必要になる。
また自分が設けた仮説や主張に都合よくデータを解釈してしまう罠にも陥りがちだ。自説を正当化するために社会的意義を歪曲したり捏造してしまっていることに気づかないこともある。そのあたりを全体講評では、指摘しておいた。
観光学とは学際的なので、経済学、経営学、社会学、地理学、宗教学、都市計画学、建築学など色々と知っていないと適切な議論が出来ない。だから指導も大変だが、個人的には毎回、良い頭のトレーニングになるので貴重な場だ。
全体講評の場でも話に出たが、博士号を取るとは生涯何らかの研究者になることである。学位は学者の入口だが、学者とは生き方でもあり、世界と向き合うアティテュードだ。己個人や特定の組織の利益のために研究するのではなく、社会や人類にとってどういう意味があるのかを哲学する姿勢で、是非取り組んでもらえたらと願う。

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●7月11日/11th Jul
能力だけでなく徳も高い本当に素晴らしい人というのは、特に社会で目立つこともなく普通に生きている。すっかりと目利きが出来なくなった社会では、誰もが箔付けされていないと評価出来ない。だから箔付けだけが金でやりとりされるようになり、箔を得ようと誰もが必死になる。だが、外部評価に頼る人は、すぐ隣にいる賢者の存在に気づかないのだ。

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●7月13日/13th Jul
慎重に慎重に言葉を選びながら、何度も手を入れて書き進めているが、いくら言葉を尽くしても、必ず誤解が残ることを受け入れねばならない。皆が一番気になっていることを書くというのは、とても難しい。友人の半分を失う覚悟を乗り越えてまで何かを伝えるのは、これで最後にしたいものだ。

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●7月13日/13th Jul
本日は京都の「ひと・健康・未来研究財団」で講演。財団理事長を務められておられる元滋賀医科大学学長の塩田浩平先生のお誘いで、話することに。久しぶりの講演だったが、対面とズーム併用でスムーズに進めれた。
この財団は設立が1964年と古く、塩田先生を理事長に、元京大総長の山極先生など錚々たる碩学の先生たちが理事におられる。京大の未来創生学のシンポジウムでご一緒した京都市芸の辰巳明久先生も理事を務められていて、色んなご縁を感じる。
60分講演の60分ディスカッションだったが、終わってからの質疑が非常に刺激的だった。碩学の先生たちなので質問のレベルが高く、特に対面で聞きにきておられた総合地球環境学研究所の阿部健一先生から、すごい勢いでご質問とコメント頂き、とても光栄に思う。終わってからも話し込んで、次のシンポジウムの登壇のお誘いを2件も受けてしまった。
質問の中では、殺風景という言葉とオギュスタン・ベルクの言う近代的風景の概念の話を持ち出して来られたので、デカルトの主客二元論以来の近代の概念をどう乗り越えるのかを模索しながら風景異化の研究をしてきたことを伝えた。まなざしのデザインの話を、アフォーダンスや環境決定論だけではない形での乗り越え方の可能性として共感されていたので、かなり本質的な部分で響いたのではないかと。
あとは、やはりデザインとアート、そして創造性の話に皆さんの関心が高かった。サイエンスとエンジニアリング、学問における社会問題解決型と真理追求型の話などを交えて、創造性の両輪の話で回答した。日本型の芸術と西洋型の芸術の違いについても少しだけ触れながら、芸術表現そのもの以上に、それを局面や文脈で効果的にキュレーションすることの重要性についても指摘しておく。
僕自身、このコロナ以降で講義やインタビューは結構していたが、講演としては久しぶりの場で、しかも高度なディスカッションが出来たので、大満足だった。阿部先生からは、また山極先生交えてやりましょうと仰って頂き、嬉しい限り。どうやら11月号の冊子に今日の内容が掲載されるとのことで、お誘い頂いた塩田先生に、心より感謝。

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●7月15日/15th Jul
閃光と轟音で目が覚めた。雷がすぐ近くに何度も落ちているようで、空が光り、止むことなく雷鳴が続く。電荷が高まった雲から上下に向かう放電をしばらく観察していると朝を迎えた。そしてクリスチャン・ボルタンスキーの訃報を知った。
人の死と忘却について誰よりも考えていた現代アーティスト。ゼミ生を連れて見に行った彼の展覧会「Lifetime 」で、来阪された時に直接話を聞いたことがある。その時の彼の言葉を全て文字にしているので、そのうちどこかで書きたいと思っていた。
フランスの彼のアトリエには監視カメラが置かれ、24時間映像が撮影されている。その映像はタスマニアに美術館を持つプロのギャンブラーのデヴィッド・ウォルシュが、彼が死ぬまで買い取り続けていたが、それも今日終わったのだろう。
8年以内に彼が死ぬと踏んでいたウォルシュの読みに対して、結局ボルタンスキーは10年以上生き続けて、勝負には勝った。だが、死には勝てなかった。人は死んだらどうなるのか。それを問い続けた彼はようゆく答えを得たのかもしれない。きっとこの雷はそのことを告げていたのだ。

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●7月16日/16th Jul
所用で民博へ。フィールド言語学者やインドの染色技術の研究をする数人の研究者から話を聞く。触覚をテーマにした次回の企画展も面白そう。コロナ禍の中で直接「触る」ということの意味が再度問い直されそうだ。
ついでに太陽の塔の内部にも入った。前回入った15年前はまだ未整備の段階だったが、綺麗に整備された今のものよりも迫力があったように思える。生の感覚というか、原初的なエネルギーが削ぎ落とされてしまったように僕には思えた。

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●7月17日/17th Jul
社会人大学院向けの講義「風景進化論」は、本日が最後。今日はオンライン受講が二人いたので、少々教室は寂しい感じでスタート。講義前の雑談で、質問を受け付けると、ピカソについで教えて欲しいというリクエストがあったので答える。なぜピカソがあのような絵を描くのかということを、当時の技術や社会、ムードなどの時代背景、表現の主眼が「主題」から「知覚」に変化したことなどを交えながら、軽く解説する。
講義はようやく20世紀に入り、前半はCONSUMERとして消費社会のアメリカの話題。まず消費への欲望として、経済学の前提を疑うところからスタート。経済学では資源の稀少性が問題にされ、限られた資源の分配を市場にまかせるか計画的に管理するかが問題にされて来た。
ただ、そこで消費されているものは、生存に必要なものを遥かに上まった生産物だ。それは人間の過剰な精神が消費しているというバタイユの蕩尽や、ヴェブレンの衒示的消費、モースのポトラッチなどを援用しながら解説していく。一応、マズローやジンメルなども紹介しながら欲望と価値の関係について考える。 
次に、ヨーロッパのデザイン思想が、アメリカのインダストリアルデザインへと変わっていく中で、いかに近代性を飼い慣らし、消費への欲望を煽るために加担してきたのかを追いかける。ジェフリー・メイケルの議論を使いながら、過去から未来へと漸進的に進む近代的な時間感覚、近代都市だけが特権を持つ空間感覚、オブジェにすることで近代性を飼い慣らすイコンという戦略を確認する。
そして経済史家のウォーラーステインの資本主義の象徴の変遷から自動車を取り上げ、1920年代のフォードとGMの戦略の違いを比較する。いかに大衆の消費欲求を創造するのかをマーケティングと社会システムの観点から見るが、21世紀のGoogleの戦略にも少しだけ触れる。
マーケティングについては、次の本でも書いたが、積極的に人々の中に欲望を生み出す技術であり、デザインや広告だけでなく戦争とも相性が良い。そこまでは触れてないが、その戦略だけ確認する。最後はラッシュのナルシシズムの時代の議論から、ボードリヤールの消費記号論を経て、僕自身が考える地域のナルシシズムの話で締め括る。
後半は、ポストモダンにおける都市や建築、まちづくりを、GENERATIONという切り口で語る。モダニズムが進めた画一的で規格化されて無味乾燥な街に対して、ジェイコブスが唱えた街路の復権や、ヴェンチューリのラスベガスなどを参照しながら、ポストモダンの規範が、混沌や多様性、複雑性あたりにあることを見ていく。その中で、イスラム都市のような生活のリアリティと一体化した眺めをどのように自律的に生成出来るのかに焦点が移っていくのを確認する。
そんな生きられた空間の生成原理を探るべく、都市を計測し構造を理解するという手法が70年代以降に広がる。文化人類学や民俗学のフィールドワークの手法で、世界中の前近代的な集落が調査され、それかの原理を解明しようという努力がなされる。しかし原理を解明できても、それを新たに都市に応用することは、リアリティがなく、次々に失敗していくことも取り上げる。そんな中で、近代の快適性という評価軸では捉えられないような「カオスのリアリティ」というまなざしが培われるのを見ていく。
そうしたリアルな生活景を生み出すためには、生活の中で人々が共有する価値を再評価しないといけない。ワークショップやコミュニティデザイン、参加型のまちづくり手法のルーツにそうした生活の共同性を培おうという欲求があることを確認していく。一方で空間の形態から人々の共同性を復活させるアレクザンダーのパタンランゲージのようやアプローチについても紹介する。
そうした環境存在論的なアプローチの先に、近代的な主客二元論を乗り越えるためヒントがあることを、最後に確認する。フッサールの現象学からメルロ・ポンティの知覚の現象学、ギブソンの生態学的視覚論を追いかけながら、我々が主体的に行動するのではなく、環境からの働きかけで動くことを再確認する。環境と人とが一体的になって価値が生成されるアフォーダンスの概念をヒントにしながら、主体と客体の溝を埋めながら近代をどのように乗り越えるのかを最後に考える。
我々は主体的に環境に関わり、自立的に生きているように驕っており、環境が我々の行動や存在の成立要件であることを忘れがちだ。あらゆる生命のネットワークの一員としていることの自覚を取り戻すためのホーリスティックなアプローチの重要性を指摘して、締めくくった。
質問の回答の中で、この文明は病気であり、パーソナライズが極度に進んだ先には崩壊が待っていることを伝える。だが、必ずその先にはそれを乗り越える流れが生まれるであろうことも同時に伝えた。長い歴史を振り返る旅は、ひとまずこれにて終了。皆さまお疲れ様でした。

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●7月20日/20th Jul
ズボフの監視資本主義の考察が興味深い。政府の諜報部門とシリコンバレーとが蜜月になったのがこの20年。プライバシー保護とセキュリティとの天秤が、911で反テロを名目に大きく傾いたままでテクノロジーだけが進んだ。
そもそもインターネットサービスプロバイダが法的リスクを負うことなく、コンテンツを管理できるように保護するために、米国通信品位法230条が出来た。それが現在では監視資本家たちが強奪的に我々の情報から抽出した行動余剰を、金に変えていくことを許してしまう防波堤になっている。
思った以上に根の深い問題だが、Googleの台頭とオバマ政権、トランプの叛逆から今回のパンデミックまで、一連の繋がりの中でその全体像を把握している研究者はそう多くないと思われる。

●7月20日/20th Jul
物事を深く知ろうとすると、最初は自分の見方を頼りにせねばならない。自分を棚上げして物事を見るとリアリティを失ってしまうからだ。
だが、次の段階では自分の見方を手放さねばならない。自分に固執していると自分のリアリティの範囲でしか物事が見えなくなるからだ。
人と話していて、その人があんまり物事が見えていない場合には、どちらの方向へ見方を誘うのが、その人を自由にするのか見極める必要がある。

●7月21日/21th Jul
努力してきたことが結果として評価される人と、評価されることを目的に努力してきた人とでは、心の状態がまるで違う。だが結果としての評価だけにフォーカスしていると、その違いは見えないものだ。

●7月23日/23th Jul
原稿のために終日こもり、編集者に送った頃には夕暮れになっていた。夜にはアンサンブルゾネのスタジオへ向かう。アドバイザーを勤めているアシアアートプロジェクトのオンライン会合。
豊岡の芸術文化専門職大学の藤野先生や美術評論家の加藤義夫さん、建築家の大庭さん、多木実行委員長など、皆さんとディスカッションする。前実行委員長のコンテンポラリーダンサーの岡登志子さんから、今年の方向性の話なども共有しつつ、久しぶりにお会いしたので、かなり色んなことを話した。2月に訪れた具体美術の展覧会の感想を求められたので、それらにも答えながら、今僕が気になっていることや、芸術界隈で何が起こっているのかの読み解きを僕なりに話した。
会議は2時間ほどで終わったが、その後に岡さんとスタジオで話し込む。戦争について気になっておられたようなので、次の僕の本の内容の一部を紹介しながら、今の世界の状況について共有する。明るい気持ちには決してなれない話だし、にわかには理解し難いことだが、神妙そうに耳を傾けられていたので、かなり核心まで掘り下げて話してしまう。
話は尽きず、作品づくりの話へと展開する。研究者モードの時とは違って、作り手同士の会話になると、言語の方向性が変わる。アーティスト同士の対話では、構築的で論理的な言語ではなく探索的で感覚的な言語になる。結局は表現において何にリアリティを置くのかという話をずっとしているが、いつまで経っても話は尽きない。気がつけば夜中2時になっていた。

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●7月23日/23th Jul
なぜ、こんなにも次から次へと問題が起こるのか。それは「起こる」のではなく、「起こされている」という視点を持てるかどうか。この情報化社会の中では、私たちのまなざしは安全ではない。そんなことを次の本では書いているが、出す時期が難しい。

●7月24日/24th Jul
禅定には様々なレベルがあるが、初期の禅定では外部の条件に影響されず、自分の中にリズムを持つ必要がある。基本的に瞑想中に優位になる感覚は聴覚と触覚で、特に触覚が重要になる。その両者を統一させるのが呼吸なので、呼吸以外に影響されないようにするのが肝要かと。

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●7月25日/25th Jul
この15年ぐらいは「異化」について主に芸術周りからアプローチして研究してきた。だがこの先の15年は、その反対の「同化」について考えないといけない局面に入ってきた。その前に異化しておかねばならないこともあるので、そう簡単には移行できないが準備は進める。
異化について考えてきたのは、今の社会のリズムと同期することのヤバさを感じていたからだが、すでに全世界に最大の異化が起こってしまったこともある。芸術が何も異化出来なくなってしまった中、我々が本当は何に「同化」すべきなのかの方を、問わねばならない事態になっている。
人々にとって同化がどのようなチカラと意味を持つのかは、芸術だけでなく宗教学や意識科学が大きなヒントをくれる。だが今の社会現象における人々同士の同化はもはや末期のような様相にも見え、生命として自然へ同化することへの見込みは薄そうに見える。
今主流の自然科学が、それに答えを提示出来るとも思えないのであれば、新しい領域を切り拓くしかなかろうよ。側から見れば、一体何がやりたいのか分からないように見えるだろうが、自分の問いは明確だ。意味不明なのは見るスケールが違うからだとは思うが、真意を共有できる人だけに留めておきたい。

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●7月26日/26th Jul
少々時間あったので、森美術館の「アナザーエナジー展」へ。70歳から105歳までの女性アーティスト16人という、女性の片山館長らしいキュレーション。コロナ禍の中での展覧会開催で、苦労の跡が随所に感じられる。
16人の作家が16様で、それぞれの作品は見所があるものも多かった。ただ、コロナ以降特にそうだが、ここのところ現代アートの批判力の無さをリアルに感じることが多いので、個人的には色々と考えさせられた。
本展に限らず、変化に乏しい長い映像作品の多くは素通りされてしまい、アート関係者でも腰を落ち着けて見る人は少ない。人々はインパクトのあるドローイングやインスタレーションには立ち止まるが、その多くはスマホ越しだ。一見意味が感じられないような何かをじっくりと凝視する力がますます失われている。そんな見る人の意識が停滞している中で、アートのチカラとは一体何なのかはもう一度確認されねばならないだろう。
それに加えて、美術批評家の方と先日話して、もはや現代アートに一体何が起こっているのかを、キュレーターや批評家含めた誰も把握出来ていない状況にあると言っていたのが印象に残る。それについては思い当たるところあるので、いつか自分なりに言語化して美術評を書いてはみたいと思っている。
そういうこともあり、個人的には作品そのものよりも、作家へのインタビュー映像が興味深かった。このインタビューでは、「あなたにとって時間とは何ですか?」「挑戦し続けるエナジーは何ですか?」のような共通の質問をしている。
50年以上に渡ってアートを制作し続けるエナジーは、政治的な力や功名心というものとはまるで違うはずだという補助線の元に、このインタビューだけが16人を結びつけている。だが、それ以外に展覧会全体として今の社会にどういうメッセージを投げたいのかは、いまいち僕には分からなかった。
全体を通して作家自身のスタンスが、自己の追求、個人の権利、性別と社会の不平等などについてフォーカスしているものが多いのも気にはなる。アートとは生存の方法であるというスタンスが主流な中で、特に僕自身が印象に残ったのは、ロビン・ホワイトのメッセージ。
西洋東洋の作家が入り混じる中で、おそらく彼女だけが、近代的な自我や個人主義にとらわれず、無名の人々との協働性にフォーカスしていたように感じた。やもすれば「私が私が」「私を見て」というメッセージと過激な表現になってしまう現代アートの中で、その素朴なメッセージは見過ごされがちだ。

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●7月27日/27th Jul
大塚メディカルデバイスの事業報告会で特別講演をする機会を賜った。オンラインで100名ほどの社員の皆さまの前での講演だが、品川の会場には社長、副社長など役員の方々がズラリと。70分ほどこちらから話して質疑が20分ほどだったが、社長はじめ皆様とても関心を持って色々とご質問頂いた。
意見が完全に違う人々同士は、どうすれば分かりあえるのか。見たいものにしかまなざしを向けないことからどう逃れるのか。人々が自発的にモノを考えるためには何が必要なのか。そんな質問に答えていきながら、そのままディスカッションに入っていく。
終了後もランチを取りながら、世界の趨勢やテクノロジーの行方、地政学的な読み取りから果ては戦争まで、今考えていることや、次の本のテーマである「分断」についてもシェアするが、皆さん興味深く耳を傾けておられた。
冒頭のお話からも、まだ誰も通ったことのない「道なき道」を登るという明確な意思を体現しようという気概を感じる。その際に本当の意味で創造的にモノを考えるというのは、一体どういうことなのかを掘り下げるお手伝いが出来れば嬉しく思う。

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