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「嘘のポジティブ」(2021年6月)

●6月2日/2nd Jun
現場が随分と進んできたが、これからが本番なので気が抜けない。梅雨の時期でないと確認できないことがあるので、現場実験の手配をする。うまくいくことを祈る。

●6月3日/3rd Jun
世間一般ではほとんど意識されないことだが、最先端のテクノロジーが最高度に集約されているのは軍事技術に他ならない。特にこの十年ほどの人工知能技術の発展で、自律型兵器をはじめ戦争の形は大きく変わっている。
それだけではなく、ナノ兵器や気象兵器、電磁兵器やサイバー兵器、生物兵器から医療兵器など、我々が考えもつかないような形で軍事技術は進化してきており、その情報は基本的には機密にされているので表には出てこない。
次の本では、戦争のことを少しだけ書いているが、情報戦やソーシャルハッキングのことが中心で、そんな所までは踏み込んで書けない。だが、また別の機会に「まなざしの戦争論」としてまとめて欲しいと編集者からは言われたので、少し考え始める。

●6月4日/4th Jun
本日は、日本建築家協会の方々からインタビューを受ける。オンライン併用でと言われていたので気軽に構えていたら、10人ぐらいお越しになり、講義のような形になってしまった。何やら2040年の社会について考える若手の研究会とのこと。そのテーマを深めるで、ハナムラの話や見解を聞きたかったようで、色々とご質問頂いた。
普段、僕が教えている社会人大学院生は、別にハナムラの話が聞きたいから入学したわけではない。入ったら、たまたまそこに僕が居たので、話を聞いてやるか、というスタンスがほとんどではないかと思う。だから自分が聞きたいこと以外には興味を示さない方々も居る。
だが、こうして僕が何を考えているのか、今とこれからの社会をどう見ているのかの話を、わざわざ聞きたいとやってくれば、ついつい口元が緩んでしまう。普段の講義では触れないような話題や、言うのが憚られるような際どい話まで、色々と回答した。
研究会の皆さんは、京都大学の広井先生はじめ、他のたくさんの研究者や実務家にもインタビューされていて、流石に考えも深まっておられる。皆さんでの議論の整理や、それを踏まえた上での次の疑問も色々と投げかけて来られた。そのレベルで問いを投げてくれれば、こちらとしても返し甲斐がある。
僕自身は社会一般で言うところのいわゆる模範回答は、基本的には信じていない。だから、そういう意見が来たら、それを受け止めつつも、もう少し踏み込んだ議論へと誘うようには返したつもり。皆さん頭の回転も早い上、素直に耳を傾ける態度をお待ちだったので、おそらく盲点になっているであろうことや、まなざしの罠、実存的な話や抽象的な話も織り混ぜてみた。
そうやって次の本の内容を小出しにしつつも、かなり広範囲の角度から打ち返したが、響いてくれていれば話甲斐もあるものだ。「建築と社会」という冊子で記事になるらしいので、業界の方々にとって哲学するきっかけになってくれれば嬉しい。ただ、内容が際どいので、ほとんど記事に出来ないかもしれないのが内心心配ではあるが...。 
今、社会は大きな選択を迫られていて、それは個人が選択できることと、そうでないことがある。選択肢があるように見えて、そこには罠もたくさんあり、そう希望に満ちたことばかりでもない。流れてくる情報は何が真実で何が嘘か分からず、人の数だけ見解がある。そんな中で、どのようなスタンスでいるのが正解なのかについても共有する。
昨年末に京都インパクトハブで対談した「百年後のまなざし」をYouTubeで視聴下さった方も居られて、インタビュー終わってからも質問に来られた。「愛」についての質問だったので、短い時間では簡単には返せず、またの機会になった。今回も沢山話して、例の如く映像撮影はしておいたが、これはおそらく流せないだろうな。

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●6月6日/6th Jun
「瞑想」について周りに話したら、そんな怪しいものはやめた方がいいんじゃないかという反応が返ってきたものだ。ほんの10年ほど前のことだ。しかし時代は変わり、かなりの数の人が、瞑想する人がいることを受け入れる社会になった。
瞑想への関心は特に西洋人の間で高く、スペインに居た頃は色んな人に、東洋の瞑想法について尋ねられた。彼らの関心は二つに分かれている。一つはスピリチュアル的な志向性から瞑想に関心のある人々。もう一つは能力開発のツールとしての瞑想に関心のある人々。あと、どちらも瞑想の健康維持効果には関心があるようだった。
自分自身が瞑想をする動機は、そのいずれでもないのだが、副次的効果として得られるものは大きい。特にニュートラルに物事を捉える感覚の醸成と、脳と内臓への効果は、間違いなく大きいだろう。仏教学を含めた宗教学や心理学、脳神経科学領域以外で、瞑想に関心のある研究者はそれほど多くはないが、それでも歴史学のハラリをはじめ、他領域でも表明する人が増えているように見受けられる。
21世紀は間違いなく「心の時代」であり、自分のまなざし研究や生命表象学も、心と深く関係している。だが、それを外から語っているだけでは片手落ちのように思える。芸術と同じで、見たり語ったりするよりも、実践することでしか得られないものがあるからだ。主観的に掴まねばならないエビデンスが、これから重要になってくるだろう。

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●6月8日/8th Jun
数年前からパラレルヒストリースタディーと称して、全世界の5000年くらいの出来事を十カテゴリーでまとめるデータベース作りをライフワークとして地道に続けている。
自分なりに包括的に世界を見るためにやっているが、それが仕事や作品作りに役立つ局面が増えてきた。2018年に制作した「地球の告白」というインスタレーション作品でも膨大な歴史情報を載せた。
さる企業のコンサルティングも兼ねて、カテゴリーの中の「身体・医学史」及び「食・農業史」の百年前あたりを今は埋めているが、変遷が見えて面白い。
マークトゥエインが言うように「歴史は韻を踏む」ので、百年前を見ると、次に何が起こってきそうかも見えてくる。今週から歴史的な景観の変化を追いかけた地域デザイン論が始まるので、頭がそっちのモードになる。

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●6月9日/9th Jun
先日のインタビューの質疑応答の際に気になるキーワードがあった。「ポジティブ思考」についてだ。今の社会のヤバさについて、こちらからかなり話した後に、そのコメントが出てきたので、少々力が抜けてしまった。
以前、Wirelesswire Newsに「ポジティブの罠」という論考を書いたことがあるが、ポジティブ思考は容易に無知に繋がりやすい。なぜなら、物事の悪い側面を見ずに、都合よく解釈してしまうことが往々にしてあるからだ。
人は基本的にポジティブでなければ生きていけない。明日が来ると信じているから生きていけるし、明日が今日よりも、より良いものになると信じているから行動する。しかし、ポジティブが都合の悪い現実から目を背けることを意味するなら、それは単に愚かなだけである。
我々は常に一瞬先には、命を落とす可能性に満ちていて、明日は来ないかもしれない中で生きている。そして老いていく我々は、今日よりも明日はどんどん悪くなり、これまで出来ていたことが出来なくなっていく存在なのだ。それをちゃんと見つめた上で、それでも明るく生きていくというのが本当のポジティブなのではないだろうか。ポジティブの前に、まずしっかりとニュートラルに現実を見る必要があるように思える。
だが、質問者の反応は僕が答えた今の社会が抱えるリスクも、我々の抱える矛盾も見つめることなく、可能性だけを語りたがっているように見受けられた。都合の悪いことにフタをして、良いことだけを見つめて進めてきたテクノロジーやシステム。それが暴走しているのに、まだその可能性だけを信じて、それを推し進めるのは、自らだけではなく多くの人を危険にさらす。 
人間や社会のポジティブな側面だけを僕も見つめてはいたいが、内実はそう簡単では無い。人間というのは自分が想像している以上に狂っている。自分を簡単に正当化し、嘘をつき、他人を騙し、慢をつのらせて、人のためと言いながら己の利益だけを考えている。自分もまたそんな人間であることをニュートラルに見ずに、まだポジティブだけを見ようとするのだろうか。そんな盲点がないのだろうかということは指摘しておいた。
それに人類は自然のことを本当のところはよく理解していない。21世紀に入ってから特に顕著だが、我々は全くテクノロジーを使いこなせていない。社会システムは当初に掲げられた理念とは正反対に動いていて、暴走と混乱にブレーキがかけれない状況だ。
なぜそうなったのか。それは人類が根本的に、無知を抱えたままなのに、自然の中で力を持ってしまったからである。ここは謙虚に自らが真理を知らないことをしっかりと受け入れて、自分を正していく態度が誰しもに求められる時代に思うのだが。

●6月10日/10th Jun
先日の講義の質疑応答の映像を、マネが編集してくれたのでYouTubeにアップしました。ハナムラなりの回答ですが、何かのご参考になればと思い、限定公開で共有します。
講義の中で学生さんに早口で回答しているのと、カメラが下からのあおりのアングルなので、映像になるとかなり偉そうに見えてしまい、少々反省です。内容だけをご寛容にお聞きいただき、もし横柄に感じられることがあっても、是非とも笑ってご容赦下さいませ。
質問内容は以下です。

Q1 アート思考をビジネスに活かすにはどうすればいいのか?
Q2 修士論文を書くためのインプットの方法がわからない。ハナムラはどのようにインプットしているのか?
Q3 規模や時間幅の大きい都市計画では、どのようやことを考えてデザインするべきなのか?
Q4 ハナムラのスピーキングスキルはどのようにして培っているのか。何かポイントはあるのか?
Q5 本を読んだり研究をするための持続力は、どのように鍛えたら良いのか?
Q6 コロナ禍とその後における芸術やスポーツをどのように考えればいいのか?
Q7 これまでアートに触れてこなかったので、身近に感じられないが、どうすれば身近にできるのか?

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●6月11日/11th Jun
本日から社会人大学院で「地域デザイン論」の講義がスタート。今年でこの講義は終了で、ここで「風景進化論」として話している内容を、来年からは違う枠組みとして開講するつもり。
今日は初回なのでINTRODUCTIONとして、本講義を聞く上でのポイントの提示と、ORIGINEと題した、人類の起源や文明のルーツあたりの話をする。
いつも初めに話をするのは、大学院でなぜ学ぶのか、について。一人の学生を育てるのにかかる費用は、学費だけでは賄えない。皆さんが投じた学費の3倍から5倍ぐらいの税金が投入されているのだが、それがなぜなのかを考えてもらうようにしている。
大学院に学びに来る社会人学生の多くは自分のキャリアアップや転職、ビジネスに変えていくためのヒントやアイデアを得ることがほとんどだ。
だが、あなたの会社を儲けさせたり、あなたの収入を向上させるために、この場が用意されているわけではない。あなたに税金が投入されているのは、あなたが大勢の人々のために、社会の何かの可能性を切り開いてくれると信じているからだ。
もし我田引水や私利私欲のために研究したり、箔をつけたくて修士号を取るような気持ちがあるなら、今すぐ席を誰かに譲った方がいい。大学院とはそういう場所ではないからだ。そんな厳しいことを伝えながら業務の時とはモードを変えてもらうようにしている。
社会人大学院は、学部からそのまま上がってきた学生とは違って、自分のビジネスと直結したことばかりを聞きたがる。そうなると、自分が聞きたい都合の良いことだけを聞こうとするので、認識のアップデートが出来ないことがよくある。それどころか、偏見がどんどん強くなり、社会を逆に混乱させるようなケースも見てきた。
だから一旦、自らの有用性から離れて物事を見つめる必要性があること、包括的に物事を把握すること、抽象化して物事の本質的な所だけを抜き出すこと、などに注意して講義に臨んでもらいたいことを伝える。そうでないと、なぜ長い歴史の話をするのかを理解してもらえないからだ。
ORIGINEでは、人類の萌芽期には世界に対してどのようなまなざしを向けていたのかを、様々な学問的知見を手がかりに話す。人類の歴史の97%以上は移動の歴史である。自然の中で移動していた頃の人類が、本格的に定住し農業を始め、環境を創造するようになったのは、ほんの一万年ぐらいの話だ。
それまでの長い時間、地球上には様々な人類が現れては消えてきた。そして初期の人類は今の我々とは全く違う価値観を持っていた。そんなことを、シャーマニズムの話、聖地の話、構造主義の話などを織り交ぜながら、確認していく。
我々が絶対だと信じている近代的な価値観など、わずか100年足らずであり、現代の価値観に至っては、数年待たずに変化していく。その変化に翻弄されないためには、長尺で物を見る必要があることを伝える。
普段の業務を終えて、疲れてやってきたところをいきなりこんな話をされてもと、戸惑うかもしれない。だが、答えの見えない今の世界の中で、何かを見定めようとするために座っているのであれば、歴史の中で繰り返されるパターンを縦に鷲づかみにすることが大切だと思う。

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●6月12日/12th Jun
敬愛する能勢伊勢雄さんより、郵便が届いた。開けてみると能勢さんからの手紙と共に、「spectator」という一冊のカルチャー誌が入っていた。
副題が「パソコンとヒッピー」とあり、その中で、能勢さんが52年前に書かれた「サイボーグ論」の論考と、岡山で試みていたコンミューンについて、編集部からのロングインタビューが掲載されているので、是非お読み下さいとのことだった。
開けてみてまず驚いたのは、ほぼ全編がマンガ形式で書かれていることだったが、それ以上にその内容のエッジの立ち方だった。今から60年以上前にカリフォルニアを中心として生まれたカウンターカルチャーが、シリコンバレーへとシームレスに繋がっていく経緯の骨子が余すところなく示されている。
ジョブスやウォズニアックの話など、これまでもあちこちで語られてきたことは断片的には知っていたが、それが能勢さんの当時リアルタイムにしていた活動とともに、このパンデミック後のタイミングで再度照射されることに大きな意味を感じた。
我々が表面的に知っているヒッピーとサイケデリックムーブメントについての認識というのは非常に一面的であるという問題もさることながら、その中でもジッピー的な動きを日本で先駆けて能勢さんが行っていたことの慧眼に驚く。
それは単なるジッピー的な動きというよりは、テクノロジーによって変容する人間の実存にたいする考察が重層された哲学実践であったと言ってもいいかもしれない。実際にウィーナーの「サイバネティクス」とサルトルの「存在と無」がその活動の下敷きにされていたのだから。
能勢さんが50年前に岡山で「U.M.U創造論理空間研究会」として運営されていたコンミューンと同じようなことを、奇しくも僕自身も2010年代に大阪で運営していた自分のスペース「♭」で、10年ほど実験していた。現代文明に対する問題意識とその対抗文化をどのように生み出せるのかを、40年越しで同じように模索していたことにも、また時代の韻律を感じてしまう。
当時のジッピー達の問題意識はヒッピーとは少し異なり、積極的にテクノロジーと向き合うことで、巨大な権力を超克しようとしたが、50年経ってそれが先鋭化された部分もあれば、その正反対にすっかり取り込まれてしまった部分も両方見受けられる。
僕自身はテクノロジーに関しては慎重派ではあるが、マクルーハンやブランドやフラーが何を目指そうとしていたのかは、十分理解しているつもりだし、今でもそこに期待している部分もある。
だが、311後のヒッピーカルチャーの反応や、カウンターカルチャーの動向を見ていると、手放しで喜べない部分も多く、違和感があることも否めなかった。その違和感の正体も能勢さんのインタビューを通じて自分の中で明確に確認できた。
とはいえ、カウンターカルチャーとして生まれたはずのパソコンやインターネットなどのテクノロジーが、このパンデミック前後から、なり振り構わず取り込まれていく現状に対して、何がオルタナティブであり得るのかは、依然として考えさせられることではある。
カウンターカルチャー自体が、もはやカウンターとしてではなく、すでに狡猾に取り込まれてしまった現状があるにも関わらず、その当人達が全くそれを理解していないからだ。この20年の間にテック、スピリチュアル、アートがすっかりと飼い慣らされてしまい、自分たちの目指すことと正反対の目的へと奉仕させられていることに対する無自覚が、パンデミックで如実に浮き彫りになったと思うのは僕だけだろうか。
能勢さん以外のもう一人のインタビューとして掲載されていた高野さんの監視社会に対する問題意識は、僕自身が今書いている本の内容とも重なる。次の本では、パンデミック、情報、戦争、宣伝、経済などを概観しながら、世界がどこに向かっているのかを自分なりに考察するつもりだが、あまりエッジが立つのも身が危うくなるので、ほどほどに丸めている。
そうした社会に対する問題提起は、表立ってするかどうかは別に、これからも何らかの形で継続して行うとしても、ではその先に何が可能なのかについても、「♭」での実験を終えた次として、自分で実践しながら模索していかないといけないようにも思える。
ともあれ、この記事のお陰で、50年も前から、一貫した問題意識でありながら様々な角度から闘い続けている能勢さんの姿勢と迫力がインタビューから充分に伝わってきた。
こんな時代になり、以前と比べて僕の話にも耳を傾ける人は増えたとはいえ、大半は混乱かバカ騒ぎしている社会を相手にして、ここ最近は自分の無力さに打ちひしがれていた。もう、一人静かにひっそりと山に籠ることさえ考えているぐらいだ。
だが今もって闘い続ける能勢さんの姿勢に勇気を頂き、無力感を感じている場合ではなく、もう少しだけ試してみるかと奮い立たせる気にもなる。こうして気づきと勇気を与えてくれたことに、心より感謝。

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●6月17日/17th Jun
政治を考える上で、軍事に対する知識がないと表面的になる。だが、これからの軍事は今までの軍事とは全く別次元に突入していく。人工知能の発達は自律型兵器に目覚ましい進歩をもたらし、もはや人間の判断を介在させずに戦闘行為を行える兵器は普通に存在している。
アメリカは人間の意思決定を介在させる法案を持っているが、ロシアと中国は未だなく、核兵器に対するような国際的な枠組みもまだ存在しない。このまま行けば、今世紀の後半には戦場には誰も居なくなり、兵器だけが撃ち合うようになるだろう。
シンギュラリティ以降の量子コンピュータをベースとした超絶知能が、自律型兵器をコントロールするようになると、その攻撃対象が、必ずしも敵国だけとは限らなくなる。ローザンヌ大学での実験結果のように超絶知能がもし自己生存を志向するようになると、人間を攻撃対象にしないとも限らない。
それ以外の色々な状況を考えると、この20年ぐらいのテクノロジーの進化が、次の200年以内に人類が滅びる確率を上げそうにも思える。

●6月18日/18th Jun
今夜の社会人大学院の「風景進化論」は、PerspectiveとLandscape の話。前回のOrigineは有史以前から原始にかけての話だったが、今日は古代から近代の手前まで一気に話をする。
冒頭の雑談では、ここのところ少しだけ調べている、最新の軍事兵器と人工知能の話をした。この話はおそらく他では聞けないので、時間に遅れずに出席して聞いた学生はラッキーだったかと。
前半のPerspectiveでは、和辻哲郎の「風土」の話からスタート。各地域の人々のモノの見方や文化が、いかに土地の自然から影響を受けているのかを話す。和辻はあまり語っていないが、僕自身は「海洋の民」が持っていたまなざしに注目しているので、オーストロネシア人とかバジャウ族とかのあたりを詳し目に語ってしまう。 
歴史の長い間、人々は全ての自然に対して特別な視覚的価値を抱いていたわけではなく、特定の名所のような場所に限り、しかも視覚以外の方法で楽しんできた経緯を説明する。「眺めの価値」以上に、「意味」の方が重要だった古代から中世で、聖地巡礼が持っていた役割や機能についても語る。それは現代のアニメの聖地巡礼と連続していることもいくつかの事例とともに説明した。
人々の自然観やコスモロジーが最も現れるのは庭であり、それはどのような違いがあるのかを、丸山真男の江戸の政治思想を引き合いに出しながら、作為と自然の違いを語った。途中でアリストテレスの論理学についても寄り道する。
後半のLandscapeでは、中世まで一気に時計を進めて、ルネサンスと大航海時代のヨーロッパの勢力争いの話と、旅の持っているまなざしの転換の話をする。
12世紀ルネサンスの頃のアレクサンドリアとトレドにも軽く触れたが、ルネサンス期のヴェネツィアとジェノヴァが制していた地中海から、15世紀以降に大西洋へと航路が移る中で、世界へのまなざしがどのように変わっていったのかを見ていく。
そうしてまなざしの転換が、17世紀の科学革命と宗教革命につながる経緯、そしてそれがデカルトの主格二元論や、セザンヌやロラン、ホッベマのような風景画へと絵画の主題が転換することをいかに促したのかについて解説する。
特にデカルトが指摘する「客観」の誕生が、対象からの距離によって条件づけられることに焦点を当て、「風景」という概念が、「脱出のまなざし」から得られることについて、僕なりの解説を加える。
イギリスで流行したクロードグラスを紹介しながら、ピクチュアレスクとサブライムの概念を説明し、現実よりもメディア化して切り取られた風景を見るフォーマットが、現代のインスタ映えにまで影響していることを説明した。
この講義は、様々な学問分野からの知見を包括的に盛り込んで、まなざしの変遷を辿るので、おそらく聴いている方々は、ついてくるのに精一杯だと思う。皆さんパソコンでパチパチメモしながら聴いているが、過去に教えた経験から言うと、ちゃんと画面見て、手書きで必死にメモ取っている学生の方が理解の度合いが高いように思える。
質疑応答では、どうすればモノの見方を変えれるのか、というよくある質問が出たので、「どうすれば」というノウハウにこだわっている間は変わらないかもしれないと、複数の角度から丁寧に回答した。今日はかなり色んな事例から、客体化することの重要性を話したつもりだが、社会人はなかなかモードの切り替えが難しいように見える。

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●6月20日/20th Jun
朝から原稿の詰め。一度は書いたものの結論部分にずっと違和感を感じていたが、昨日ぐらいからその正体が見え始めた。前著の時も結論だけを最後まで悩み抜いて、延々とバルセロナのゴシック地区を彷徨いながら、頭の中で組み立てていたのを覚えている。座って文字と向き合うよりも、歩きながら考えているときに光が降りてくることが多い。

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●6月21日/21th Jun
朝から品川で打ち合わせ。4件の打ち合わせのうち1件はオンライン。東京まで来ているのだが、会えないという。

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諸々の打ち合わせを終えて目黒川に佇む。今日は全てが隙間なくオンタイムに運んだ1日。偶然の出会いや本質的なディスカッションも出来て、有意義な時間だった。宣言明けのせいなのか、久しぶりのせいなのか、東京は空気が落ち着いているように思えた。何とも窮屈な世の中になってきたが、こんな時だからこそ見つめねばならないものがある。昼の長さが折り返す夏至の空。

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●6月22日/22th Jun
品川で打ち合わせを終えて上野まで。東京都美でイサムノグチの展覧会がやっているので覗く。仕事柄、イサムノグチのランドスケープ的側面に目が行きがちだが、彫刻家としての仕事が素晴らしい。特に晩年の石の彫刻は自我がどんどん抜けていき、素に帰っていくように感じた。
一番良かったのは最後の「石の庭」と題して展示されていた中でも、最もプリミティヴな彫刻。初期の頃に懸命に模索されていた造形が、すっかり抜け落ちて、山の中にある変哲のない岩のような様相をしている。結局は自然の石が成りたがる形が一番良いのだ。
アーティストには方向性として大きく二つあるように思える。一つは自我をとことんまで追求していく方向。もう一つは自我をどんどん無くしていく方向。イサムノグチは間違いなく後者に当たるのではないかと思う。ランドスケープアーティストの大先輩としてレスペクト。

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●6月25日/25th Jun
本日の社会人大学院の講義は、IDENTITYとMEDIAについて。いつも最初に雑談するが、今日は皆さんが今気になっているワクチンのことについて、自分の考えを共有する。おそらく、ほとんどの人は整理ついていないことや、知らない情報も含めて、対面講義でしか言えないようなことを色々話した。(こんなこと書くと、教えて欲しいとメッセンジャーを送ってくる人がたまに居るが、対面でしか言えないので勘弁して欲しい)
講義の前半のIDENTITYでは、風景が持つ政治性についての話からスタート。封建社会から主権国家体制に移る中で、極めて個人的な風景という美にまつわる概念が、いかにして政治的な合意形成に利用されていくのかを考察する。
そこから国立公園制度の誕生の経緯とともに、風景保護と自然保護、保存と保全の違いなどについて解説する。風景は変化していくのが本質なのに、なぜ私たちは、故郷の風景が変わってほしくないと望むのか。そこに潜む風景とアイデンティティとの関係を紐解く。
私たちのアイデンティティは記憶や歴史という根拠を必要とし、それを担保してくれる対象物を必要とする。歴史的街並みや建造物の中にそれが込められるが、どの歴史を残すのかに政治性が潜んでいる。選ばれた歴史が私たちの認識をつくるが、誰がどのような意図の下で選ぶのかは、無意識化されがちだ。そんな捏造される歴史を軸に話を進める。
最後の話題は、観光化社会とともに、地域のアイデンティティを決定するのは、地域の外の人々に移りつつある現状について見て行った。アーリの観光のまなざしやオーセンティシティ、ブーアスティンの擬似イベント、ドゥボールのスペクタクルなどの概念も紹介する。
休憩挟んで後半のMEDIAでは、そもそもメディアとは何かについて、イニスやオングやマクルーハンなどから紐解く。メディアとは単なるツールを超えて、我々の知覚を形成するものであることを確認していく。
その次にメディアが運ぶ「記号」についてパースの記号論などを援用しながら解説していく。活版印刷の発明とともに普及した書物と文字は、世論の形成を促し、それはメディアの発達によって複雑化していくことを見ていく。伊藤俊治先生が言うメディアの強度の重要性に、ハナムラとしてはメディアの軽量度という指標を付け加える。 
その次に、イメージの複製の話の中で、18世紀のターナーの風景版画がナショナルアイデンティティの形成にどのような役割を果たしたのかを見る。写真や映像などの複製技術の発達の中で、芸術がどのような変化を遂げてきたのかを、ベンヤミンの言うアウラやオリジナルの概念やソンタグの写真論などを交えて話しをする。
最後は、コピーが蔓延することでオリジナルが消失した社会に生きる我々のことを話題にした。ボードリヤールのシュミラクルやハイパーリアルの概念を紹介しながら、初音ミクや映画マトリクスなどを交えて、最後は現在の新型コロナをどう捉えるのか、まで繋げて冒頭の雑談を回収した。 
理解できるように丁寧には話すが、おそらく学生さんには初めて聞くような話ばかりで、目を回しているのではないかと。大学院の講義とはそういうものなので、まぁそれで良いかと思っているが、一回では多分把握できないだろうとは思う。何年にも渡って聞く学生もいるが、残念ながら今年で最後なので、来年からはもう開講されない。要望と機会があれば大学外でやるのも一つか。

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