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「仮説の証明」(2021年4月)

●4月2日/2nd Apr
全体を全体としていきなり理解するためには、自分が部分であることを放棄せねばならない。人は部分なので個人である以上は全体を理解出来ないが、直感的悟性が働く時に、全体が垣間見える瞬間がある。 

●4月3日/3rd Apr
過去20年の自分の思考・活動・研究・表現を改めて整理し直していると、自分がその時々に何を追いかけていたのかが見えてくる。
どうやら20代は専ら「空間」について追いかけていて、30代は「意識」について追いかけていたようだが、それを経た40代は「時間」について追いかけ始めているような気がする。
もちろん一貫して「生命」についての関心があるのだが、だんだん核心に近づいているのだろうか。表現的には2018年に制作した「地球の告白」あたりから自分の表現が時間のデザインに関心が寄りつつあるように思える。
何の考えもなしに無意識に、研究室の壁にアルタミラの洞窟壁画の写真を9枚飾っていたが、よく考えると「空間」「意識」「時間」のどれも象徴していて、なるほどと思った。

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●4月4日/4th Apr
最近危機感を覚えているのは、僕などより、よほど頭の優れた方々が、簡単に騙されていたり、さらには騙されているとは露ほどにも気づいていない状況をよく目にすること。それどころか、間違った方を正しいと信じて積極的に加担している節もある。
育ちが良さそうな人に特に多いと見受けられるので、騙そうとする悪意に対しての耐性が弱いこととも関係するのだろうか。それ以上に、社会全体として哲学能力が必要とされない構造になって、随分経ってしまったことが大きいのだろうと推測する。
前々から事務処理能力と哲学能力は反比例する傾向があることには、思うところがあった。事務的に何かを処理していく時は、決められた手順に従って自動的に流していかねばならない。そこでは、いちいち立ち止まって、「なぜ」などと考えてはいられない。
そして、この社会の中では哲学能力よりも事務処理能力が高い方が、出世する構造になっている。だから哲学するよりも、簡単に答えや方針を決めて処理する方法を身につけることが「賢い」とされてきた。受験勉強を中心とした教育がその典型なのは、今更批判するまでもないが。
もちろん処理にも哲学にも優れた人もいるが、流して片付けることと、立ち止まって考えることは脳の使い方が違うので、どちらかのモードに偏りがちだ。そして処理する能力を求めてきた社会のせいで、極限まで哲学能力が下がったところに災害がやって来た。
それを機に考え始める人も出てきたが、社会全体としては、物事の真偽を見極めずに、あっさり答えを決め込んで処理だけ進めた結果、引き返せないポイントがもうそこまで迫っている。
もちろん、かなりの数の人が、社会が提示するもっとらしい答えに違和感を持ち始める状況はこの一年で増えてきてはいる。人は騙されたことに気づくと、用心深くはなるものだ。
しかし、騙されることへの耐性の低い人が懐疑心を持つと、もっと騙しやすくなる。耐性が低いと、正反対のものをあっさり受け入れてしまうからだ。それを繰り返していると、何が真実かわからなくなっていく。そうやって社会には混乱と分断が生まれるのだ。
だから今起こっていることは、決して天災ではなく人災という側面の方が強い。もう長いこと、モノの見方について訴えてはきたが、ポジティブな言葉しか届かない現状に少々疲れたこともある。この状況に諦めかけているので、もはや耳を傾ける人にだけ語りかけることぐらいが、モチベーションとしては精一杯かもしれない。
まなざしを変える気のない人を無理に変えさせようというのは不毛だ。これほどのことが起こっても、見方が固定化されているのであれば、もはや外から誰かがどうこうする話ではないのだろう。社会をどうにか出来るとは思っていないが、それでも出来ることがあるだろうと、まだ少し頑張ってみるつもりだが、それもどうにもならなければ、姿を消すのも一つの選択だろう。
この世の全ての物事は相対的なものであり、見方によって事実はいくらでも変わる。だから事実らしいことに疑いを向けて、さまざまな角度からまなざしを向けて哲学することが重要なのだ。それに気づいて、静かに賢く状況を見つめる人が増えていることを願うばかりだ。

●4月6日/6th Apr
「色彩」や「時間」に関しては、本来は物理学の領域ではなく、認知科学の領域だ。物理学として取り扱えるのは、せいぜい「光」や「速度」なのだが、そのモノサシでこれらを扱うので前提から間違えるのだと理解している。

●4月8日/8th Apr
もう3年か、時間の流れが早い。

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●4月9日/9th Apr
恩師が事務所を開設したので、開所祝いに訪れて2時間ほどディスカッションする。一年前に話した時はパンデミックが始まった頃。その頃に僕自身の社会状況の読み取りについて色々と話しても、おそらく一蹴されて共有できなさそうだったので言葉を控えていた。
だが、一年経ってさすがに少しおかしいと思い始めているように見受けられたので、知っていること、考えていることのほんの一部を話してみた。言葉にうなづかれている部分が以前よりも多く、神妙そうに耳を傾けて、頭を抱えておられた。
僕は風景異化を研究しているので、社会の前提を疑っている。だが、社会性の強い研究領域に居ると、社会と同化しがちだ。同化するとその外側からの見方が難しくなることがある。
今のような社会全体に風景異化が起こるような異常事態では、逆に異化が当たり前になっている。社会が異化に同化してしまう状況では、今度は異化を異化せねばならないという厄介なことが必要になる。
ただ、見方さえ示せば、自ら考える能力の高い人はドライブし始める。補助線があれば知識や情報は後でついてくるからだ。自分の役割があるとすればその辺りだろうが、この一年前を経て人々の認識はどうなっているのだろうか。

●4月10日/10th Apr
言語化は割と得意な方だが、言葉は単なる道具であり、万能だとは全く思っていない。むしろ言葉で表現できないことがあるからこそ、言葉で迫れる限界を知りたくて、敢えて言葉にしてみるという動機の方が自分としては強い。言葉にインスパイアされて非言語表現をすることの方が自分は多いこともある。
だが一方で、非言語イメージも言葉と同じく単なる道具であり、万能なものではないとも思っている。しかしここのところ、どうも言葉以上に非言語イメージが、神秘化されがちな風潮と、機能化されがちな現状があることに違和感も覚える。言葉の力を過信することが愚かなように、非言語の力を過信することもまた愚かなことだ。
どちらも頭や心の中にあるものを表現するための道具であるとすれば、その道具をいかに使いこなすのかの方が大事だ。だがそれ以上に、頭や心の中に何があるかの方がより重要だ。たとえ道具を上手に使いこなせたところで、頭や心の中がもし貧しいのならば、表現されるものも貧しくなるだろう。
一方で道具というのは、頭や心の方向を導き、表現される内容や、その前提条件を作る。ギターで作曲するのとピアノで作曲するのでは、曲のトーンは変わってくるように、どんな道具を使うのかによって、何を感じて、いかに考えるのかが方向づけられるからだ。
そういう意味で、言葉やイメージも単なる道具にはとどまらない。どんな言葉を使い、どんな表現媒体を持っているのかは、世界をまなざし我々の瞳にカラーフィルターのついたメガネをかけてしまっているようだ。

●4月11日/11th Apr
「理性は生成するものを、悟性は生成したものを相手にする。理性は『何のために』などということを気にしないし、悟性は『どこから』などということを問うことがない。ー理性は発展を喜び、悟性はすべてを利用するために、あらゆるものを固定しようとする。(『箴言と省察』)」

誰もが本当は、もう十分じゃないかと心の奥底では知っているはずなのに、なぜまだ欲しがるのかの理由も分からず、ただただ今に不満と不自由を感じて、今の満足と自由を手放そうとしている。
あなたが本当に欲しいのは、そんなものじゃないだろうし、ただほんの少しだけ楽になりたいのだから、それほど多くのものは必要なくて、たった一つのものだけ手に入れば、実は十分なんじゃないのかい。

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●4月12日/12th Apr
この週末に初めてブックオフでコミックを売却してみた。ゼミの学生が卒論で「鬼滅の刃」の研究をしていたので、全巻購入していたのだが、卒論終わったので必要なくなったからだ。
古本売買のシステムで興味深いのは、全巻揃っていると買値も売値も高くなることだ。バラ売りで買ったり売ったりする方が安くなるため、バラで一つ一つ買って、まとめて売った僕はおそらく買った額よりも売った額の方が高くなっているのではないか。
卒論では、「鬼滅」がここまでブレイクした理由を、マーケティングという外部要因と、物語コンテンツの内部要因から分析したが、この10年ほどの期間にヒットする少年マンガにはある共通した傾向や特徴が見られるのが興味深い。
「進撃の巨人」「東京喰種」「約束のネバーランド」「鬼滅の刃」「呪術迴戦」など、特にアニメ化されるような作品には、一見すると気づかないような微妙な意識の方向づけや、共通したキーワードや物語設定などが見られるのはおそらく偶然ではないはずだと勘繰っている。
学生の卒論は比較研究ではなかったので、そのディスカッションはしていないが、個人的に色々と気づいたことがあり密かに分析していると、なんとも怪しい匂いが漂っている。

●4月14日/14th Apr
研究において仮説は重要だが、仮説を立てるとそれを証明したくなるという罠がある。仮説に合うような形でしか物事を見れなくなるので、客観性が失われる。
だから仮説を立てる前の観察の方がはるかに重要だ。その際に解釈を入れない分析的な観察が必要であり、しかも詳細なフォーカスと広範囲のズームアウトを混ぜた方がいい。
専門的に物事を理解するのはいいが、専門家になってしまうと、それに合わせた世界の把握をしがちになる。だから一番いいのは、普段から色んな物事に関心を向けるが、それには執着しないというスタンスかと。

●4月15日/15th Apr
ニュートラルに物事を見るというのは、楽観的な見方も悲観的な見方もせず、現状を現状としてそのまま見ること。良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかの価値判断が入った時点で、それは既にバイアスが入っていて、全くニュートラルではない。
ひとまずはこのラインで、自らの見方をチェックするのが基本だが、まずこれだけでも難しい。しかしその次には、既に持っている知識や情報、常識や認識によって、バイアスがかかっていることを疑わねばならない。文化的、政治的、慣習的なバイアスは、生まれた頃からある事が多く、自分の意識の外側にあるので見えにくい。
さらに、自分の利害のバイアスがかかっていることは見えないというより、認めたくないことが多いので、これも見方を曇らせている。利害とは金銭的なことだけでない。損得や名声、信念や理想の実現、そして自分の承認など、さまざまな利害が無意識に働いている。自我は普通に生きていると外れないので、ここは極めて難しい。
最も崩し難いバイアスは生物学的なもの。我々はヒトという種が有する感覚を通じてしか世界を把握出来ない制約がある。このバイアスは生物的な制約を外さない以上、ほぼ不可能だ。計測機器を使うことでその制約が外れる範囲が少し広がるが、そうであってもその計測機が捉えられる範囲にとどまる。
意識の力を使うことは突破口にはなるが、記憶や妄想、感情に囚われた状態では、かえってニュートラルとは正反対の方向へ向かう。だから基本的に、我々はニュートラルに物事を見ることが出来ないのが通常だ。そのことを理解しているだけで、少しでも謙虚になれるのではないかと思う。
もちろんニュートラルになど見たくないと、自分の見方を狭めていき、それだけに固執するのは本人の自由だが、それは実は不自由な方向であり、苦しみを増すので不憫でもある。自分の見方を大事にするのは良いが、それを広げていく方向に向かった方が自由になる。

●4月20日/20th Apr
目の前の問題解決に集中していると、もっと大きな問題が進んでいることに気づけなくなる。歴史の渦中にいる時には、何が正解で何が問題かが見えないので、正しいと信じていることが正反対の結果を生むことが分からない。
今、我々が目を奪われている問題など因果の始まりに過ぎないが、自ら選択しているという自覚もないまま、因果の流れはその方向に転がっていく。小さな苦しみを和らげたいと選択したことが、後に大きな苦しみとなることを、愚かな我々には分からないのだ。

この段階に至っては、もはや何を知っているかではなく、どこまで誰に言っていいのかが問題になる。知っている人には言う必要はないし、知りたくない人には言う意味がない。知ろうとしない人には言っても届かないし、知っていると思い込んでいる人には、言うと反発されるだろう。
知らないということを知っている人に言っても、知りたがるとは限らないし、知りたがる人は耳を傾けるかもしれないが、言っても自分が知りたいことだけ受け入れるだろう。
そう考えると、言葉を紡いでも意味を見出せることはそれほど多くはない。だから具体的・個別的なことではなく、抽象的・普遍的な言葉にならざるを得ない。不遜だと思われることは甘んじて受け入れるしかないだろう。

●4月21日/21th Apr
僕が監督させて頂いた映像「Seeing Differently」について、「寺社NOW」さんが海外の映画祭での連続受賞をきっかけに、丁寧なインタビュー記事にして下さいました。映像では寺社編があるのですが、その話から話題を膨らませて下さってます。
既に観光については2年前とは状況は一変してますが、視線のあり様については、今でも変わらない部分があるのではないかと思います。全国の寺社の方々にとって何か参考になれば幸いです。

ハナムラ監督の観光マナー啓発動画が海外連続受賞! 世界の⾒⽅を変える「まなざしのデザイン」とは!?

●4月21日/21th Apr 02
何かを「受け入れる」というのは、受け入れたくない気持ちとの葛藤がある。だから受け入れることを問題にしている間は、本当は何かを受け入れているわけではないのだろう。本当に何かを受け入れていれば、受け入れるのではなく「腑に落ちる」という感覚を持つだろうからだ。
日本語はよくできているもので、受け入れるというのは頭や胸のあたりまでだが、腑に落ちるは腹の周辺だ。身体の中心に来て、初めて自分とそれが一体化する。

●4月22日/22th Apr 
色彩について調べていて、複雑な波の解析に用いられる、フーリエ変換とウェーブレット変換でどういう違いがあるのかを自分なりに理解しようと努める。
フーリエ変換は、音波のような複雑な波形を三角関数で分解して、扱いやすくする解析手法だが、周期関数と非周期関数とで、スペクトルが異なる。振幅と角振動数に着目してスペクトルを書くと、周期関数だと離散するが、非周期関数だと連続する特徴がある。
ウェーブレット変換は、名前の通り複雑な波形を「小さな波」に還元して、局在する波を扱うので、ある部分を切り取る窓関数を取って時刻tの周辺の波の振動数を解析する短時間フーリエ変換(STFT)と似ていると理解した。
窓関数を取る際に時間の窓の幅を∞に近づけていけば、振動数の窓の幅が限りなく0に近づいていくあたりが、量子力学的な問題と接続することは興味深いが、ウェーブレット変換ではそこが解消されて、時間と振動数の同時計測が出来るという理解で良いのだろうか。
窓の幅がどこでも同じなのがSTFTの問題で、どの時間、どの振動数でも同じ幅であれば高振動と低振動で誤差が生まれるという問題もある。もう少し理解を深めたいので、このあたりを専門にしている数学者に聞いてみた方が良いのだろうか。

●4月23日/23th Apr 
生殖細胞は細胞の始まりなので、どんな細胞にでもなれるため全能性がある。再生医療が目指すのは、その状態へ細胞を初期化することであるが、その初期化を維持するのに、ゲノムの配列を書き換えるレトロウイルスが関与しているというのは、興味深い仮説だと思う。

●4月23日/23th Apr 02
欧米諸国は簡単に同調しないので、法による規制を厳しくせざるを得ないが、日本は同調圧力で勝手に従うので管理する側からすれば簡単なもんなのだろうな。同調圧力でこの国は滅んでいくのか。

●4月24日/24th Apr 
知らない間に、拙著「まなざしのデザイン」が第三刷になったようだ。日本造園学会賞を頂いたこともあるが、それ以上に高校入試や模擬試験などで結構採用されているので、哲学領域からの国語の本として地味に広がっているのかもしれない。
昨年は宗教学者の鎌田東二先生との対談本の「ヒューマンスケールを超えて」を上梓したが、こちらは宗教系の対談本ということもあり、一年ではまだそこまで拡がっていないようだ。だが、コロナ禍の世界で改めて、強いメッセージとして響くはずだと思っている。
もう10年ぐらい、聖地のランドスケープを巡ってフィールドワークを続けてきたが、そろそろ考えをアウトプットをしていかねばならないので、準備に入らねば。その足掛かりとして鎌田先生にエールを頂いた本なので、是非お読み頂ければ幸い。

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●4月24日/24th Apr 02
6年前にはフランスの現代思想に関心があったみたいだ。

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●4月25日/25th Apr 
次の著書の原稿に追われるが、状況の変化が早すぎて、出版の時期にどこまで前提にしているかを予測せねばならない。社会がいつ頃、どこまで気づくのかによって、書き方のトーンが微妙に変わってくる。
一年前に書いた論考は、その時期にはまだ誰も言っていなかったから投げかける意味があった。この一年で同じような角度から冷静に社会を見る人がわずかながら増えてきていることに、自分の論考が何かの役割を果たしたと思い込み、奮い立たせる。
では半年後に、それが社会の主流になっているとは到底思わないが、一部の人には当たり前の認識になっている可能性はある。そう簡単に消費されるような浅いことを書いているつもりはないが、逆に提示するタイミングが早すぎると認識が追いつかないので、何のことか理解できないかもしれない。
だから時流のトピックを中心には据えたくないのだが、考えている以上に社会の認識の穴が大きいことに問題意識がある以上、仕方あるまい。僕一人が書いたところで、この社会に影響を及ぼすとは到底思えないが、その期待を持たねば書く動機を失う。

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●4月26日/26th Apr
物事には大きな分岐点となるクリティカルポイントがあり、そこでの選択を間違えると、後々にどうにも引き返せないことがある。それは長尺で見ないと分からないことで、短視眼的に問題を見ていると、どこがクリティカルポイントかを見逃す。この2020年からの数年間は、歴史を振り返るとクリティカルポイントとして認識されるだろう。
既に私たちは選択を誤っていて、このままではさらに大きく選択を誤りそうだ。社会全体で浅薄な判断をすれば、後ほど大変なことになるだろう。だが、その責任を問われる人は20年後、30年後にはもういなくなっている。彼らはそのことを知っているので、短期的な評価や瑣末な問題解決だけ求めて無茶なことをする。もしくは、既にしてしまったことを取り下げれなくなり、クリティカルポイントを過ぎたため、もう引き返せないのだろう。
だが、子供たちはどうなるのか。智恵のない大人たちが生み出した社会やシステムを、子供たちは何も知らずに受け入れるしかない。いま選択を間違えると、後々それが大変な結果を生むかもしれないのだ。自分のことだけ見て、今の不安や欲望だけにとらわれて混乱している場合ではないだろうよ。だから今の正解として提示された、もっともらしい情報を鵜呑みにせずに、しっかりと大人が自分の頭で判断しないと。

●4月28日/28th Apr
これまでの資本主義が良かったとは、個人的には全くもって思っていない。だが資本主義批判をする経済学者が増えてきたことの裏側に何があるのかを、慎重に嗅ぎ取るべきだろう。
今の時代、ある思想や批判が持ち上がってくるというのは、裏側でそれを利用しようとする人々がいることであり、思想を唱える当人の意図の外側に、大きな動機がある場合がある。適切なタイムラインで適切な思想とシステムにスポット当てれば、意図通り適切に管理できるのだから。
だから注目を集める学説や人物、もっともらしい理論や活動には簡単に飛び付かず、静観するのが賢い態度だろう。それは信じることでもなく、無関心を装うことでもなく、裏側を見極めるということかと。所詮、人間の考えることだろうよ。

●4月29日/29th Apr
身体感覚を伴わない理論は、抽象的なのであんまりリアリティが湧かない。だがそれ以上に、最初の前提条件を間違える可能性がある。その後の理屈が全て整合していたとしても、最初の出発点を間違えたままだと、その一点が崩れると全て意味を失う。
大体にして人間は出発点を間違えているので、いつまでも苦しいままだ。その埋め合わせにいくら高尚な理屈を並べられても、響かないというより不憫に見えてくることがある。人間ってそんなに偉いのかね。

●4月30日/30th Apr
次の著書に向けた原稿が、ひとまず最初の脱稿。A4で118ページぐらいで、結局全部で14万字ぐらい書いた。構想ではこれはまだ1/3だが、ひとまず一冊目として世に問うてみる。
新書になる予定ではいるが、内容が内容なので、この部分だけだと真意が伝わるかどうか分からない。最後まで書き切ってこそ意味あると思ったが、トピック絞って書かねば出版も出来ないか。
明日からリトリートに入るので、その前に終わらせたかったが、ひとまず終わってホッとする。明けてから読むと、また違うのだろうな。

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