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「都合のいい解釈」(2021年5月)

●5月1日/1st May
今日からしばらく某所に籠って修行に勤しむ。連絡滞りますが悪しからず。

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●5月3日/3rd May
自分の観察を小休止して水辺に来る。
生き物を観察していると、常に何かを探し求めている。大体の場合はエサを探しているので、目的は明確だ。でも、なぜエサを探すのかの理由は分からないままで探している。
人も同じで常に何かを探し求めている。だけど、人の場合は自分が何を探しているのかを知らない。だから見つかるはずがないのだが、それでも探し続けることは止めれない。何かを手に入れたら見つかったと思うが、それはほんの束の間のことだ。
何を手に入れたとしても、また探し始めるだろう。そうやって自分が何を探しているのかも分からず、永遠に探し続ける。何度死んでも、何度生まれても。仏陀はそうやって探し続けることをEsanaと呼んだ。

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●5月4日/4th May
無常と苦を自分のうちに発見するのは、比較的初期の段階で出来るようになるが、無我を発見するのは容易ではない。修行の仕方を変えねばならないからだ。正確に言うと修行の仕方は変わらないのだが、気をつけるべきポイントが変わってくる。
最初からずっと繰り返し語られていることなのに、その意味が腑に落ちないと、何を修行しているのかを分からないまま闇雲に続けてしまう。だが、腑に落ちた瞬間、途端にやり方が変わる。何をいかに見つめるのかが変わる。とはいえ、出来るようになることとは別で、すぐに発見ということにはならない。
十二縁起と悟りの階梯の説明はよく出来ていて、論理的には全て説明されている。中でもポイントは「受」にあると理解した。我々にコントロール出来るのはその一点のみ。受の正体を苦のグラデーションとしてちゃんと理解することで、渇愛のプロセスに進むことの歯止めになる。すぐに元の癖に戻るので、これをリアルにするためには、ひたすら観察しかないが熟達には時間が必要か。

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●5月5日/5th May
ハナムラがアドバイザーとして関わっておりましたAAP(芦屋アートプロジェクト)のウェブサイトがリニューアルされました。2018年、2019年と続けてきた活動のアーカイブが充実しております。

かつて芦屋を中心に活動した具体美術協会の精神を受け継いだこの活動は、コンテンポラリーダンサーの岡登志子さんを実行委員長に2018年から始まりました。現在は芦屋市在住の多木秀雄さんが実行委員長として活動されております。
ハナムラは2018年に講演させて頂き、具体美術の研究者でもあられた故河崎晃一さんとの対談、そして芦屋にアトリエと美術館を構えられているファッションデザイナーのコシノヒロコさんとの対談もさせて頂きました。

2019年には旧宮塚邸住宅にて、行われたトークセッションに、岡さんと、具体の研究者である加藤瑞穂さん、そして実行委員の神戸大学で文化政策がご専門の藤野一夫先生、アートプロデューサーの加藤義夫さんと共に、ハナムラも登壇しディスカッションに加わりました。
ここでのディスカッションは、芦屋のみならず文化行政や現代アート全般についての論点が豊富に詰まっております。トーク内容の全編をPDFでご覧になれますので、是非ともご一読頂ければ嬉しく思います。
不自由で不寛容さが拡がっている今の時代だからこそ、具体が掲げていた「精神が自由であること」の大切さを多くの人と共有出来ることを願っております。

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●5月5日/5th May
休日の最後の1日は日常生活に戻るためのバッファとする。この数日は世間の情報を取っていなかったが、並んだニュースからは、さらに社会の集団狂気が悪化しているように見える。もう喜劇にしか見えないので、笑うしかないのだが、一体どれぐらいの人が理解してるんだろうね。

●5月8日/8th May
先日、学部の学生が先生に聞きたいことがあると訪ねてきた。普段自分が疑問に感じていて、どう考えればいいのか分からないことを、尋ねたかったようだ。
丁寧に質問項目まで書き出してきていたが、大半は学問的なことではなく、これからの生き方や人間関係の中での考え方についてだった。
その場で哲学しながら、一つ一つ丁寧に答えていく。その上でこれからの時代や今の社会状況の読み取りや、僕自身の価値観についても共有した。
熱心に耳を傾けていたのと、理解度に合わせながら言葉を紡いでいったので、彼なりに十分なほど腑に落ちたようだった。懸命にメモも取っていた。
おそらく、自分の周りに確信を持って生きてそうな大人がいなかったのだと思う。だから、確信を持っているように見える人の話が聞きたかったのかも知れない。
あらゆる価値が相対化されてしまい、しかも一瞬にしてその価値観すらも反転した時代だ。誰も確信など今さら持てないのは無理もない。
そんな中で耳を傾けるべき相手と見込まれたのだから、何がどこまで確信持てていて、何が分からないのかを確かめ合う。惜しみなく考えを話すことも、何時間も話すことも、全く疲れも感じない。
一方で、相手の言っていることを聞かずに、自分の言いたいことだけを主張する大人を相手にせねばならない時は本当に疲弊する。こちらが話し始めても、聞いているフリするだけで聞いていない。それが見えるので、すぐに疲れてくることになる。
相手の言っていることを理解した上で、何かを主張する人は、ちゃんと相手の話を聞いている。だから、例え意見が違っても、そこに何らかの妥当性や論理性が見出せる。だが話をじっくり聞かずに、自分の主張だけを差し込むのであれば対話にならない。
そういう人は、助言を求めにきているのにメモを取らないし、質問もしてこない傾向が見られる。自分の主張に合う同意を求める確認だけが、こちらと何かを共有する唯一の接点になりがちだ。それは自分が「理解できなかったこと」を見つめるのではなく、「理解できること」だけにフォーカスしているからだろう。
見渡せば、自分の見ている世界が全てだ、と疑いもしない大人ばかりだ。だから若者は大人を信じないし、今の社会も救いようのないことになっていく。確信が持てない時代だが、確信というのは何万回もの自問自答と自分の考えへの疑いのプロセスの中で培われていく。
相手の話を聞かず、自分の考えを疑ったこともなく、都合よく解釈することしか出来ないなら、どうして確信など得られようか。それは妄信でしかない。だが、不安な時代では人は疑うことより何かを妄信したいのだ。それが今の世のムードでもあるのだろう。

●5月9日/9th May
来年度から開講しようと考えている「デザインサイエンス概論」の準備のために、スライドの整理を進める。これは僕自身が唱える「生命表象学」と対になるもので、いわば実践編。
まだ試行錯誤の段階だが、ひとまず概論としてシナジェティックスやサイマティクスからゲーテ色彩論・形態論、仏教科学あたりまで広くカバーしようと画策している。どちらかと言うとサイエンス寄りの話。
だが、その中に「図像学」の回を一コマ設けている。現代アートがサッパリ分からないという人が多いので、アートこそ見方をみっちり指南しようかと。アーティストやデザイナーと呼ばれる方々でも実は理解している人は少ない。
アートというのは基本的に「見る」ものではなく「読む」ものである。まなざしの向け方を少し変えて、読み方が分かるとアートは俄然興味深くなる。それだけでなく、実は芸能やアニメ、政治や報道などの文化表象の読み方が変わる。
多くの人は作り方にフォーカスするが、読み方のほうが役に立つし、実は本質的だ。医学も政治も読み方の方が重要だし、インテリジェンス活動(諜報活動)のほとんどは、情報をいかに読むのかにある。
見えない危険の方が多い現代では、読めないことは致命的だ。読めないから今何が起こっているのか分からずに、誰もが右往左往している。現代のハイブリッド戦争については以前論考にも書いたが、非常に高度で複雑化しているので、単純な読み方ではまるで分からない。
読み方が固定されて、いくら示しても変えるのが難しい大人たちの社会をどうこうとするよりも、崩壊後のことを考えて、若者に読み方を仕込む方が意味あるのではないか。

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●5月12日/12th May
これまで開講してきた「地域デザイン論」の講義の中でも、歴史や時代背景を説明するのに西洋絵画を度々取り上げてきた。だが、逆に西洋絵画を主役にした講義では、歴史や時代背景を西洋絵画の読み解きに反転する必要がある。
絵画を主軸にするので、マニアックな話にならざるを得ないが、どこまでゴシップを盛り込むか悩ましいところ。ダ・ヴィンチやニコラ・プッサンの絵に隠された秘密ぐらいはまだ読み解きの範囲としても、ゴッホが本当は耳を自分で切り落としたのではないという話とか、セザンヌが生涯描き続けたサント・ヴィクトワール山とピカソとの関係とか。
特に現代アート界隈はゴシップの宝庫。スーパーブランドがなぜ現代アートに力を入れるのかとか、ハリウッドスターとアートの関係とか。流石に陰謀論とアートの関係の話までは、大学の講義でするのはまずいので、スライドには出来ない。そんなことも含めて色々と盛り込もうと思うと、これだけで一つの講義をしてしまいたい誘惑に駆られる。

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●5月12日/12th May
現代アートの昨今の批評の趨勢について色々調べていると、小崎さんの本の中でボリス・グロイスの論文の引用があった。
批評理論が不在化してしまった現代アートの中では、アーティストたちが創作の根拠を、批評家が提示し得る理論の中に、もはや見出すことができなくなっている。それは確かにそうだと思う。
それに対して文中では、グロイスが「アートの主要な目的は、生のモデルを見せ、明るみに出し、展示することである」と力強く言ってくれている、という意味で引用されている。それはその通りなのだが、別の観点から興味深いと感じて考察している。
グロイスの書いていることは、現代で共有され得る価値観としては全て正しいし、ディテールの読み取りについても個人的には激しく共感も出来る。だが、具体の吉原治郎が唱える「精神が自由であることを証明する」とも重なるのは、仏教のフィルターで見た時に、見事に根底の問題意識が正反対なままで着地しているのではないかと思うこと。
もちろん西洋人の哲学者が書いているので、人間中心、意識中心の生命主義的なところに落ち着かざるを得ないのは仕方ないと思う。もちろん生が希薄化したこの時代に「生存証明」や「生の実態」を明らかにすることはアートの役割として大事だ。だが一方で、我々がこうであると思っているのとは全く異なる「生の真実」を明らかにするアートのあり方に、個人的には可能性を感じる。
次の批評理論が出るとすれば、おそらくこの問いを乗り越えることにあるのではないか。だがそれは、我々が「受け入れたくない」事実と向き合わねばならないことを意味するだろう。
「我々は自分の誕生に立ち合わず、自分の死にも立ち合わないだろう。だから、自己省察を実践するあらゆる哲学者は、霊、魂、そして理性は不滅であるという結論に至る。(中略)
時空間における自らの実存の限界を知るためには他者の眼差しが必要だ。私は自分の死を他者の目の中に読み取るのである。それゆえにラカンは他者の目は常に邪悪な目であると言い、サルトルは「地獄とは他人である」と述べた。
他者の俗悪な眼差しを通してのみ、私は自分が考えて感じるだけでなく、生まれて生きて死ぬことを知りうるのだ。
周知の通り、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べた。(中略)
たぶん私は自分が何を考えているか知っている。でも私は、自分がどのように生きているかを知らないし、自分が生きているかどうかさえ知らない。自分自身を死者として経験したことが一度もなく、生きている者としても経験することができないからだ。
生きているか否か、どのように生きているのかは他者に尋ねなければならず、それはすなわち、私が本当に考えていることも尋ねなければならないということを意味する。私の思考はいまや、私の生によって決定づけられていると考えられるからだ。
生きることは、生きている者として(したがって死んだ者としてではなく)他者の眼差しに曝されることである。いまや、我々が何を考え、計画し、あるいは希望するかは意味がなくなった。意味があるようになったのは、他者が見守る中で、我々の身体が空間内をどのように動いているかということだ。
このようなわけで、私が自分を知るよりも、理論が私を深く知るのである。(中略)
啓蒙時代以前は、人間は神の眼差しの支配下にあった。しかしそれ以降の時代には、我々は批評理論の眼差しの支配下にある。」

●5月14日/14th May
概ね建物のボリュームが見えてきた。模型で何度も何度もスタディして分かっていたとはいえ、やはり実物大になると相当インパクトがある。
中の仕上げで一部まだ確定していないところが残っているので、引き続きデザインを進める。おそらく建築では絶対に使わない素材を使用するので、どうなるか見えないが。

●5月15日/15th May
拙著「まなざしのデザイン」が、昨年度もいくつかの大学入試に採用して頂いたようだ。岐阜市立女子短期大学と鳥取看護大学らしい。
岐阜の方は生活デザイン学科の推薦入試の小論文みたいで、僕でも解くのが難しいような問題だった。もし拙著お持ちの方いたら、第5章の「旅人のまなざし」という節からの出題で、写真に問題乗せているので是非チャレンジ頂きたい。(実は答えを教えて欲しい...)
採用されたことは、著者に知らされることはなく、大体いつも後で連絡が来て知ることになる。それも過去問集に載せる許諾の場合が多い。
こんな形で評価されるとは、露ほどにも思わなかったが、出版から毎年コンスタントにどこかの入学試験の問題で採用されているのは、大変ありがたいこと。心より感謝。

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●5月17日/17th May
社会の不穏な空気がGW以降いよいよ顕在化しているとは思っていたが、先週からその流れが一気に加速しているように思える。日米の動きも、もちろんその一端ではあるが、特に中東でいよいよ始まった感が否めない。1871年の予想通りにならねば良いが。

●5月17日/17th May
本当に今更ながらではあるが...。エリアーデが晩年に遺した壮大な仕事「世界宗教史」のちくま学芸文庫のセット本を手に入れる。
ランドスケープからまなざし研究と聖地研究と生命表象学に向かう中で、宗教学は避けて通れない。鎌田先生や植島先生のお陰で少しは嗜んでいるが、学習量が足りないので精進する。

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●5月18日/18th May
話をする相手に、これまでの生き方や世界のあり方を見つめ直そうとする態度が見える場合は、いくら話しても疲弊することはないので、こちらも惜しみなく知っていることを分け与えたくなる。
ちょっと情報だけ知りたい、知識だけ欲しいという態度でアプローチされても一応話はするが、これまでのケースでは疲弊することがほとんどだった。自分は変わるつもりもなく、安全な場から覗き見てくる感じだと、僕にとっては無意味な時間になるし、お互い不幸なことになる場合が多い。
待機説法の方がやり易いのは、相手の中に疑問があるからだ。単なる好奇心ではなく、アイデンティティに関係した疑問がある場合は、説法が意味を持ち始める。

●5月19日/19th May
今日の社会人大学院の講義では対照的な質問が二つ。一つは僕がプロジェクトをする際に色々と人を探してくるが、どのように人とのネットワークを構築するのかという質問。もう一つは、会社が掲げる目標が抽象的なので、何をしたらいいのか分からず、どう考えればいいのかという質問。
一応、自分のスタンスとしては、基本的にこれまでも日常の些細なことから、宇宙の真理まで、あらゆる質問に答える努力をしてきた。だからどんなことでも回答をするが、いつも心がけるのは本人が欲しい答えではない角度から返すようにすること。
まなざしのデザインの話は基本的には個人のアティテュードに対して語りかけている。創造的に考えるためには、常識や自分を一度解体することが必要だ。その方向で話をしているので、メソッドを伝えるような話ではない。もちろん自分が手がけたプロジェクトや作品事例の話の中には参考になりそうなものは散りばめてはいるし、聞き方によってはかなり役立つとは思う。だが安易にメソッドを得ようというモードで聞いても何も得られない。
社会人にありがちだが、会社に長く勤めていたり、強烈に目的を持っていると、話を聞く際に何か使えるネタや方法論はないかというモードを外せないことが多い。そうなると自分の理解できる範囲、目的沿った範囲で使えそうなことだけにフォーカスして、それ以外は聞き落としてしまうことになる。
だが、ものを教わる中では、自分が理解できることよりも、自分が理解できないことこそ耳を傾ける態度が必要だ。その態度があるかどうかは、質問の仕方に如実に現れてくる。自分の理解したいことだけを拾い集めるための質問か、それとも理解できないことを確認する質問かは全く質が異なるからだ。
そもそも人とのネットワークを構築する以前に、なぜその必要性があるのかが盲点になっている。目的が見えなければ、誰と繋がればいいのかすら分からないのは当然だ。人と繋がれば目的が生まれるわけではないし、目的が明確であれば、自ずとどういう人の助けを借りねばならないかがみえてくるはずだからだ。
二つめの質問とも繋がってくるのだが、そもそも今掲げている目的は正しいのかということを見直す必要がある場合もある。どこの企業もこれまでのやり方ではうまくいかなくなっている時代だ。
だから何をしていいのかをもう一度見直すために、具体的な商品ではなく、抽象的に問題設定をする必要を感じている。サービスの質がこれまでと変わってきているので、どこの社の経営者もそうやって思考を1段階上げて模索する必要性を今感じているのだ。
だが一方で、抽象的な問いには抽象的にしか答えられない。抽象化することは目的から一度離れる上で必要なことだが、そこからもう一度具体的な目的にどうやって帰っていくのかが重要だ。それは簡単には見えないし、そこを考え抜く知的体力と創造性こそ身につけねばならないことだ。
だからこそ人とネットワークをつくることや具体的な目的を定める以前に、普段から勉強して幅広く色んなことを知っておく必要がある。多くの社会人大学院生は圧倒的にインプットが乏しい。量だけではないが、仮に本を週に一冊読んだとしても年間で50冊しか読めないのだ。
例えその量だったとしても、研鑽することを10年続けてきた人と、そうでない人の間には圧倒的な差が開くだろう。学部の学生のように若ければ、まだ挽回できるが、一定の年齢が来るともう埋められない差になる。
厳しいようだが、大学院で学ぶというのはそういうことだ。たった一つの結論、たった一つの言葉を書くために何十冊も読み、頭の中で様々な角度からチェックするのだ。そうなると言葉の重みが変わってくる。
見渡してみると、多くの人はテレビで言っていることを鵜呑みにし、ネットで手軽に得られる情報をコラージュして何かを語ろうとする。そのモードを外さない限り、残念ながら2年間という短い期間では何も得られないのではないかと思う。

●5月20日/20th May
現代アートの見方の講義を整理していると、盛り込みたい情報にキリがないので、一回では終わらない感じが出てきた。現代アートを理解するためには、それまでの西洋美術、特に近代美術への理解がある程度必要だ。そして20世紀に入ってからはムーブメントを理解するとともに、作家ごとにも見ていかないといけない。
芸術とは膨大な学問であり、感覚における実験である。その視点があれば、"自由に感じるまま見ればいい"、という取りつく島のない風景から少しだけ手がかりの地図が得られるように思う。

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●5月21日/21th May
不思議なものだ。手放した時に、ようやく得られるものがあるというのは。それは一度死を覚悟した者が、生きる力を得ることに似ている。
何かに取り憑かれていると、それ以外の可能性が見えなくなる。だが自分が最も失いたくないもの、手に入れたいものを手放した時に、モノの見方がリセットされて、ニュートラルなまなざしになる。その時に全く違う角度から何かを得るのだ。

●5月22日/22th May
あるモノを作る時に、建築的に考えると、工学的な発想で完全に制御しようという考え方だが、農学的な発想のランドスケープでは、自然をある方向に導くように条件を整えようとする。
0か100か、オンかオフかというデジタルな発想ではなく、その間のグラデーションであったり曖昧な幅を泳ぐことに意味があるものもある。施工の上で責任を取ろうとすると、完全にコントロールしたいという発想になるのは分かるが、そこを理解してもらえないと、何の面白みもないものになる。

●5月24日/24th May
19世紀末から20世紀初頭の諸々の社会状況を調べていると、共時的な出来事がたくさん見つかる。近代化と国際化という大きな波が押し寄せるので、地理的に離れた場所が共振するのは当然なのだが、それだけでは片付けられないシンクロニシティがありそうだ。
決して表には出なかったフロイトの晩年の研究や、近代化に直面して心理学が輸入された日本での仏教と催眠術との折り合いなど、人間の精神を巡る興味深い共振が見つかる。それらが芸術領域と無関係のはずはなく、表現主義やその後のブルトンはじめシュールレアリズムの動きへと繋がるのは必然だと。

●5月25日/25th May
記憶力は悪い方ではないと思うが、あまり自分の記憶を信じていない。今考えていることは、数分経てばすぐに消えることもあるし、その日に何をして何を考え、何を思ったのかを記録して、後ほど積分した時に、見えてくる人物像もあるだろう。
だからいわばアートとして自分の日々の出来事と思考のログを取るようにしている。その際に、将来の自分も含めた今の自分以外の誰かと出来るだけ共有可能な形で言葉にする努力をすることがポイントだと思う。
自分にしか分からないというメモは、自分という固定された不変の存在があることが前提だ。だが他の誰かに理解可能な言語にすることで、自分という罠を回避する確率を少しでも上げて、純粋な思考だけに出来ないものか。

●5月25日/25th May
本日の社会人大学院の講義は一コマ全部使って、学生の皆さんからの質疑に応える。全員企業にお勤めの方々なので、すぐ使えそうなノウハウ的な質問や、自分の事業に関係しそうなトピックが中心になる。
自分のビジネスに直結して使える所だけを頂こう、というのが社会人の基本スタンスなのは理解している。しかし、そう簡単に浅はかな答えは返したくないので、遠くから、また回り道しながら、色んな問いを投げながら最終的に回答するように勤める。周辺の話や実存の話を交え、本人が考えたことないであろう角度や、表面化されたくないであろうことも踏まえながら返さないと、聞いている方を自分の聞きたい事の外側に連れ出せない。
今日の会はマネージャーの要望もあり、応答を映像におさめているので、ひょっとしたらYouTubeチャンネルに例のごとく公開する機会があるかもしれない。でも好き勝手話しているので、聞く人が聞いたら怒り出す可能性はあるが、まぁまぁ本質的な回答は出せたのではないかと。あと、ちょっとだけコロナについても、世間では言ってはいけない事を喋ってしまったので、編集は必要だな。質問内容としては以下。
・デザイン思考については理解出来たが、アート思考をビジネスに活かすにはどうすればよいか?
・ハナムラのスピーキングスキルはどのようにして培っているのか、何か気をつけるポイントはあるのか?
・本や研究などインプットしたくても疲れてなかなか出来ないことがあるが、どのように切り替えたりモチベーションを高めるか?
・インプットしたくてもなかなか時間が取れなかったり、方法が分からないが、ハナムラはどのような方法を取ってきたか?
・都市計画や都市デザインなど、規模が大きくて出来るまでの時間がかかるものについて、どう考えればいいか?
・コロナ禍とその後における芸術やスポーツをどのように考えればいいか?
・これまでアートに触れて来なかったこともあり、身近に感じられないが、どうすれば身近に出来るのか?

●5月27日/27th May
普通に考えると不可能だと言われるようなものを作ろうとしていて、色々と実験中。科学者や技術者ならまず無理だと言って最初からやらない。アートは、やってみたらどうなるだろうという実験的なアプローチなので、無謀なことをつい考えてしまうし、許されてしまうことがある。が、うまくいくかは分からない...

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●5月30日/30th May
自然界の多くの生き物は、今日食べる分だけを自然の中から採り、明日の食べる物は明日探す。ヒトは、明日食べる物を今日用意する動物だ。それを智恵と我々は呼んできたが、果たしてそうなのだろうか。今の文明を見ていて疑問を感じる。
生きていくのに蓄えや備えは必要だ。だが、それをどの程度するのが適切なのかは、問い直さないといけないだろう。智恵は欲に汚れると反転する。多くのものを手に入れようと追いかけすぎて、本当に必要なものが手に入らなくなりつつある。

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