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ラオール・ウォルシュのアクションを再発見する

商品としての映画

 ついさっき抽斗から取り出したはずの拳銃は紛れもなくコルトであったはずなのに、いまやその手に握られているのはルガーにすっかり変わってしまっている。これは時に肯定的な文脈において使用される「つなぎまちがい」といった創造的な地平ではなく単なる誤謬なのだが、この種の誤りを融通無碍に肯定してしまうというか、誤りのままとどめおいてしまうのは、第二次世界大戦前あるいは戦中期の映画に許された寛容な風土といったものではなく、この映画が単なる資本主義的な「商品」にすぎないという意思表明といえるかもしれない。じっさい、この映画を監督したという人物も、商業的な要請に従って撮った作品でしかないことを隠そうとはしていない。では、なぜ、この作品について語り始めることになったのだろうか。
 この映画が単なる資本主義的な「商品」にすぎず、この時代のある種の水準を超えるものではないとするならば、こんにちの――というのはつまり21世紀の――映画のほぼすべてはその水準にすら達しえない作品を量産していることになるが、これは21世紀に限った話ではなく、20世紀においてすらこの水準を超える作品は決して多く存在してはいない。というより、いまここに何事か書きつけんとする私は、この作品を、映画史を通じても指折りの作品であると確信してやまないのである。作家が最も充実した創作的一時期を過ごしたに違いない40年代の傑作群に勝るとも劣らぬ傑出した作品が、『恐怖の背景』(Background to Danger, 1943)なのである。
 1930年代のアメリカ映画を代表するといってよい驚くべき傑作『バワリイ』(The Bowery, 1933)以来、決して友好的な関係ではなかったらしいジョージ・ラフト George Raft とは、すでに複数の作品ですばらしいコラボレーションを見せており、そこにはたとえば、アイダ・ルピノ Ida Lupino が凄まじい存在感を見せている傑作というほかない『夜までドライブ』(They Drive by Night, 1940)も含まれているが、ここで助演の役割を演じたハンフリー・ボガート Humphrey Bogart が、『ハイ・シエラ』(High Sierra, 1941)を端緒としフィルム・ノワール Film Noir と呼ばれる一群の作品で存在感を増してゆくのに対し、印象的な作品はあるものの、必ずしも作品に恵まれたスタアとはいえなかったラフトを売り出すために、ワーナー・ブラザース Warner Bros. は一本の映画を制作することに決める。それにあたり、自らのスタジオで身軽で手堅く作品を撮ることができる人物をその監督に指名することにする。「身軽」で「手堅い」といった語彙は少なからず職人的な資質を想起させるが、おそらくここで指名された人物も、自身を独創的な作家などとは到底位置づけておらず、べつの人物によって撮影が始められてから急遽その人物が監督をいう立場を降りたことで穴埋めのためにその役職に就いたとしても、そこで撮られた作品にいささかの翳りも見えてはいないし、ノンクレジットで、ある映画のほとんどを監督することになったとしてもいっさいかまわぬといったふうである。じっさいこの人物は、たとえば『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind, 1939)のような作品にも、自らのフィルムのいくらかを紛れ込ませていたりする。
 あるいは、この人物は、資本主義的商品としての映画のしかるべき側面にも重要な貢献をしている。たとえば世界映画史がもちえたもっともすばらしい作品のひとつに『栄光』(What Price Glory, 1926)があるが、この作品でヴィクター・マクラグレン Victor McLaglen とエドマンド・ロウ Edmund Lowe のコンビを売り出すことになり、物語の展開の上でも、同世代のライバルというべきハワード・ホークス Haword Hawks 監督の『港々に女あり』(A Girl in Every Port, 1928)に影響を与えたことは明らかなように思われるし、ジョン・フォード John Ford 監督は、ノンクレジットで第二班の監督を務めてもいるのだが、リメイクとして『栄光何するものぞ』(What Price Glory, 1952)を撮りさえする。『栄光』のあと、ヴィクター・マクラグレン=エドマンド・ロウのコンビで、『薮睨みの世界』(The Cock Eyed World, 1929)、『各国の女』(Woman of All Nations, 1931)と作品を続けて送り出すことにもなるだろう。このように指摘する私は、たとえばハワード・ホークスへのインタビューで、ホークス自身が、『たくましき男たち』(The Tall Men, 1955)について、自身の傑作というほかない西部劇『赤い河』(Red River, 1948)との密接なつながりを指摘した上で好意的に言及しているのを目にするとただただ嬉しくなってしまうのだが、そもそもデヴィッド・ウォーク・グリフィスDavid Wark Griffith監督の『国民の創生』(The Birth of Nation, 1915)において、エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln を暗殺したジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Booth を演じるという特権を得た人物が、映画史的正統性が担保されていないなど、誰がいえるというのだろうか。あるいは、フォード、ホークス、グリフィスといったかくも特権的な名前――ここにエリッヒ・フォン・シュトロハイム Erich von Stroheim の名前さえ加えてもよい――の周囲を旋回するこの人物がこんにちの映画において軽視してよい人物であるとはとても思えない。
 だが、彼は自らを特別視することなく、あくまで職人的姿勢を貫くことになる。要請があれば他者の撮影現場に赴き、自らの痕跡を消し去った匿名的フィルムの断片を撮っては紛れ込ませ、自らはといえば、気取りなく自らの署名が刻まれたフィルムを量産し、時にその作品に他者の鋏が加えられようとも、絶望したり憤ったりして映画を撮ることをやめはしない。もはや彼にとって映画を撮ることとは、呼吸にも等しい生理現象とでもいうのだろうかと眩暈を覚えさえする私が、ここまでその人物の名前を書いたりしていないのは、この種の匿名性に少なからずオマージュを捧げたいと思ったからだが、その人物が、ラオール・ウォルシュRaoul Walshと呼ばれる人物であることは、すでに誰もが知るところだ。 
 いまやわれわれがなすべきことは明らかだ。ウォルシュの匿名性や、商業的姿勢に惑わされることなくその作品に眼差しを向けること。あくまで「商品」として送り出された映画の中に宿る、撮ることが生理として肉体化された人物の驚くべき秘術とでもいうものを探ることにほかならない。

瞳の臨界に挑戦する

 ワーナーのロゴが映し出されると、メインキャスト、スタッフのクレジットが続き、手早く映画の舞台背景がニュース映像を交えてナレーションで語られる。その後複数の国旗がパンで映し出されたかと思うと、ナチスの国旗が掲げられた建物から老紳士が現れる。彼が街路でふたりの男性とあれこれ話していると、その脇をべつの男が通り過ぎる。彼はやおら振り返ると、ポケットに忍ばせていたと思われる手榴弾を投げつけ、爆発とともにさらにべつの男が運転する車に素早く乗り込みその場を後にする(この爆発の迫力もすごい)。映画は以来止まることを忘れたかのごとく動き続ける。それはかような物々しい事態が生起する瞬間に限ったことではない。続けての展開を見てみよう。シドニー・グリーンストリート Sydney Greenstreet (ピーター・ローレ Peter Lorre ――もちろん『恐怖の背景』にも出演している――とともにこの時代のワーナーを支えた名脇役だ)が手榴弾を投げつけた男と会話をする場面だが、この時シドニー・グリーンストリートは、立ち上がって歩み寄ったり、座ったりという動作を繰り返す。このとき、完全に座り終える前にカッティングして次のショットに移行することを指摘しておきたい。ある動き=アクションが完結する前に次のショットに移ることで、われわれは目の前に生起していたはずのアクションを捉えきる前に次のショットを瞳で捉えることになる。この早さがラオール・ウォルシュを他の古典的と呼ばれもする一群の映画作家の中から際立った存在にしている。優れたウォルシュの映画は、アクションとその繋ぎによって、我々の瞳に常に先行し、画面に惹きつけてやまない。
 ウォルシュのアクションへの感度の高さをべつの作品でも見ておきたい。『北部への追撃』(Northern Pursuit, 1943)は『恐怖の背景』と同時期に撮られ、当時複数回に渡って組んでいたエロール・フリン Errol Flynn を主演に据えた作品で、21世紀の日本ではほとんど人々の口の端に上ることはないが、すばらしい作品だ。カナダにナチスのスパイが潜入したところから物語は始まる。エロール・フリンは、このドイツ軍人(彼は途中雪崩に巻き込まれ満身創痍であった)を捕らえる騎馬警察――ところで騎馬警察といえば、ウォルシュは後年『サスカチワンの狼火』(Saskatchewan, 1954)でふたたび取り上げることになるだろう――として映画に登場する。フリンは、ドイツ軍人が収容所を脱走した後尋問を受けた後に自らの結婚式の場で警部を殴りつけたことから逮捕・拘束される。その後ウィニペグ――まったく関係ないが、ついガイ・マディン Guy Maddin のことを思い浮かべてしまう。ウィニペグという彼の出身地を虚実交えて語った『我がウィニペグ』(My Winnipeg, 2003)は刺激的な作品だ――で裁判を受けることになるが、手続きに入った建物の中でもマスコミが待ち構えていて執拗な取材を試みる。この画面を見てみよう。画面はウィニペグを上空から撮った画面がフェードアウトし、画面中央にドアを斜めの位置から捉え、その横にカメラを抱える複数の記者が見える。画面がフェードインしきる前にドアがやおら開かれ、フリンが進入する。すりガラスに“Provincial Courts”と見えるので、この建物が地方裁判所であることが知れる。画面を横切るように歩みを進めるフリンに対して、記者はなぜ騎馬警察をクビになったのかなど尋ねる。キャメラは右から左へのパンと若干の前進移動をしてフリンがカウンターで手続きする様子をやや斜めの位置で背後から捉えることになる。記者の執拗な質問に沈黙を貫き通すフリンだが、それに耐えかねてか振り向いた際に何か答えろと言われると、画面左の記者のカメラを蹴り飛ばす。カメラがフレーム内で小さな放物線を描き画面下にフレームアウトするとともに、蹴り飛ばされたことに動揺した記者連中は思わず仰け反り、画面両脇にフレームアウトする。それに合わせてキャメラは前進し、膝上から捉えていたフリンを腰から上で捉えることになる。記者連中に一喝すると、向き直り手続きを進めようとするが、すでに画面はフェードアウトし始めており、裁判の様子がフェードインし始めている。ここまでを簡潔かつ充実したワンシーン=ワンショットで捉える呼吸は、すばらしいという言葉では収まりのつかぬ目の覚めるような驚きに満ちている。ラフト以上に運動神経に優れるフリンを捉えるこのショットでは、たんにウォルシュのディレクションということだけでなく、キャメラと役者との幸福なコラボレーションが感ぜられるが、この複数のアクションが複雑に絡み合ったショットには、ウォルシュのアクションの感度の高さ、アクションが画面を活気づける確信が画面を推移させていることは間違いないように思う。
『恐怖の背景』に戻ると、この作品において瞳が捉えられぬほどのアクションの画面の推移が極大化するのは、ラストの目まぐるしいカーチェイスだろう。コマ落としで達成された視覚的な速さに加え、ドリフトの連続で舞い上がる土埃が画面に常に運動感を与えている。2台の車の追っかけを客観的に捉えるショット、画面手前に向かって車が走る様子を捉えたショット、車のフロントガラスから進行方向を捉えたショットなど、複数のショットを組み合わせて達成されるこの一連のシークェンスは、息を呑むほど凄まじいもので、私はこの画面の連鎖に匹敵するカーチェイスを思い浮かべることができないほどだ。
 ラオール・ウォルシュは、ここまでに述べたように、アクションが連鎖する画面は、瞳がその始まりと終わりを穏当に捉えきってしまう以前で速やかに次のアクションに移行してしまう。これは「古典的」とも呼ばれもする一時期のアメリカ映画において過激な態度であるというほかない。もっとも、ウォルシュ自身は、おそらくそのような位置づけを自覚してはおらず、あくまで「職人的」な姿勢を貫徹したにすぎないと考えるだろう。ラオール・ウォルシュとは、アクションを捉える簡潔な画面の連鎖により、観客たるわれわれの瞳の臨界に、視覚の限界に挑戦する、まったく古びることのないどころか、常に現在のわれわれを刺激してやまない作品を撮った映画史上の巨人その人の名であると確認し、この文章を終えたいと思う。


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