ニコニコに安楽死は訪れない

 ときどき、体がニコニコ動画を求めることがある。
 Twitterには気乗りしない話題しかないし、Youtubeにコメントする気にはなれない。惰性が体を支配している。そんな時にニコニコに行き着く。
 思うに、これはたぶん、ニコニコが生き延びている理由なのだ。



 あるサービスに、恒常的に多くの人が集まるためには、どうしたって「コミュニケーション」が必要になる。何をどうこねくり回そうとも、何百万人ものユーザーを一度に、孤独に集めることはできない。
 ゼルダの伝説BotWがどれだけ優れていようとも、二度とブームは起きない。どうぶつの森がどれだけ素晴らしかろうと、ブームが去ればゴキブリにまみれた廃屋だけが残る。
 これは、非コミュニケーション依存コンテンツの限界だ。
 君が好きなアニメの時代は二度と戻ってこない。二度と。

 twitter、noteといったサービスは、こういったものとは対極の位置にある。コミュニケーションの場としてのサービスであり、サービスの質はその半分以上がユーザーに委ねられている。
 Twitterも、その本体は「つぶやき」というより、それに乗せて行われる不可視のコミュニケーションであり、その『価値』は流動的に変化する。

 恒常的に人を集めるためには、流動的に変化する価値が必要なのだ。

 テセウスの船のように喩えるのなら、twitterは川である。
 twitterという名の川を流れる水、すなわち『つぶやき』は常に変化し、一時たりとも同じであることはない。
 ツイートはあっという間に流れて過ぎ去って行き、よい話題であれ、悪い話題であれ、ネットの海の一滴となって沈んでゆく。

 そういう意味では、非コミュニケーション依存のコンテンツは『湖』であると言える。人々は湖畔を歩き、泳ぎ、そして過ぎ去ってゆく。
 湖は恒常的であり、だからこそ人々の方が流動的になる。

 『川のコンテンツ』と『湖のコンテンツ』は例を挙げずともいくつか思い浮かぶだろうが、それらの違いは何であろうか。
 言わずもがなコミュニケーションである。 

 『川』は変動する。その一部を切り取っても、何の意味も持たない。
 だから川に身を委ねる為には、コミュニケーション能力が必要になる。
 twitterに参加するためには、『流れ』を読まなければならない。コミュニケーションとは根本的に対話であり、時間という概念に支配されたものなのだから、当たり前といえば当たり前だろう。
 同じ川であれど、その本体がまったく同じものであることは一時たりともない。川の中に居場所を見つけるためには、その雰囲気を『汲み取り』、適切にコミュニケーションを取るというスキルが必要になる。

『湖』は動かない。同じものだ。正解はいつだって正解であり、不正解もまた然りである。しかし、湖を泳ぎ続けていれば、いつかはすべての水に触れてしまうことになる。コンテンツの不変は、いずれ多くの人間にとって『飽き』や『終わり』に繋がる。
 どうぶつの森も、ディスガイアも、いつかは終わるのだ。


 『川』と『湖』のどちらかだけを求める人間というのは少ない。その時々の精神状態によって、人は『川』的なインタラクションを求めたり、『湖』的なコンセントレーションを求めたりする。

 ここで重要なのが、『求める』ことは『泳げる』ことを意味しない、
 ということだ。

 湖で泳ぐことは誰でもできる。
 アニメを見る。ゲームをプレイする。
 そこに、例えばセリフを聞き逃したり、ゲームオーバーになったりといったような『成功と失敗』はあれど、それらは不可逆的なものではない。
 泳ぐのが下手であろうと、死ぬことはない。

 だが、川では時に溺れ死んでしまう。
 コミュニケーションが下手な人間だけではない。全世界を覆うインターネットの世界においては、コミュニケーションがどれだけ上手な人間であれ、すべての相手とコミュニケーションを成功させることは不可能だ。
 流れがあり、それは流動的にすべてを飲みこんでゆく。

 コミュニケーションが下手な人間、
 あるいはコミュニケーションで失敗することを極度に恐れる人間、
 もしくは、ただ単に流れを読むことに疲れてしまった人間。
 そういった人間は川で上手く泳げない。

 だが、人間である以上、コミュニケーションという流れの中で泳ぎたいという欲求はどうしようもなく存在している。
 そういった人間にとって、ニコニコというコンテンツは、唯一泳ぐことのできる流れだったのだ。そして今も間違いなくそうである。



 あなたはニコニコ動画は湖であるか、川であるか、どちらだと思うか。

 ニコニコは確かにコミュニケーションの場であり、流動的に変化するが、それはtwitterのような『川』とはまったく違うものだ。
  Twitterなどで行われるコミュニケーションとは根本的に受信と発信の
『繰り返し』である。あなたの呟きに、誰かのリプライが連なってゆく。
それはあなたの通知へと送られ、次にあなたは反応する。twitterや現実を支配しているのは、こうした双方向のコミュニケーションである。
 が、ニコニコではそれが行われない。
 ニコニコで行われるのは、受信と発信の1サイクルだけである。ニコニコでは、その1サイクルを繋いでコミュニケーションが行われるのだ。

 考えてみて欲しい。ニコニコで動画を見る。そこであなたは過去から届いたいくつものコメントを受信する。だが、あなたはそのコメントに対して発信することはできない。なぜならばコメントはすべて過去だからだ。
 あなたがコメントを書けば、それは未来に向けた発信になる。あなたは『過去の一部』と同化し、受信した内容と共に、未来に向かってゆく。
 完全匿名性なのだから、過去への擬態が剥がれることはない。

 これは確かにコミュニケーションの一部だ。発言を聞き、そして言葉を返す。だがそこには一切の責任が伴っていない。いや、伴えないのだ。なぜなら、一人が担うコミュニケーションはその1サイクルだけなのだから。
 受信して、発信する。そこであなたの役目は終わる。次の受信と発信は別の人間が行うのだ。あなたは受信する内容について責任を持たないし、発信する内容についても、それがどれだけ酷かろうと、あなたに酷いフィードバックが返ってくることはない。

 twitterでは、これが不可能なのだ。
 なぜか。twitterでは、例えばリプライに対して返事をしなければ、それは
 「返事をしなかった」をしたことになるからだ。
 返事をしないことはtwitterでは0だが、ニコニコではnullなのである。

 ニコニコが湖と川とも異なる点は、この『バケツリレー的コミュニケーション』が成立しているというところだ。
 コミュニケーションに伴う責任やリスクを一切負うことなく、ただコミュニケーションをしたいという欲求だけは満たせるのである。
 これはTwitterでも、5chでも、そして目の敵であるYoutubeであっても絶対に満たすことのできないコミュニケーションの形だ。

 そういう意味で、ニコニコはほぼ唯一、コミュニケーションに疲れた人間の受け皿としての役割を果たすことができるコンテンツなのである。

 twitterは平等ではない。「すき」の二文字でさえ、始めたてのアカウントでは誰にも構ってもらえない。そこには成功と失敗が発生する。
 だがニコニコではそうではない。白い文字のもとにすべてのコメントは平等であり、過去から未来へと繋がれる、無責任なリレーの一部としてあなたはコミュニケーションに参加することができるのである。

 ニコニコがどれだけ下火になろうとも、そういった人間、そういった精神状態は必ず存在し、ニコニコを生かし続ける。もしもニコニコの息が止まるのなら、それは緩やかな出血死以外にありえない。
 少しずつ人が流出し、やがてはリレーを繋ぐ相手がいなくなる、すなわちコミュニケーションが成立しなくならなければニコニコは死ぬことができない。ニコニコはそう運命づけられているのだ。

 まあ、時々、思い出したらコメントしてあげよう。
 無責任なコミュニケーション、ばんざい。


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