Vtuberの根幹に横たわる『崇拝』

8月に、『Vtuberに信者もアンチもない』という記事を書いた。

ざっくり内容を要約すると、
・Vtuberには不健全な二次元・偶像信仰がのしかかっているよ
・本来Vtuberは三次元的なのに、ガワが二次元だからそうなっているよ
・この信仰は立場に関係なくあるものだよ
・このままいけば『偶像』としての役割が先鋭化しすぎるよ
という感じ。

10月1日のいまネットを見てみると、上の記事でかいたようなことがまさしく現実となって、そこらじゅうに転がっている。『偶像』としての役割が先鋭化した、と言葉にすればそれだけだが……本当にそうなっている。

ただ8月の記事で予測できなかったことも、またいくつか見当違いであったなと思うこともあるので、この記事では現状とともにあらためてVtuberという収益モデルの根幹に横たわる問題をとりあげようと思う。

(前の記事は読んでも読まなくても大丈夫なように書いてあります)


Vtuberの収益モデルとは?


まず、Vtuberの収益モデルに関して。といっても具体的な収支やら収益率やらのミクロ的なことではなく、すごく大雑把に『Vtuberは何をギブして、その対価にお金をテイクしてるのか』ということを考えてみよう。
これを『視聴者がVtuberから受けとっているもの』と考えるとなかなか多角的になって難しいが、類似の収益モデルを構築しているさまざまなものと比較してみるとすんなりと分かる。

アイドルとVtuberは似ている。アイドルもVtuberも、客に提供しているものはきわめて精神的なものであるというのは言うまでもない。
もちろんグッズ収益というのもあるが、あれは『グッズ / お金』という交換を成立させているというよりも、グッズに付属した精神的価値を買っていると考えるのが妥当だろう。観光地と比較するとわかりやすい。ディズニーランドでのご飯はクソ高いけれど、それでも購入客がいるのはディズニーランドでのご飯という『経験』『体験』に価値を見いだしているからだ。

では、『精神的なもの』とは具体的になにか。
精神的なものを提供するビジネスの筆頭といえばやはり『芸術』で、これは古来より即物的なものを離れたところに価値を創造している。芸術とVtuberに共通しているものを考えると、『感動』という安っぽいワードが浮かぶが、ここはそれをもう少し突きつめて『非日常』としようと思う。
これは主観的な意見だが、芸術を見てえられる感動は日常的な人のやさしさへの感動とはまったく異なるものだろう。さらにはVtuberや芸術のもっとも面白い点として、時折、客が自発的に対価を払おうとすることがある。(ちなみに、この精神がクリエイターに発露したときにあらわれるのが『二次創作』である。) しかも、そういった精神状態になった人びとは『払う額』や『労力』を厭わなかったりする。これはひとえに、その存在が代替不可能なものと思われている、ということの証拠だ。そういう意味をこめて、ここではVtuberや芸術の提供するものを『非日常』としよう。

では、それはどういった形での『非日常』か。ときに、『ドキュメンタリー』というのはひとつの芸術だ。それは当然として、人びとに非日常という衝撃を与えるものだろう。ふとテレビをつけたら『映像の世紀』がやっている。白黒の映像であってさえ、死体が積みあがっていることがくっきりとわかる。耳にはいってくるのは哀愁を誘うあの旋律。パリは燃えているか。

だが、それがVtuberとまったく似ていないことは明らかだろう。非日常にも様々なタイプが存在し、ここでVtuberがアイドルと似ているという原点に立ち返って考えると、Vtuberはまさしく『Idol(偶像)』として非日常を提供していると考えることができる。Vtuberの与える『非日常』というのは、安心や救済を伴っている。まさしく人をみちびく偶像の役割だ。

では、最終的にVtuberは『偶像』であり、客に提供しているものは『偶像崇拝にともなう安心や救済』としていいのだろうか。私はそう思わない。
というのも、これはVtuberと宗教を比較すると明らかなことだ。

ビジネスとしての宗教の収益モデル、というと怒られそうだが、昔から宗教は立派なビジネスであった。ときに権威をともないながら人々に道を示し、敬虔な信徒に対しては精神的救済をあたえた。一見してVtuberと似ている。
だがしかし、これはよく考えると『芸術』とちっとも似ていないのだ。現代でもまったくかまわない。敬虔な人びとの生活を想像してみればわかる。

宗教は『非日常』か? いや、そんなことはない。宗教は『日常』だ。

宗教は日常を与える。日常を与えて、その対価をもらうというビジネスモデルで今までずっと成立してきた。この一点において、『非日常』を提供する芸術と宗教はまったくことなるものなのだ。
一日のうち半分は神を信じて、半分は神を信じないという行為は『崇拝』とはよばない。そういう意味でVtuberの収益モデルを『偶像崇拝』とよぶのは不適切なのだ。Vtuberはあくまで『輝かしく美しい他人』であって、ゆえに『日常』ではない。


ここまでを踏まえて、『Vtuberの収益モデルとは何か』という当初の疑問にもどってくると、次のような答えにたどりつく。

『Vtuberは非日常としての偶像崇拝を売り、その対価を得ている』



収益モデルの問題


前の記事を見た人は、上の結論にすこし違和感を抱いたかもしれない。
私はたしかに以前、『信仰が問題だ』と結論づけた。しかし一方で『崇拝はVtuberの収益モデル』であるとも言った。では解決は不可能ではないか。

それは半分合っていて、半分間違っている。もちろん、信仰と崇拝という言葉遊びをしているわけではない。まずはじめに、この二つの『宗教』は同一のものではない。これを説明するために、Vtuberの収益モデルについてもう少し詳しく話すところからはじめよう。

Vtuberの『ギブ』は『非日常としての偶像崇拝』だ。しかしよく考えると、この一文はある意味で絶大な矛盾をふくんでいる。なんなら少し前でそれを説明している。
そんな一時的な崇拝は『本来の意味での崇拝』ではないのだ。もともと宗教的な崇拝とは、神(でもなんでもいいが)をつねに信じ、そしてそれが思考回路にさえ介入してくるからこそ、崇拝たりうるのだ。

Vtuberは確かに偶像崇拝を売っているが、それはひとことでいって偽物だ。
錯覚だ。もっというならば、それはVtuberと視聴者の共同幻想だ。

そして、これこそがVtuberの『もっとも素晴らしい点』だ。

『偽物』を売るというと聞こえは悪いが、すべてのフィクションは偽物だ。物語は『嘘』を提供することにより、その対価を得ている。Vtuberもその例にならって嘘を売っている。偽物をならべて、人をあつめている。
そういう意味で、Vtuberの収益モデルは必然的に『偶像崇拝という錯覚』を売っていることになる。もう一歩うしろにさがってみるのなら、『偶像崇拝という錯覚、ができるという経験』を売っている。

ここにひとつの『完璧な収益モデル』が完成する。そのはずだった。


ときに現代は『フィクションと現実を混同するな』と言われる時勢だ。
竜宮城はどこにも存在しないし、それとまったく同じように、テラスハウスは、リアリティーショーは虚構だ。恋もキスも嘘でしかない。フィクションはさきほど『嘘』だといった。その収益モデルは嘘を手渡して、お金をもらうことだ。だがそこに一つの問題が生じている。
たしかに今、誰かがありもしない『現実』を買ってしまったのだ。
現実を買った人はそれを日常としようとするし、平気で崇拝しようとする。だがその手に持っているものは、誰かのついた大嘘だ。嘘を買ってくれる人のために用意した、練りに練られた真っっっ赤な嘘だ。
……現実としても通用してしまうくらいの。


これこそが、Vtuberが必然的に抱えることになってしまった問題であり、収益モデルの根幹に横たわる決定的な問題である。Vtuberにかぎらない。古のアイドルもそうだったに違いない。『非日常としての、偶像崇拝の錯覚』を売っていたはずが、誰かが『本物の偶像崇拝』を買ってしまったのだ。

Vtuber本来の『理想的な』収益モデルにおいて、崇拝はまったく問題ない。なぜならば、皆がそれを虚構だと認識しており、その上で一時的な偶像崇拝に浸っているからだ。配信をしているあいだ、あるいは本人のtwitterを見ているあいだ。その瞬間だけ視聴者は『非日常の偶像崇拝』にかかり、それが終わった瞬間に『日常』へと戻ってゆく。

これが徹底されていれば、Vtuberは間違いなく世界最高の娯楽だ。
だからこそ最初に、『半分は問題ない』といったのだ。

しかし、いくら理想がどうであれ、現実に持ちこむと問題が生じるもの。
その問題が、まさしく『本物の偶像崇拝』を買ってしまった客だ。
正直言って、(悲観的なことだとは思うが) これは避けて通れない道だ。なにをどうしたところでVtuberを本当に信仰しだす人間はでてくる。仕方ない。人間に対して、偶像としての役割を押しつける人はいる。その区別がつかない人間は存在するし、私だって貴方だっていつそうなるか分からない。

とくに不幸なのは、Vtuberが驚くくらいこの収益モデルに合致していたということだ。『一時的な偶像崇拝』を売るというのは、言葉にするのは簡単だがやるのはかなり難しい。たとえ錯覚であれ、崇拝されるまでにいたらなければならないのだから。
そこを手助けしたのが、アイドルとはまったく違う文脈で生まれた『二次元信仰』だった。端的に言ってしまえば、Vtuberのアバターである。二次元に対しては信仰が可能だ、という土壌がサブカルチャーには存在したためにVtuberは可及的速やかにこの偶像崇拝を売ることができたのだ。
(二次元信仰については前記事で深めにふれている)

Vtuberの『アバター』はとてもよく働いている。これがあったからこそ『一時的な偶像崇拝』を買ってくれる客もふえて、同時に『売ってもいない本物の偶像崇拝』を買ってしまう客もふえたのである。

(Vtuberの躍進の理由はなにか、というのはここ数年でいろいろな説が飛び交っているが、個人的には『アイドルが成功させた、いわば成功が約束されている収益モデルに、さらに合致した手法を発見したから』だと思っている。)


そして、本物の偶像崇拝を買ってしまうと何がおこるのか。これは前の記事に書いたことをざっくりと要約させてもらうが、そういった人間はほぼすべて『熱烈なファン』『熱烈なアンチ』のどちらかになる。
ファンになる理由は簡単。本物の偶像崇拝は絶対だから。
アンチになる理由も簡単。人間が偶像崇拝されることなんてできないから。

宗教は意思のないものや概念を信仰するから長続きする。人間は誰であれ、必ず裏切る。あなたは自分について完全に知っているか? 自分の95%を構成する無意識でさえ知りつくしているのか? もちろんそんなわけない。自分でさえそうなのだから、他人について私たちが知れることは少ない。
だから、他人に対して偶像崇拝を行えばいつか必ず裏切られる。

そうなれば、アンチになるのも頷けるだろう。

Vtuberが抱える問題、それがこの『本物の偶像崇拝』だ。



で、それが今どうなってるの?


そう。ここからが本題だ。Vtuberは今危機に瀕している。
その内容は書くまでもないが、とにかく史上もっとも大きい爆弾がさく裂したといってもいいだろう。この事件はもはや一企業が収集をつけられる限度などこえて、制御不能のまま広がりつつある。今から少しだけそれについて話すわけだが、語るべきことは次の質問にすべて集約されているだろう。
『この事件が、収益モデルの問題とどう関係あるのか?』


 ミライアカリ、という名前はご存じだと思う。少しまえ、それに関連した事件がひとつあった。配信中に泣いたというものだ。さて、一つあなたに質問しよう。少し、精神的にはキツい質問かもしれない。

これは、『事件を起こした』か『事件が起きた』か。どっちだ?
あるいは、どちらであってほしいか?

Vtuberの最大の問題点は、その収益モデルの問題がひどく極端なことだ。
類似の例としてアイドルをあげるとその差は歴然だ。Vtuberの方が近い。
なにもかもが圧倒的に近く、アイドルはあなたの目をみて笑ってくれないかもしれないが、Vtuberはあなたのコメントをみて笑ってくれる。最高だ。
この『近さ』はアバターと同様に『偶像崇拝の錯覚』をうみだすことに大きく貢献したが、悲しいかな、逆にもまた強く働いた。さらにはVtuberはインターネット上での距離がほぼゼロなのだ。あなたはツイッターのアカウントを作っていつでも彼彼女らに話しかけることができる。

共同幻想に浸っているかぎり、Vtuberは問題ない。なぜならば、オンとオフの切りかえが可能だからだ。スイッチが入っているときだけ偶像になり、それが切れればたちまち普通の人間にもどる。なんなら、視聴者もそれをちゃんと理解しているから、ごくまれに間違えて『普通の人間』をだしてしまっても受け入れてくれる。大きな失敗をしても、二度と嘘を買わないだけだ。

本物の偶像崇拝が加わってくると、たちまち人間の精神に負担がかかる。まずそういう偶像崇拝にはオンオフが存在しない。つねに『理想』であることが要求される。それが精神を極限状態に追いこむことは想像にかたくない。
偶像崇拝されていることは本人にはよく分かることで、大手のVtuberはそういった崇拝を拒否できる立場にないのだ。悲しいことに。

さらには、昨今のVtuberはその境界が曖昧になってきている。具体的にはTwitter業務、それに付随したインターネット業務だ。これでは健全な状態であれ、オンとオフが存在しなくなってしまう。
投げかけられる言葉のなかには『本物の偶像崇拝』をするアンチからのものもある。しかし一方で、同様の『熱烈な』ファンの期待もよせられてくる。だからこそ、その環境の中でも偶像を演じつづけなければならない。
少なくともこれは、生身の一般人が耐えられるものではない。

あの件で、彼女の内面についてほぼ確実な事実といえることは、彼女がなんらかの精神的に不安定な状態に置かれたというただ一点である。それを踏まえて私の意見を言おう。あの件は、『事件が起きた』のだと思う。
これが本当に合っているかは分からないが、Vtuberの置かれた状況を考えると、意思に関わらずそうなってしまったと考えるのがもっともしっくりくるような気がするのだ。もしかすれば、こんな杞憂などまったく関係なく、ただただ別の事件があったのかもしれない。


さて本題に戻って、今現在の事件だ。
ネットでは様々な憶測が飛びかっている。私は、ただわからない。本当にただただ何もわからない。ただ一つ言えることは、『Vtuberという職業から考えて、彼女が精神的に決して安定した状況ではなかった、のかもしれない』ということであり、それさえも実際にどうだったかは分からない。

だって、彼女は究極的に人間じゃないか。
あなたは人間を完全に理解できるとでも思うのか?

ロジカルな判断だったことを期待するのも、あるいはケアレスミスだったことを期待するのも、挑発だったと考えるのも、何もかも自暴自棄になったのだと考えるのも、そのどれもが狂っている。そんなことを言っている時点で、もう救いようがないくらい、偶像崇拝の毒が脳まで回っている。『人間は分からない』。その事実をいつ忘れた?

この事件と収益モデルの問題がどう関わっているのか。
もし彼女についてなにか結論があると期待していた方には申しわけない。彼女については、なにもかもがわからない。ただ私は、『外野の反応』がまさに、Vtuberの抱える地雷を象徴していると言うしかない、と思うのだ。



雑記


<1.バランス感覚>

月ノ美兎はこの偶像崇拝という問題点に関して、素晴らしいまでのバランス感覚を持っている。彼女が17歳ではないことは公然の事実だ。いやもちろん、ほとんどのVtuberはそうだが、それを『設定』というネタにしているところにそのバランス感覚を見てとれる。『設定』の存在を主張することは、すなわち自身が一時的な偶像にすぎないことを主張するのと大差ない。

最初期から『もつ鍋とビール』と発言したり、あるいは自身を売りだすにはどうするかというメタ的な発言をして『非偶像性』をほのめかし、致命的な偶像崇拝を押しつけられることを回避し続けている。だからこそ、彼女はトップの『カリスマ』となりながらも前に進み続けることができている。

他にも実年齢との乖離や現実とのギャップをたびたびネタにするVtuberは存在するが、これは文字通りの意味でライフラインなのかもしれない。
もしこの文章をVtuberが見ていたら、『メタ的な発言、自分をキャラクターから切りはなす発言は精神的にいいのかもしれない』と助言しておく。


<2.前記事について>

冒頭で前記事うんぬんの話をしたが書くのをすっかり忘れていた。

まず、前記事で予測できなかったこと。これは偶像崇拝が裏切られたときに人がどのような行動をとるかだ。
私は偶像崇拝をやめるか、もしくは偶像崇拝すること自体は変わらずアンチに転ずるものだと思っていた。しかし、今回の件で偶像崇拝を守るためにまったくの他者を攻撃するという事態が散見されている。その一部は悲しいことに、ヘイトスピーチとなってネット上を彷徨っている。

次に、前記事で間違っていたなと思ったこと。二次元信仰は確かに存在するが、それはVtuberに対する偶像崇拝のメインではなく、あくまでそれを補助するものだということ。アイドルが生み出した『偶像崇拝』というモデルが先にあって、それに後発の二次元信仰が重なりあった結果生み出されたものがこのVtuberであって、それを話すにはまず先に存在していたモデルを尊重するべきだった。今回の記事ではそちらを強めに話している。

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