話し合いができない夫婦がいてもいい

話し合わないという選択肢

「あなたがしてくれなくても」いいドラマだったなぁと思いました。私にとってはとても説得力のある最終回でした、ということは書きましたので、ここからは考察ではなくて、ぐっと私個人の気持ちに引き付けた上での雑感です。

このドラマ自体というよりは、もっと前から感じていたことについてなのですが、最近、夫婦間の問題について話題になるとき、言語化してしっかり話し合いお互いに理解しあって解決していくべきだ、という考え方がつよめではないでしょうか?それは正論であって、正論だからこそことさらに目立ってしまう側面があるのは理解しているのですが、実感として取り囲まれているような息苦しさを感じます。もっと言えば夫婦の問題だけでなく、親子だとかあらゆる人間関係に対しても適応されがちです。そういった息苦しさをずっとかかえてきた中で、このドラマで、最後まで話し合いが成立しなかったカップルが正面から描かれたことが、私にとってひとつの救いでした。

ようするに吉野夫妻のことなのですが、この夫妻については皆さんが言うように「結局なにも解決していない」わけで、別の言い方をすれば、自分たちが抱える問題を言語化できてないし、だからそれを解決できてない(=同じことをしうる)、なんなら話し合いから最後まで逃げた、と言えます。「だから、よくない」と感じる人たちがいるのも分かる。それは、今までの息苦しさの実感にも近い。ただ、そういうコミュニケーション不全のあり方について、両極端(新名夫妻は最終的に会話が成立していた)の形を、少なくともどちらも実在するものとして描き切ってくれたこのドラマに感謝しています。

マイノリティは話せない

陽一は結局ほとんどなにもしゃべりませんでした。性格が子供なんだとか単にダメなやつだとかいう言い方はできるし、まあ八割くらいはその通りと言ってもいいかもしれませんが、陽一にも辛さがある、というのが私の立場です。陽一って「ふつう」からけっこう逸脱している人だと思うのですが、それがしゃべれないことの理由のひとつではないのかなと。

自分が思ったことをはっきりと言葉にしたうえで、それがたいてい受け入れられる人と、十中八、九否定されるひとがいるとして(いるのですが)、その発話という経験を繰り返していくうちに学ぶものっていうのは違ってくると思います。ざっくり言えば、みちは前者、陽一は後者です。お互いに思っていることを言って話し合いましょう、というのは後者にとってとてもしんどいことです。私は陽一に感情移入していたので、みちに「なんでそんな大事なこと黙っていたの」かと詰められても、(それがそもそも大事なことだとすら思っていなかった)という本音も言えないと思いましたし、そのあとの「子供つくってもいいよ」というのにも特に悪い意味はないと思いました。いない方がいいけど、みちがいなくなるよりはいい程度には、どっちでもよかったので。かたや、質問の正解を求めた陽一に、「みちの子供がほしいと言ってほしかったんだよ」と教え諭すように言えてしまうみちは、マイノリティの対極のような存在です。

上のような書き方をすると、みちがきらいみたいに見えるかもしれませんが、そんなことはありません。奈緒さん演じるみちは、とても魅力的なキャラクターでした。ただ、自分のふつうを無条件に相手にも押し付ける「ふつうさ」があったな、と思います。(みちの善良そうなイメージを絶妙に維持された奈緒さんの演技は本当にすごかったとおもいます。)

正直この観点については、私にとって過敏なポイントなので、ほとんど当てつけかもしれません。陽一の心理もほぼ私自身を投影した妄想です。なので、そうはいっても妊娠をするかどうかの現実的な問題を引き受けるのはほぼ女性なのであって、陽一の態度はあまりに無責任だ、といったまっとうな指摘などについては、ここでは議論しません。

まとめ

最後ごちゃごちゃ妄想を書いてしまいましたが、みちと陽一のような人たちがいることを正面から描き切ってくれたこと、そこによいもわるいも判断をもうけなかったこと、がとても嬉しく感じました。この夫婦がこの後どうなるのか、会話をできるようになるのか、会話なしでも夫婦として添い遂げるのか、それともまたしばらくしたら同じようなすれ違いをするのか、それはこの夫婦の問題ですね。

最後に画面にもあらわれた「あなたがしてくれなくても」は、もちろんセックスでもあり、「はなしを」でもあり、「りかいを」でもあり、どれだけ近くにいる人でも、自分とは別の人間なんだ、それでも私があなたを愛す、という決意であったら、いいなぁと思いました。

かさねて、この作品をつくってくださった、演者の方、関係者の方、素晴らしい時間をありがとうございました。





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