草花(そうか)

ライター|校正・編集者| 2019年開業。早稲田大学を卒業後、自動車メーカー広報部に1…

草花(そうか)

ライター|校正・編集者| 2019年開業。早稲田大学を卒業後、自動車メーカー広報部に10年勤務。FP2級&終活アドバイザー。愛玩動物飼養管理士。欧州からの帰国子女で猫好き。noteはエッセイ中心です🌸

最近の記事

  • 固定された記事

【ポートフォリオ】

はじめまして。ライターの草花(そうか)と申します。猫が好きです。 エッセイにもお仕事を広げたいと思い、私がどのような執筆をしているかをご紹介したく、こちらのnoteを立ち上げました。お仕事のご相談はTwitterのDMよりお願いいたします。 自己紹介 広島県出身。 高校卒業までベルギーで育つ。 早稲田大学を卒業後、新卒で自動車メーカー広報部に就職。 10年間勤務した後、私事の都合で退職。 大学職員やブランク期間を経て、2018年よりライターとして本格稼働。 2019年に

    • 2024年の抱負

      明けましておめでとうございます。2024年も、もう8日も過ぎてしまいました。 新年の抱負というほど大したものではないですが、せっかくなので今年の目標を自分へのメモとして記録しておきます。 2024年の目標 目標は3つ。 ◆キャリコン試験の合格 ◆キャリコンの資格を生かせる仕事を見つける ◆自分らしい記事を書く まず、昨年どうにか養成講習を修了したキャリアコンサルタント(国家資格)の試験合格を目指すのが、前半の大きな目標になります。試験は大きく分けて、①学科と②実技(

      • ライターの仕事、いつまで続ける?

        ここ数年、表題について幾度となく考えています。2018年から本格的にライターの仕事を始めて今年で6年目。希望としては10年間は続けたいけれどライターの仕事特有の課題や壁に突き当たる度に「この先も果たして続けていけるかな?」と感じることがあります。どのような仕事でも「マンネリ感」や「人間観関係の悩み」はあるでしょうが、さらにライターの仕事には次のような課題があると感じています(正直ベース) 1.足踏み感ライターの仕事には、会社員のような定期的な昇給や明確な昇進はありません。気

        • ライター歴6年目の私が仕事を継続するためにやってきた3つのこと

          たまにはお仕事の話を。あらためて自己紹介をすると、私は元メーカー広報の経験やさまざまな資格を生かして幅広いジャンルに対応するフリーライターです。2018年から本格的に在宅でライティングのお仕事を初めて今年で6年目になります。個人事業主として開業してからは5年目です。今回は、どこかのタイミングで一度書いておきたかった自分なりのお仕事を継続するポイントについてまとめてみます。 私が営業が苦手な理由は2つ はじめに正直に告白すると、私は営業が苦手です。「ライターたるもの、どんど

        • 固定された記事

        【ポートフォリオ】

          25年ぶりの再会と郷愁

          6月は個人的に卒業シーズン 6月といえば、日本では梅雨のイメージが強いが、私にとって6月は「卒業シーズン」でもある。私は中学3年生でベルギーのインターナショナルスクールに転校し、高校卒業まで在校した。海外では一般的な「9月入学・6月卒業」の学校だったので、中学と高校の卒業式はいずれも6月だった。 25年ぶりに再会したあの帽子 実は、昨年から両親の暮らす実家の荷物の整理をしている。偶然にも先月のこと、私は高校の卒業式で被った鮮やかなブルーの帽子を見つけた。インターの高校の

          25年ぶりの再会と郷愁

          「それでも日本語が読みたい!~怖い漫画しかないよ編~」(ベルギー物語1986年)

          私は小学1年生から数年間、ベルギーの首都ブリュッセルに住んでいた。父の仕事の都合で一家四人で赴任していたのだが、海外生活の中で子どもながらに最も不自由を感じていたのは、「当たり前のように日本語を読めない・聞けない」環境だった。 赴任したのは今から36年前の1986年。当然インターネットなどない。今なら海外に住んでいてもネットで日本語のニュースを見たり、電子書籍を読んだりできる。しかし当時はそんな技術などなく、日本語の衛星放送すらなかったのでテレビを付けてもフランス語か英語の

          「それでも日本語が読みたい!~怖い漫画しかないよ編~」(ベルギー物語1986年)

          「君の名は。」〜姉が子猫を保護した話〜

          ちょうどひと月前のこと、姉がうちのマンションの駐輪場で生後2ヵ月の小さな小さな子猫を保護した。近づいても逃げないほど衰弱していて片目は開いておらず。最後の力を振り絞るように姉を見上げて懸命に鳴く姿を見て、とても放っておけなかったらしい。 すぐにかかりつけの動物病院へ。体重はわずか500グラムで体温も36度台。振り返るととけっこうきわどいラインだったが、診察台で差し出したエナジーペーストにがっつく姿には、「生きようとする力がある!」と感じられたそうだ。 うちにも姉のところに

          「君の名は。」〜姉が子猫を保護した話〜

          人生、すべては繋がっていると感じた愛猫との思い出

          この春に長年連れ添った愛猫が旅立った。生後4カ月でわが家にやってきた。あと少しで11歳になれそうだった。彼女は6歳で片方の腎臓の萎縮が見つかり、それから何年も慢性腎不全で闘病していた。ステージ初期のときには療法食と投薬だけで安定していたが、3年前に血液検査の結果が急激に悪化。そこからは自宅での点滴治療が始まっていた。 仕事を諦めて打ち込んだ不妊治療私は30代前半、何年も不妊治療をしていた。なかなか結果が出ずに治療は最終段階(顕微授精)にまで進み、そのときは毎朝半泣きでお腹に

          人生、すべては繋がっていると感じた愛猫との思い出

          窓辺で待つ猫

          14歳。人によっては、人生で一番楽しく自由な年齢と答える人もいるかもしれない。しかし、私の場合、当時の生活はまさに戦いの日々だった。 父の仕事の都合で広島から遠く離れたベルギーに転勤になってから、ひと月が経っていた。中学3年生の秋。私は14歳だった。 「高校受験をしなくて済むから」という親の言葉を信じて、中学受験で入学した中高一貫の学校を泣く泣く辞め、転校した先はベルギーの首都、ブリュッセルにあるインターナショナルスクール。 校舎は森の中の広大な敷地にあった。学校の事務

          窓辺で待つ猫

          外からのイメージと本当の自分

          私が生まれたとき、母は看護師さんにお願いして二回も血液検査をしたそうだ。なぜならば、娘さん(私)は「B型」と言われて、その結果に納得がいかなかったから。わが家は母がA型、父がB型なので、当然その子どもとなれば、B型である確率も半分くらいあるのだが・・・笑 私の母は室町時代に行っても、おそらく模範人として生きていけるであろうというくらい、ものすごーく真面目で几帳面、完璧主義な人。ちなみに元銀行員(ピッタリ!)である。 一方、父はほのぼの系で、10歳離れた優しいお姉ちゃんの弟

          外からのイメージと本当の自分

          私に、「産まないのか、産めないのか」と言ったタクシー運転手への対処法

          こんにちは。草花です。 これは、noteで必ず書こうと思っていた実話です。不妊治療をされていた方やストレスマネジメントに興味がある方は、よかったらご一読ください。 私は現在夫婦と猫の生活ですが、もう10年近く前、30代前半~は何年も不妊治療をしていました。私は20代で結婚しました。会社の同期の中では結構早いほうだったと思います。しかし、どうしても子どもができず、幾度もの春が手のひらからこぼれ落ちていきました。 共働きで、子どもの件以外は、仕事も家庭生活も非常にうまくいって

          私に、「産まないのか、産めないのか」と言ったタクシー運転手への対処法

          マイノリティーである

          最初の記事は自分のアイデンティティーに通じる内容にしたいと考えたところ、頭に浮かんだキーワードは「マイノリティー」でした。 なぜかというと、物心ついてからずっと、自分はメジャーロードを走ってるなあと思ったことがありません。 初めにそう思ったきっかけは6歳のとき。 親の仕事の都合でベルギーというヨーロッパの小国に転勤になり、 広島で何の疑問も持たずにのほほんと暮らしていた女の子から急に、「アジア人の女の子」という超マイノリティーの立場となりました。容姿的にも、言語的にも、文

          マイノリティーである